なら、いいんですけどねぇ
『いなかったでしょ ~児童館のせんせー』シリーズ 番外 の一つの答えとなるかもしれない作品です。
https://ncode.syosetu.com/s2027k/『児童館のせんせー』
『いなかったでしょ』のみなら、よくある七不思議のひとつです。
児童館とは、児童福祉法第40条に基づき、18歳未満の子供が自由に利用できる児童福祉施設である。
専門の職員・・・児童厚生員が配置され、遊びを通じて子供達の健やかな成長を支えている。
また、施設によっては学童保育(放課後児童クラブ)が併設されている事もある。
これは、そんな場所でのある日の出来事である。
外の遊具を一通り見て回る。
ボルトの緩み、鎖の軋み、砂場の異物。フェンスも壊れていない。いつも通り、問題なし。
報告するほどでもない内容を頭の中でなぞりながら、匠は事務室へ戻る。
ドアノブに手をかけた、その瞬間、中から声が漏れた。
「京子せんせー、この辺りの赤ちゃんの住所ってわかりますかね~。1歳から4歳くらいだと思うんですけどぉ」
足が、止まる。
森もっちゃんの声だ。いつもの調子。軽い、間延びした語尾。
なのに、言っている中身だけが、妙に具体的で引っかかる。
住所。
単語一つで、空気の質が変わる。児童館の仕事で、踏み込む事もある領域。だからこそ、踏み込み方には線がある。
「嫌に具体的ね。昔は児童館の教室の勧誘したいから、とか言えば、教えてくれたものだけどね」
京子の声はいつも通り落ち着いている。
書類でも見ているのか、視線を上げていない気配がする。
「今は個人情報でダメでしょうね」
「わかってますけどぉ、京子せんせー、いろいろ付き合いあるでしょう」
言葉の軽さに反して、引かない。理由をぼかしたまま、必要なものだけを押し出してくる言い方。
匠は、扉に手をかけたまま、少しだけ力を緩める。
普段なら、何も考えずに開けているタイミングだ。挨拶をして、雑談に一言混ざって、それで済む距離。けれど今は、そこに割り込んだ瞬間、会話が一度切れる気がする。
理由を説明されるでもなく、何となく流されるあの感じ。
聞いてしまった以上、何も知らない顔で入るのも、少し違う。かといって、聞き耳を立てていた形のまま入るのも、収まりが悪い。
結局・・・入るタイミングを、失った。
こういう間を壊すのが、少しだけ面倒で。匠は、その場に立ったまま耳だけを残す。
「何とか、なりませんかぁ」
「何をしようとしてるのかしら」
短く返す京子の声に、ほんの少しだけ温度が乗る。
問いというより、線を引く前の確認。
「え~、夜に聞こえてくるんですよねぇ。赤ちゃんの泣き声」
その一言で、背筋に、ぞわりとしたものが走る。
反射に近い。理由を考えるより先に、体が先に拒む種類の違和感。
匠は、無意識に視線を事務室の奥へ向ける。
見えるわけでもないのに、音の出所を探すみたいに。
「普通じゃないの?」
京子はあくまで平坦に返す。否定もしないし、乗りもしない。
「昨日、書類仕事で残業してたんですけどぉ、7時くらいから9時くらいまで断続的に聞こえましたかねぇ?」
匠の指先が、わずかに冷える。
・・・二時間。
子供が泣くこと自体は珍しくない。むしろ、日常の中に幾らでもある音だ。
でも。
時間の長さを、わざわざ言うときは、そこに引っかかりがある時だ。引っかかりがなければ、わざわざ測らない。
「・・・」
京子が一瞬、止まった気配がする。その沈黙が、さっきよりも少しだけ重い。
「長いですよね~」
森もっちゃんは、いつもの調子のまま続ける。けれど、軽さの奥に、観察した事実をそのまま置いている感じがある。
「熱があって、泣いてたとか・・・」
京子の言葉は、可能性を一つ出す形。断定はしない。逃がしもする。
「なら、いいんですけどぉ」
間を置かずに返る。
その言い方が、よくない前提を含んでいる。
匠は、喉の奥に何か引っかかる感覚を覚える。
考えすぎだろ。
そう思う自分と、そういう話を、仕事で何度か聞いてきた自分が、静かにぶつかる。どちらも、間違ってはいない。だからこそ、どちらにも寄り切れない。
「星見の会の時も聞いてるんですよねぇ。7時くらいに聞いて、終わった9時半くらいでしたかぁ?」
その言葉で、匠の中で時間が繋がる。
玄関を一歩入った時、確かに聞いた赤ちゃんの泣き声。それに重なるように誰かが喋るような音。言葉にはならない、けれど意味がありそうな響き。あの時、自分は得体のしれないもの、そう決めつけて怖がっていたけれど・・・背筋が別に意味で冷える。
