一日目・夕食
「一口で良いから食べてみろって。な?」
「うう……無理だよぉ、お兄ちゃん……」
夜の帳が降り始めた窓ガラスの向こうの景色を背にしながら、少年と雨音はテーブルの椅子に並んで座っていた。
少女の目の前に置かれた皿には、デミグラスソースのたっぷり掛かったハンバーグが、室内の照明を反射しててらてらと光っている。
「ハンバーグ、昔は好きだったんだろ?」
「…………無理なものは無理だもん」
口をきゅっと引き結んで、断固拒否の姿勢を見せる雨音。それを見た少年ははぁとため息を吐く。
「分かった、なら良い。雨音が嫌がってることは俺もしたくないからな」
「お兄ちゃん! 分かってくれたんだね!」
「ああ。……けど残念だ。せっかく雨音に『あーん』ができると思ったんだけど」
その言葉に、雨音の耳がぴくりと動く。
「『あーん』?」
「そう、『あーん』だ。雨音も知ってるだろ? 恋人同士がやるあれだよ」
「……………………」
「でもしょうがないな。雨音がしたくないって言うなら……」
「するっ!」
威勢の良い声と共に、雨音がばしんとテーブルを叩く。テーブルの上に置かれた水の入ったコップが、ぴちゃりという音を立てた。
「雨音、頑張って食べる! だからあーんしてお兄ちゃん!」
「ん、良い子だ。それじゃ、ほら」
少年は横から器用に雨音の正面のハンバーグをナイフ一本で切り分け、それを雨音の口に運ぶ。雨音は恍惚とした表情でそれを受け入れた。
「あーん」
「あーん。……んー! 雨音、お兄ちゃんと恋人同士みた……」
少年の持つフォークの先端を口に含んだ、一瞬あと。雨音の表情が一変する。少年はそれを敏感に察知し、あらかじめ脇に用意してあった洗面器をさっと雨音の口の下へ滑り込ませた。
「おえぇ……うっ……げほっげほっ」
小さな肉の欠片と少量の透明な液体が、ぼたぼたと洗面器の中に落ちる。少年は何も言わずに雨音の背中を摩った。
「けほっ……ごめんなさい、お兄ちゃん。せっかくお兄ちゃんが作ってくれたのに……」
「いや、悪いのは無理強いした俺だ。良いから口をすすいでおいで」
「うん……」
少年の指示に従って、雨音はダイニングルーム向こうのカウンターキッチンに向かい、流し台で何度かうがいをし、水を飲んだ。
その間に、少年は自分の姿が雨音の視界から外れないよう気を付けながら、おう吐物の入った洗面器を部屋の外へ置いて来る。
「まだ気持ち悪いか?」
再び席についてから、少年が訊く。その質問に、雨音はふるふると首を横に振った。
「なら、いつも通りになら食べられるか?」
「うん。お兄ちゃん、食べさせて?」
雨音が笑って言う。少年はナイフを使って、再びハンバーグを切り分ける。けれど、それが向かう先は雨音の口内ではない。
「……ん」
少年はしばらく顎を動かした後、喉を鳴らして、準備が出来たことを雨音に知らせる。頬を上気させた雨音の顔が近づいてくるのを、少年はじっと待った。
「いただきます」
そう言うと、雨音はそっと少年の唇に自分の唇を重ね合わせた。それから互いに口を開き、舌をもつれ合わせる。雨音はまるでマーキングでもするように、少年の口内をしつこく舌でかき回した。唾液以外のものが少年の口内に一切無くなってようやく、二人の口づけは終わる。
「おにいちゃんの作ったごはんは、やっぱり美味しいね」
雨音は自身の胃に入る食べ物が作られる過程を、最初から最後までずっと見ている。だからそこに掛かっている手間も知っている。料理に掛けられた手間暇の分、雨音は自身が愛されていると感じるのだった。
「……半分ぐらいは、味抜けちゃってると思うけどな」
「おにいちゃんのつば美味しいよ?」
「俺の唾液は調味料扱いか」
結構気合入れて作ったんだけどな、そのデミグラスソース。と、少年が呟く。少年の味わっている徒労感には気付かぬまま、雨音は笑顔で言う。
「お兄ちゃんが食べさせてくれるものなら、雨音はなんでも良いの。だから、残りも全部食べさせて?」
「…………ああ、分かったよ」
『二人の』食事が再開される。
皿の中身が空になった後も、雨音が満足しない限りは、それは続くのだった。




