三日目・倦怠期な二人
「新婚ごっこをします!」
「……またか」
鼻の穴を膨らませながら意気揚々と言う雨音と、対照的に諦めたような遠い目で応える少年。朝食を済ませた後、少年が雨音に、「今日は雨音のしたいことに幾らでも付き合うよ」と伝えた直後のことだった。
「まぁ、良いんだけどさ……たまには別のこともしないか?」
「べつ? お兄ちゃんはおしどり夫婦ごっこの方が良かった?」
「いや、その二つはほぼ同じだから。二アリーイコールだから」
少年の言葉に、雨音は「?」と首を傾げる。
……これに突っ込むのはまた今度にしよう。と、少年は考えた。昨日の課題地獄で脳がまだ疲れている。雨音との蒟蒻問答で発狂しない自信がない。
「まぁ、じゃあ、良いよ。やるか、新婚ごっこ」
「うん! それじゃあお兄ちゃん、お仕事から帰ってくるところからね」
「はいよ」
少年は立ち上がり、律儀に一度部屋の外に出る。それから口で「がちゃがちゃ、ばたん」と棒読みの効果音まで付けて、再び部屋の中へと戻った。
「ただいま」
「おかえりなさいっ!」
「んぶっ……」
部屋に入るなり、熱烈な口づけを食らう。ほとんど頭突き染みた勢いで突進しながら、唇同士が触れる瞬間にはしっかりと速度を殺すこの技術。雨音は慣性と常識の外で生きていた。
「ん……あなた、今日もおしごとご苦労様でした。ご飯とお風呂どっちが先が良い?」
長い口づけを終えてから、雨音が言う。
「……風呂で」
「もうっ、お兄ちゃん!」
雨音が唇を尖らせ、少年より頭一つ低い位置からジトっとした目線を送る。
「お兄ちゃんは今新婚さんなんだから、そこはお風呂じゃないでしょ! はいやり直し!」
「…………はい」
「こほん。では……あなた、今日もお仕事ご苦労様でした。ご飯とお風呂どっちが先が良い?」
「…………お前が良い、な?」
「きゃあ♪ あなたったら♪」
「ちょ、ちょっと待って。一回休憩させて。マジでしんどい」
頬に手を当てて嬌声を上げる雨音の横をすり抜けて、少年は部屋の隅のベッドへ倒れ込む。
「お兄ちゃん、どうしたの? ……もしかして、雨音と新婚さん、いやだった……?」
「いや、そうじゃない。別に雨音とだからじゃなくて……単純に甘すぎるだろ、これ……」
少年は男女交際というものをしたことが一度無い。それはモテなかったからではなく、彼が生真面目過ぎたのが原因だ。少年は男女交際なんて学生には百年早い、肉体関係どころかキスだって結婚までは控えるべき、手を繋ぐのだってけしからんという価値観を持つ、シーラカンス並の生きた化石であった。ゆえに、こういった「いちゃいちゃ」には全く免疫がないのだった。
「何か、何か甘すぎないものを……このままじゃ砂糖が喉に詰まって死ぬ……」
「えっと、雨音良く分からないけど、お兄ちゃんは別の遊びがしたいってこと?」
「まぁ、有り体に言えば……たまになら我慢できるが、こう連日いっちゃいっちゃいっちゃいっちゃさせられると、割と精神に来る」
雨音のしょんぼりとした顔を見ながら、少年は考える。
雨音が望んでいるのは、少年との恋人、あるいはそれに準ずるなんらかの関係のごっこだ。なら、その中で何か甘すぎない関係を選べば良いはず。
「…………あっ、そうだ! 倦怠期ごっこにしよう!」
「けんたいき?」
「そう! 雨音も名前は聞いたこと有るだろ? 長いこと夫婦だった男女が、時間の流れに合わせて、その……落ち着いた関係になるアレだ! あれにしよう!」
「……うーん」
少年の提案に、雨音は難色を示す。雨音とて当然、倦怠期という言葉の意味は知っていた。だから、当然、気が進まない。
「な、そういうのもたまには良いだろ?」
「……お兄ちゃんがそこまで言うなら……」
不承不承という感は否めないが、それでも雨音は首を縦に振った。二人の時間の過ごし方について、少年が希望を出すことは珍しい。雨音はそれが嬉しかった。
「よし、それじゃ始めるぞ。日曜の昼間に二人で居間に居る設定な」
「う、うん」
ベッドから起き上がり、部屋の中央にある直起きのテーブル前に座る少年。雨音はその正面に何故か正座した。
