一日目・夜
食事が済んだあと、いつもの習慣通り、少年は雨音をお風呂に入れた。雨音は少年が付き添わない限り、決して入浴をしない。というより、生きるのに必要な行為一切を放棄する。排泄に補助が必要なくなるまでの期間の名残として、今もまだ脱衣所の隅には、封の空いた大人用おむつが置かれている。
「伸びてきたな、髪の毛」
「んー? そうかなぁ?」
雨音の髪を拭いてやる最中、他愛のない会話を交わす。雨音のショートヘアは、洗髪時の少年の手間を少しでも減らす為のものだ。雨音は少年が望めば頭を丸坊主にすることさえ厭わないはずだったが、少年はそれを望まなかった。女子の髪のケアにどれだけ面倒な手間が掛かろうと、少年は雨音の髪が好きだった。
雨音はかつて、腰まである長い髪を携えた少女だった。その理由が染み込んだ雨音の背中を見て、少年はまるでカビのようだなと思う。真っ白な食パンに繁殖した、青く黒々とした黴。それは少女の肉体に対する比喩としては惨すぎるものだが、その程度の同情は今更何の役にも立たないし、救いにもならない。少女の肉体に巣食う黴は、もはやその肉や骨まで超えて、少女の魂にまで達しているのだから。
その傷を隠さずとも良くなったことを、せめてもの救いに感じてくれれば。それなら自分も、少しは救われる。雨音の髪を拭いてやり、ドライヤーをかけながら、少年は何時もそう思う。それが、自身の欺瞞に過ぎないことに気付きながらも。
「よし、終わった。今日はもう寝るか?」
「うん。当然、今日もおにいちゃんと一緒に寝るからね!」
ご機嫌でそう言う雨音にはいはいと返事をしてから、少年はパジャマから別のパジャマへと着替えさせた雨音を連れて、二階に上がる。それから寝室に移動して、二人一緒に布団に入った。
「おやすみ」
少年が言う。しかし、雨音からの返事は無い。
「どうした?」
雨音は目を開けているから、眠っている訳ではない。ベッドの隣でただもじもじしている雨音の言葉を、少年は辛抱強く待つ。やがて、雨音がこう口を開いた。
「その……また、あれしてくれないかな?」
それを聞いた少年は、心中で密かにため息を吐く。
「……一昨日したばかりじゃないか。あれは一週間に一回だけって言っただろ?」
「ごめんなさい……でも、どうしてもがまんできないの」
微かに潤んだ瞳で、雨音がじっと少年の瞳を覗き込む。ガマンデキナイ。それはつまり、少年に拒否権がないということだった。
「……分かった。でも、今回だけだぞ」
「うん、ありがとうお兄ちゃん。……それじゃ……」
雨音が身をよじらせて、少年との距離を詰める。少年は腕を広げてそれを受け入れ、二人はベッドの中で身を寄せ合った。
少年が、ぎゅっと腕を閉じ、雨音を抱きしめる。次第にその力は強まっていき、雨音が苦しそうなうめき声を漏らし始める。それでも少年は腕に力を込め続ける。
「あっ……ぅ…………お兄ちゃん、だめ……!」
「…………………………」
「もっと……もっとつよくして……!もっと……!」
少年が腕に込めた力を更に強める。雨音の背骨が軋む音が、少年にははっきりと聞こえた。雨音は呼吸すらままならない状態で、少年の耳元に囁きを寄せる。
「っぁ……!……お……にいちゃ…………」
「…………………………」
「……おにいちゃ……は……あまねのこと……すき……?」
「……ああ。愛してるよ、雨音」
「んんっ!」
雨音の身体がひくんと震える。
「もっとぉ……もっと言って……もっとだきしめて……」
「好きだ、雨音。大好きだ。雨音。あまね。アマネ……」
「んっ……はっ……!あっ……んんぅ……! あ、まねもぉ……! あまねもおにいちゃのこと……すきぃ……!」
雨音の下半身が、がくがくと震え始める。
「可愛いよ、雨音。良い匂いだ、雨音。ずっとそばに居るよ。雨音。雨音だけの為に、俺はここに居るよ。雨音……」
「あっ……!あっ……!……おにーちゃ……!……すきぃ……!……おにいちゃん……!おにいちゃ……!」
「愛してるよ、雨音」
「んんんんっ!」
雨音が体を大きく跳ねさせ、その足首がぴんと伸びる。それに合わせて、少年は腕に込めた力を最大にする。
「んっ! あっ! ひぅ……!……あっ……はぁ……ぁぁ……」
数度の痙攣の後、穴の開いた風船のように、雨音の身体から力が失われていく。それに合わせて、少年も雨音を押しつぶさんとしていた腕を解く。
「……おにいちゃ…………」
「おやすみ、雨音」
少年が、雨音の頭を、優しく撫でた。
「……うん……おやすみ、なさい……」
雨音はゆっくりと瞼を閉じ、それからすぅすぅと安らかな寝息を立て始める。
雨音が完全に眠ったのを確認してから、少年はそっとベッドを抜け出した。
用を済ませてからベッドに戻った少年は、雨音がちゃんと眠っているのを確認し、ほっとため息を吐いた。それから未だ火照る体を収める為に、月明かりを頼りに適当な本を読む。しかしどうも文章に集中できず、直ぐに顔を上げてしまった。その際ふと、ベッドの向かいに掛けてあるカレンダーに目が留まった。
A2程度のサイズのカレンダーは、月や日ごとにページをめくるタイプではなく、一枚に一年の暦が全て載っているタイプのものだ。七月十五日までの日付には赤いマジックで大きなバツ印が書かれていて、そのちょうど八十日後、十月三日には大きな丸印が青いインクで書かれている。その下には「やくそく」という、女学生が書くような丸文字が有る。バツも、マルも、「やくそく」の文字も、全て雨音が書いたものだ。
「あと、八十日」
カレンダーを見つめながら、少年は呟く。これまでの百日間、まったく進展がなかった訳ではない。だが、このペースで間に合うのだろうか。
少年は考える。考えて考えて、考える。それから、いつもと同じ結論を出した。
間に合うかじゃない。間に合わせるんだ、と。
それから少年は、雨音の待つベッドへと戻り、眠った。
二日目以降は一話一日形式です。リアルタイム進行ではありません。




