九日目・ヒトリノ夜
一人になりたい。
サンダルがしゃり、という音を立てるのを聞きながら、少年はベランダに出た。むわっとした風が、少年の頬を何度も撫ぜる。
外は真っ暗で、周囲の民家の窓にも光は見えなかった。それもそのはず、今は既に日付変わって深夜一時過ぎという時間だ。
雨音は一度寝付けばそう簡単には起きない。しばらくはこうしていても大丈夫だ。ややピントのずれた頭でそう考えながら、欄干にもたれ掛かることもなく、ただつっ立ったって暫くぼんやりする。
そうしていると、少年は無性に煙草が吸いたくなった。と言っても、少年には煙草を吸う習慣はない。吸ったこともない。ただ何か、なんでもいいから、ふっと息を吐ける何かが欲しくなった。大人が何故高い金と病気のリスクを払ってまで喫煙を続けるのか、なんとなく分かった気がした。
「……どうすっかなぁ」
未だに機嫌の直らない雨音のことが、少年の頭をよぎる。
既に考えられる手は全て試した。先三日間は学校を休んで傍に居た。恥ずかしく馬鹿げた恋人ごっこにも嫌と言うほど付き合った。雨音の「手料理」も、作られたものは全て食べた。それでも駄目だった。これ以上、どうすれば良いのか?
……どうすれば良いか。
それは、少年が、ずっと考え続けていることだ。
少年は、雨音は最近、良くなってきていると思っていた。手首の傷は増えなくなり、日常生活に必要な補助もかなり減ってきた。言動にはいまだ不安定なところもあるが、そもそも話すことさえ出来なかった頃に比べれば雲泥の差が有る。
この調子なら、雨音が普通の女の子に戻ってくれる日も遠くないはず。そう信じていた。
だが、現実はこれだ。ただ電話を途中で切られたというだけで、ただ少年が自分以外の異性と親しげに話していたというだけで、雨音は精神を持ち崩した。これで回復に向かっているなんて言えるはずがない。そして残された時間はもう半分近くまで目減りしている。客観的に言って、状況は絶望的としか言いようがなかった。
どうすれば、良いんだろう。
自分の内心が弱気になっていることに、少年は気付く。けれどどうしようもない。雨音の心は病んだままで、ただ時間だけが過ぎていき、約束の日が近づいてくる。焦りが募る。思考が逸る。
そうすると、少年にとって良くない思考が生まれる。すなわち、「なんで俺がこんな目に」、という思いだ。それは少年にとって、何より辛いことだった。
心の何処かで雨音を疎ましく感じ始めている自分に愕然したのは、もう何週間も前のことだ。もちろん、今の雨音の行いや存在自体を悪いとまでは思わない。彼女が負った傷を思えば、ワガママな振舞いも度を越した歪んだ愛情表現も、仕方がないものだと少年は思う。
なにより、雨音と雨音の傷を背負うと決めたのは、他でもない少年自身なのだから。
けれど、それと少年自身の心の耐久度とはまったく別の問題だ。いかに雨音が同情に値する少女だとしても、そんなこととは関係なく、少年の心に負荷は溜まる。
決意は無限の力を生むわけではなく、愛は鎮痛剤になどなりはしないのだから。
今こうして、わざわざ気温の高く過ごしづらいはずの室外に出てきたこと。それこそが、少年の状態を如実に表していた。少しの間で良いから、少年は雨音の傍から離れたかった。一人になりたかった。
ベランダに出てから、十五分ほどが経っただろうか。気付けば少年の額には大量の汗が浮かび、体にはぴったりとシャツが張り付いている。その汗は夏の夜風によるものなのか、あるいは別のものが原因なのか。
逃げ場所が欲しい。少年は切実にそう思った。
逃げたい訳でも投げ出したい訳でもない。そんなつもりはない。けれど、ほんの一時で良いから、休める場所が欲しい。
そんなことを思ってしまう自分の心を自分自身で責め、自分を責める自分の言葉に理不尽だと腹が立ち、結果自分同士の殴り合いが心の中で始まる。そうしてますます疲弊していく。それがここ最近の少年の悪癖となりつつあった。
「……やめだ、馬鹿馬鹿しい」
無益な脳内会議を頭を振って無理やり打ち切ってから、少年はベランダから雨音の待つベッドに戻る。寝室に入り、雨音が安らかに寝息を立てているのを見て、少年は心が微かに癒されるのを感じた。
そうだ、俺はまだやれる。この愛らしい少女が、もう一度心から微笑んでくれる日が来るのなら。俺はまだ、頑張れる。
汗ばんだ体が少し不快でシャワーを浴びて来たかったが、雨音のことを思えばそこまで長い間ここを離れることは出来ないと判断し、大人しくベッドに入る。
「おやすみ、雨音」
小さくそう呟いてから、目を瞑る。空調の効いた室内では隣に横たわる雨音の体温は心地よく感じられ、昼間の疲れもあってか、少年は直ぐに眠りへと落ちていった。
時刻は一時二十分。
夜明けまでは、未だ遠い。




