五日目・赤いオムレツ
「……か……くん……なか……くん……」
「………………」
「中矢君!」
「……ああ……?」
耳に響く声に、少年はうめき声を漏らす。机に突っ伏していた頭を上げると、正面で一人の少女が腕組みをして仁王立ちしていた。
「……なんだ、衣笠か……」
いまだはっきりしない意識の中、少年は呻くように言う。
「なっ……なんだとはなによ。次移動なのに眠りこけてるから、わざわざ起こしてあげたんじゃない」
腰に手を当てて、むっとした表情になる衣笠。縁の大きな眼鏡と女子学生らしい長い黒髪が相まって、その仕草は漫画に出てくるような委員長的キャラクターを想起させた。
「いどう……ああ、五限は体育か……つーか、飯食ってねぇ……」
四時間目の授業が終わって昼休みに入って直ぐ、眠気に耐え兼ねて自分の席で仮眠を取っていたことを思い出す。教壇の前の時計を確認すると、予鈴まであと十分しかない。昼食は諦めるしかなかった。
「…………なんか忘れてる気がする」
もう直ぐ昼休みが終わる。そのことが、何か重要な意味を持っていたはずだということに、少年は気付いた。何か、昼休みに必ずしないといけない、大切なことが有ったはずだ。なんだっけ……。
「…………っだぁ! ヤバい!」
幾ばくかの思考の後、少年は思い出す。それから大慌てで鞄から携帯を取り出し、メッセージアプリを起動して、文章を打つ。一瞬の間も無く既読の表示が付き、返信が来る。
「……また、例のあの子? 雨音ちゃん、だっけ?」
「ん……ああ、まぁ」
高速でスマートフォンの画面をタップしながら、少年は生返事を返す。
と、その時、少年の手の中のスマフォがブルブルと振動し始めた。画面には「雨音」という表示が出る。
「…………しょうがない」
少年は一瞬躊躇ってから、応答ボタンを押した。
『もしもし、お兄ちゃん……?』
「俺だ。ごめんな雨音、連絡出来なくて」
『ううん、雨音こそお電話してごめんなさい。どうしてもお兄ちゃんの声が聞きたくて』
「ちょ、ちょっと」
通話を始めた少年に、衣笠が言う。
「うちは携帯の持ち込み禁止なの知ってるでしょ? 電話なんかしてたら」
『お兄ちゃん? 今の声はだれ?』
「……ごめん雨音、分かってると思うけど、学校では電話は出来ないんだ。あとでまた連絡するから」
『だれと居るのお兄ちゃん? いま女の人の声が』
「それは……他のクラスメイト同士が喋ってる声だよ。今教室だから」
「中矢、本当にヤバいって! 先生がこっち来てる!」
少年の席は窓際だ。外の廊下を見た衣笠が血相を変える。
「分かってる!」
スマフォのマイクに手を被せながら、押し殺した声で言う。
「雨音、ほんとにごめん。帰ったら絶対埋め合わせするから」
『お兄ちゃん待っ』
終話ボタンを押した少年は、即座にスマフォをカバンに放り込む。それとほとんど同時に、教室の入り口からぬっと大柄な教師が現れた。
「君たち何時まで残っているんだ、はやく移動しなさい。男子はグラウンド、女子はプールだぞ」
良く通る低い声でそう言う教師に、
「は、はーい」
と、二人して強張った作り笑いで返事をする。それで何事も無く、教師は廊下の向こうへと去って行った。
「……っぶねぇ……」
冷や汗を手で拭きながら、少年が胸を撫で下ろす。雨音の電話を無理に切ってしまったのはかなり不味いが、幸い今朝の雨音はかなり機嫌が良かったし、あとでちゃんと説明すれば大丈夫なはずだ。
「……ねぇ、雨音ちゃんは当然、うちの校則知ってるはずよね? なのになんで電話を?」
同じくほっと一息吐いてから、衣笠が言う。
「ん……多分、今日は昼の連絡がギリギリになっちまったから、それで我慢出来なくなったんだろう」
少年がそう答えると、衣笠の眉が小さく寄った。
「雨音ちゃん、そこまでべったりなの? ……ひょっとして、あんたが今やたら眠そうにしてるのも、それが原因?」
「……まぁ、昨日の夜にちょっとぐずついて。連休明けは何時もこうだから、別に大丈夫だよ」
「いつもそうなら、なおさら大丈夫じゃないじゃない……。ねぇ中矢、あんたほんとに大丈夫? 最近いっつも難しい顔してるし、たまに目に隈作ってるし……」
「大丈夫だって。最近は雨音の調子も良いんだ」
今朝の雨音の様子を思い出しながら言う。昨日の深夜こそ普段通り荒れはしたが、何時もなら登校の為に家を出る際大変な労力が掛かるところを、今朝の雨音は殆どごねずに少年を送り出した。これはきっと自立の始まりの現れだと、少年はそれを喜んでいた。
「っていうか、もう移動しないと。衣笠も早く行った方が良い」
スポーツバッグを机の横から手に取って、少年が教室の外へと向かおうとして立ち上がる。