「……………………」
「……………………」
沈黙。
「……………………」
「……………………あ、あれ? お兄ちゃん?」
「茶」
「え?」
「茶」
「……え、えっと……」
室内に天使の大群が通り過ぎて行った後、少年が発した単語の意味が分からず雨音は困惑する。
「……はぁー……茶。喉が乾いた」
「あ、うん! お茶だね! 分かったよおにい……じゃなくて、あなた! 直ぐに入れて来るね!」
雨音が慌ただしく部屋を出て階段を降りていき、それからお茶の入ったコップを持って戻ってくる。
「は、はい!」
「ん」
雨音はお茶を手渡そうとしたが、少年はそれに目もくれない。
「え、えっと……」
「……………………」
やむを得ず雨音はそれをテーブルの上に置いた。
「……お茶、入れてきたんだけど……」
「………………」
「喉、乾いてたんじゃ……」
「野球」
「え?」
「……はぁー……だから、野球。今は新聞読んでるんだよ。昨日の、野球の記事」
見れば、少年は何時の間にか手に今日の新聞を持っている。
「あっ、そ、そうなんだ……ごめんなさい……」
「…………はぁー……」
「……あ、あの、出来たら、次からは単語だけじゃなくて、ちゃんと喋って貰えたら助かるかなって……あと、ため息もやめてほしい、です……」
「…………仕事で疲れてるんだよ」
「それは分かってるけど……」
「…………チッ」
「ひうっ!?」
雨音がびくんと肩を震わせる。
「……え、えっと、あの……」
「ああ? なんだ?」
「お、お兄ちゃ……じゃなくて、あなた今、舌打ち……」
「あー……癖だ癖。ほっとけ」
「え……し、舌打ちが癖って、絶対やめた方が良いよおに……あなた。そんなの、みんなに嫌がられちゃうよ、ぜったい……」
「………………チッ」
「ひゃう!?」
再度雨音が震える。その目には涙が滲み始めている。
「……ストレス溜まるんだよ、会社で仕事してると。それで癖になったんだ。文句有るか?」
「も、文句とかじゃなくて……ただ、やめてくれたら、嬉しいなって……」
「出て行っても良いんだぞ」
「……え?」
「嫌なら出て行っても良いんだぞって言ったんだ。こんな中年オヤジの世話、どうせ嫌でしょうがないんだろ」
「そ、そんなこと」
「チッ」
「ひっ!」
雨音の全身がガクガクと震え始める。
少年の演技力が、特に理由もなく、無駄に爆発していた。
「……もう良いからお前、買い物にでも出てこい。休みの日くらいゆっくりさせてくれよ、ったく……」
「…………ぐすっ」
「ん?」
「……くっ……ひっ……う、うえええええええええん!」
「うおああああ!?」
突然目から滂沱の涙を流し泣き声を上げ始めた雨音に、少年は心底驚いた。というより、正気に返った。
「あ、雨音泣かないでくれ! 俺が悪かったから!」
「……ひぅ……うっく……ううう……」
「ごっこだってごっこ! ただの遊び! 俺ほんとは雨音のこと大好きだぜ? な?」
「…………ずずっ……ほんとぉ……?」
「ほんとだほんと! もし俺と雨音が結婚して百年経っても、絶対今みたいなことにはならないって! 絶対、ずーっと好きなままだ!」
「……えへへ」
雨音がそっと自らの涙を手で拭う。
「百年は経たないよぉ」
そう言いながら、雨音が微笑む。その頬には、まだ涙の痕が残っている。
「…………ああ、そうだったな」
そう答えながら、少年は密かに付け加える。そうだけど、でも、そうじゃなくしてみせる。
「それじゃあお兄ちゃん……雨音と新婚ごっこ、またしてくれる?」
「うっ……あ、ああ。もちろんだ」
「いちにちじゅう?」
「……うん、一日中」
「やったぁ!」
雨音が立ち上がり、ぴょんぴょんと飛び跳ねて喜ぶ。少年は頬を引きつらせて笑う。
穏やかな日曜日が、ゆっくりと過ぎて行った。
ここらで一つ評価が怖い。ギャグとシリアスどっちに振ろうか迷っているので、参考意見とか頂けるととても嬉しいです。エタる確率も、多分若干下がります。
……っていうかこれ見てる人居るんですかね?




