チクッ!
「嫌だああ!!絶対に嫌だあああ!!」
王都の片隅にある診療所の待合室に、5歳児とは思えない咆哮が響き渡った。
足にしがみつく我が子を見下ろし、お母さんはすっかり白目を剥いている。
「リク、頼むから——聖水を塗るだけだから!」
「嘘だ、針で刺す気でしょ!刺して僕の魔力をぜんぶ奪う気だ!」
これはまた、大変な子が来たな。
私はそう思いながら診察室の重い扉を静かに開け、顔を出した。
「お待たせしました!」
私は自慢の栗色の髪を不敵に揺らしてお母さんの元へ近付き、バチン!と音がするような勢いで親指を立てた。
「あの……」
「お任せくださいっ!」
私の瞳には、かつて数々の死線をくぐり抜けてきた老兵のような深い覚悟が宿っていたはずだ。
それを見たであろうお母さんは、私にコクンと頷いた。
——そして、診察室の中。
リクくんは世界の終わりを迎えたような絶望顔で椅子に座っていた。
今にも涙の大決壊が起きそうだ。
「リクくん、だっけ」
私はスッと腰を落とし、プロフェッショナルな慈愛の笑みを浮かべた。
「リクくん、ドラゴンは好き?」
「……すき」
「実はね、お姉さん、昔『黒炎の暴虐竜』の背中に乗って、第二魔王軍を壊滅させたことがあるんだ」
「えっ」
もちろんそんな事実は無い。
純度百パーセントの嘘だ。
「しかも、そのまま大気圏を突破して、月まで行ったんだよ」
「すごい!!ホント!?」
もちろん行っているはずがない。
そんな事が出来るのなら、今頃私はここにいないだろう。
だが、5歳児のロマンのド真ん中に直撃した手応えがあった。
作戦は成功だ。
「月って、何色だった!?」
「まばゆいばかりのゴールド。ウサギの代わりに、お餅をつくゴーレムがいたよ」
「うわあああ!」
(かかった……! 完全なるコントロール下だ!)
私の脳内で勝利のファンファーレが鳴り響く。
リクくんの背後では、院長が熟練のアサシンばりの無音歩行で近づき、注射器を静かに構えていた。
「それでね、そのゴーレムが『我が名はアルティメット・モチ・メーカー』って名乗ってね——」
リクくんの意識は私の話術により完全に月面に飛ばされている。
もはや腕のアルコール消毒のひんやり感にも気づいていない。
(いけるぞ、レディ)
(ええ、いつでもどうぞ、マスター)
私と院長の視線が交錯する。
「食べさせてもらったお餅、どんな味だったと思う?」
「どんな味だったの!?ゴーレムのついたお餅!」
リクくんの皮膚に針先が触れた。
リクくんはまだゴーレムの餅つきのフォームについて考えている。
完璧だ——完全なるステルス医療。
歴史に残る無痛の奇跡が、今まさに成し遂げられようとしていた。
先生もお母さんも、私も。
誰もが、完全なる勝利を確信した。
「——はーい、チクッ!」
私が出したこの言葉を聞くまでは。
「……ちくっ?」
「あっ……」
診察室の時間が完全に停止した。
院長の動きが止まった。
お母さんの呼吸が止まった。
言葉を発した当人である私は、多分真っ青な顔をしていると思う。
そんな中リクくんだけが、月面から強制送還されたかのようにゆっくりと自分の腕に目を落とした。
ずっぷりと腕に突き刺さっている注射針。
ここまで刺さっていると、既に痛みはないはず。
しかし、『チクッ』と言われたリクくんは——『注射は痛い』という事を完全に思い出してしまった。
「うわああああああああん!! 騙したなぁぁぁ!!」
それをきっかけに、リクくんの涙腺が大噴火した。
「ああっ、ごめんなさい!違うのリクくん!」
「何が違うんだよおおお!!」
「口が!私の口が勝手に!『チクッ』と言ってしまっただけなの!」
私は思わず頭を抱える。
その様子を見て院長が、まるで親の仇を見るような目で額を押さえた。
「……なぁ、君。何回言えばわかるんだ?」
「今度こそ我慢できると思ったんです!でも、あの針が刺さる瞬間の『チクッて言いたい欲』は、人間の三大欲求に含まれてると思うんです!」
「含まれていない。先週も聞いたぞ、その言い訳」
「なんなら前の時も聞きました。リクの注射の時に」
お母さんまで冷ややかな視線で参戦してきた。
いわゆる四面楚歌である。
「だって……だってええ!!」
診療室には、リクくんの号泣と、私の必死の言い訳だけが虚しく響き渡っていた。
なおその後リクくんは、私のマジックアイテムを進呈したところ、劇的に機嫌を直してくれた。
「餅は無いけど、飴ちゃんだよー」
「うま!!」
やれやれ、これで今回も一安心。
そして、次の日。
「——お姉さん、昔、クラーケンと素手で殴り合ったことがあってね」
「すごおい!それで?それで!?」
すうっ……
「ちょ、やめ——」
「はーい、チクッ!」
「うわああああん!!!」
子ども達の病気は治せるけど、私のこの病気はまだまだ治る気配はない。