あれは、わからなかったんじゃない。わかろうとしなかっただけだ。音として拾えば済むものを、説明のつかない何かに仕立てて、遠ざけた。
視線が、無意識に外へ向く。
森もっちゃんが、あの日、何故か玄関の外へ出ていた姿がよみがえる。何気ない動きに見えた、あの一歩。
けれど今ならわかる。・・・確認していた。探していた。
聞こえている音の、出どころを。
あの日のざわつき。
子供達の声。
空を見上げる時間。
その裏で、ずっと続いていたかもしれない別の音。意識していなかっただけで、確かに、そこにあったかもしれないもの。
入るか、どうするか・・・。
ほんの一瞬の迷いの後、扉を押すより先に言葉が続いた。
「ちなみに、別の日の残業でも聞いてるんですよねぇ。怒鳴るような大人の声も」
心臓が、わずかに跳ねる。
怒鳴る声。
あれは。
気づかなかった。気づけなかった、じゃなくて・・・拾わなかった。
同じ場所にいて、同じ時間を過ごして、それでも森もっちゃんは拾っている。
自分は、拾っていない。
忙しかった、で片づけていい差なのか。書類に追われていた、で流していい種類の音なのか。指先に、じわりと汗が滲む。最近、自分も残業していた。
思考の奥から断片が浮かぶ。
匠の頭の中で、断片的な記憶が浮かび上がる。
夜の事務室。蛍光灯の白さ。パソコンの画面。
遠くで何かが響いていた気がする。けれど、それを音として拾っていない。
雑音として流していた。
意味を持たせないまま、処理の外に置いた。
見落とした、という言葉が、やけに具体的な重さを持って胸に落ちる。曖昧な反省ではなく、具体的な失敗として、胸の奥に残る。
「育てにくい子なら、いちお~うちの範囲でしょ~。それ以外なら、虐待・・・」
「そんな簡単に決めつけないでっ」
言葉が差し込まれる。
はっとして視線を上げると、いつの間にか、事務室の扉が開いていた。
入口に立っているのは、悠子。きちんと整えられた髪が頬に沿い、動きに合わせて僅かに揺れる。姿勢は崩れない。それでも今は、その整った表情の奥に、抑えきれない焦りが滲んでいる。
「そんなに泣いてるなら、相談所に誰か通報しているわよっ」
「なら、いいんですけどねぇ」
森もっちゃんの調子は変わらない。
軽い。けれど、引かない。
肩の力を抜いたまま椅子に浅く腰掛け、指先でペンをくるりと弄んでいる。柔らかくまとめた髪は少しだけ後れ毛が落ちて、整えすぎないままの形。少々太り気味の、どこにでもいそうな中年女性。視線はどこかぼんやりしているのに、外してはいない。人の顔ではなく、場の流れそのものを見ようとしている目だ。
笑っているようで、笑っていない。
口元の緩さと裏腹に、観察だけは止めていない顔。
「皆、誰かが通報してるだろうって思ってたら、困りますよねぇ」
「・・・」
悠子が、言葉を失う。正しさだけでは押し返せないと悟ったときに生まれる、短い空白。
「通報が何件か積み重なれば、相談所も動きやすいでしょうしねぇ」
「そんな事っ」
反射のように言いかけて、悠子は止まる。続く言葉が出てこない。唇を噛みしめる。いつも凛としているその表情が、ほんの少しだけ崩れる。
知っている。その仕組みも、その遅れも。ここと同じく人手不足も。子供関係の所は、どこも手が足りない。けれど、それを前提にしてしまえば、自分の立っている場所ごと揺らぐ。そういう現実を知らないわけじゃない。でも、認めたくもない。その間で引き裂かれている顔。
匠は、何も言えないまま立っていた。
何か言うべきなのかもしれない。けれど今の自分の中にあるのは、同じものを見て聞いていたはずなのに気づかなかったという事実だけだ。
それを抱えたまま差し出せる言葉は、思いつかない。
ふと、京子がこちらを見る。
目が合う。
困ったわね。
声に出さなくてもわかる、あの顔。
状況の整理と、線引きと、これ以上広げないと決める顔。
「この話はおしまい。残業する事があったら、各自気にして聞いておく事」
静かに区切る。強くもなく、弱くもない。けれど、それ以上は踏み込ませない声。
「虐待の方じゃないといいですねぇ。じゃあ、そういう事で~、あたし昼食に行ってきますね~」
森もっちゃんは、いつもと変わらない調子で立ち上がる。ひらひらと空気を払うように手を振り、そのまま事務室を出ていく。
扉が閉まる。
残された空気だけが、少し重い。同じ部屋のはずなのに、さっきまでとは何かが違う。
耳に入る音の輪郭が、ひとつ増えたみたいに。
聞こえていなかったわけじゃない。
ただ、拾っていなかっただけだと、思い知らされる。
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