「あっ、ちょっと! まだ話は終わって」
「お互い遅刻は不味いだろ?」
「そうだけど……もう。ならせめて、これだけでも持っていきなさい」
少年がこれ以上話を続ける気がないのを察した衣笠が、少年の前に腕を突きだす。その手にはコンビニのビニール袋が握られていた。
「なんだ?」
「カロリーメイトと水。校則違反だけど、それなら歩きながらでも胃に入れられるでしょ」
「……お、おう? ありがとう」
衣笠の気遣いに微妙に困惑しながら、少年はそれを受け取った。
「それじゃね」
「待て、これいくらだ」
「良いわよお金なんて。それより急ぎなさいよ!」
「あ、おい!」
それだけ言うと、衣笠はプールバッグを手にさっさと教室を出て行ってしまった。
一人教室に残された少年は少しの間首を傾げていたが、予鈴が近づいていることに気付くとグラウンドへの廊下を急いだ。初めて食べたカロリーメイトは、存外少年の口に合ったという。
「ただいま」
玄関で靴を脱いでから、二階に向けてそう声を掛ける。すると二階から人間が転げ落ちるような音が、
「…………雨音?」
しなかった。
何時もなら直ぐに返ってくるおかえりの声がない。家の中はしんと静まり返っている。不吉な予感に突き動かされて、少年はスマフォを取り出し、メッセージアプリを起動する。「今から帰るよ」に、既読が付いていない。
「……雨音!」
スマートフォン諸共通学鞄を玄関横に投げ出して、少年は二階への階段を駆け上がる。それから雨音の部屋の扉を、蹴破るように開く。
だが、そこには誰も居なかった。室内の様子は普段と変わらない。ただそこに、雨音が居ないと言うだけで。
「ど、何処だ? 雨音? 雨音!」
雨音の部屋を出る。すると、耳に何か小さな音が聞こえてくることに、少年は気付いた。
「~~~~♪ ~~~♪」
それは鼻歌だった。この曲は知っている。雨音がまだピアノをやっていた頃、彼女が好きで良く弾いていた曲。美しく青きドナウ。
甘い声音で紡がれるその歌は、とても美しかった。少年はまるで誘われるように、音の発生源である二階のダイニングルームに入る。
「………………雨音」
「あっ、おにいちゃん! おかえりなさい!」
部屋に入って直ぐ、カウンターキッチンの向こうに立っていた雨音と目が合う。雨音がペタペタと足音を鳴らしながら、少年に駆け寄り、思い切り抱きつく。
「おにいちゃん、がっこうはたのしかった?」
「……なにを、してたんだ?」
食事用のテーブルと床の上を見ながら、少年が訊く。
「これ? えへへ、これはねー……なんと雨音、お料理にちょうせんしてみたのです! おにいちゃんこの前、てれびを見てこれ美味しそうだなぁって言ってたでしょ?」
雨音がテーブルを指す。そこには不格好なオムレツが乗った大皿が、三つ置かれていた。三つのうち二つは、卵がやぶれてひき肉が中から溢れたり、表面が焦げてしまっているが、一つだけは綺麗に整った見た目をしている。そしてその全てに、赤黒いどろっとした液体が、たっぷりと掛けられていた。
「おうちの卵とおにく、かってに全部つかっちゃってごめんなさい。なかなかうまくできなくて」
「…………雨音」
少年がゆっくりと、テーブルに歩み寄った。そこに有るオムレツを見て、言う。
「この上に掛かってるの、なんだ?」
「ケチャップだよ?」
少年の質問に、ノータイムで雨音は答える。
「違う、だろ?」
「………………えへ。えへへ」
雨音が笑う。にこにこと、えへへと、笑う。
雨音が再び、少年に抱き着いた。
「おにいちゃん、がっこうはたのしかった?」
「…………雨音」
雨音が両手を伸ばして、少年の頬に触れる。真っ赤なパジャマの裾がするすると落ちて、雨音の二の腕が露わになる。
「ね、おしえて? がっこうはたのしかった? お友達とのおしゃべりはたのしかった? 雨音じゃない女の人と、なにをおはなししたの?
おしえて?」
「……聞いてくれ、雨音。違うんだ。あの時電話を切ったのは、本当に、どうしようない理由があって」
「あー、たいへん!」
突然雨音が大きな声をあげて、テーブルの方へとぺたぺたと走る。そこにあるオムレツを見て、
「はやく食べないと、せっかくのおりょうりが冷めちゃう! ほらおにいちゃん、はやくそこに座って! 今日は雨音がおにいちゃんに『あ~ん』してあげるね!」
そう言って、雨音がテーブル椅子に座り、横に置いてあったスプーンを手に取る。
「ねぇ、おにいちゃん」
「雨音のごはん」
「食べてくれるよね?」
少年は、黙って席に着いた。
オムレツ食べてた人はごめんなさい。
衣笠は、きぬがさ、と読みます。一応メインキャラ(予定)なので、名前だけでも覚えてやって貰えると嬉しいです。




