買ったパンを持たせたら、ダメですか
児童館とは、児童福祉法第40条に基づき、18歳未満の子供が自由に利用できる児童福祉施設である。
専門の職員・・・児童厚生員が配置され、遊びを通じて子供達の健やかな成長を支えている。
また、施設によっては学童保育(放課後児童クラブ)が併設されている事もある。
これは、そんな場所でのある日の出来事である。
五月の終わりの月曜は、空気が少し重い。
湿気のせいか、週明けのせいか。どちらでもいいが、鍵を開ける手が僅かに滑る程度には、纏わりつく。
京子はいつもより少し早く来ていた。開館前の準備を素早く終わらせて、溜まっている書類仕事を片づけてしまいたかっただけだが、こういう日に限って、予定外は重なる。
入口の前に、人影。保護者。ようやく見慣れた背格好。だが、明らかに時間がおかしい。
・・・この時間に?
足を止める。距離を少しだけ残す。顔が見える位置で、あらためて視線を上げる。
今年学童クラブに入ったばかり、1年生の高橋綾香の母親。
名前を思い出すより先に、表情が入ってくる。泣いているようで。怒っているようで。どちらとも言えない、あれこれが混ざったような固まった顔。
・・・ああ、面倒事だな。京子は内心でだけ言う。書類仕事は明日だ。頭の中で予定を組み替える。明日は粘土教室もあった。どうする? 口には出せない。
「おはようございます」
いつも通りの声で、鍵を差し込む。
返事は一拍遅れて、小さく返る。声も、少しだけ揺れている。
鍵を回す。開ける。扉を押さえたまま、体を半分ずらす。
「どうぞ。中、入ってください」
理由は聞かない。玄関先で聞いても、話はあっちに跳びこっちに跳び、広がるだけだ。
母親は一瞬だけ躊躇して、それから中に入る。足取りは軽くないが、止まりもしない。
京子はそのまま靴を脱ぎ、先に立つ。
「面談室、使いましょうか」
振り返らずに言う。了承を待たない。こういう時は、選択肢はむしろ邪魔になる。
面談室は、事務室の隣、奥まった場所にある。
小さな部屋。
白い壁に、低めのテーブル。向かい合う椅子が二脚。本当はもっと柔らかい雰囲気を出すためにカフェ風なテーブルと壁と・・・いろいろ希望は出したが、予算の関係で無機質で会議室のような部屋になっている。
掲示物は最低限。子供の絵もあえて貼っていない。泣くにも、話すにも、余計な刺激はいらない。
「こちら、どうぞ」
椅子を軽く引く。母親が座るのを見届けて、京子は一歩下がる。
「ちょっと待ってくださいね」
そう言って、横の給湯室へ入る。
ポットに水を入れる。蛇口をひねる音が、やけに大きく響く。
・・・いつからだったっけ。
思い出す。断片的な情報を繋ぐ。
数か月前に離婚しているはずだ。迎えに来るのは、いつも母親一人。父親の話は出ない。祖父母は県内にいるが、住所は少し遠い。
子供・・・綾香は、特別問題を起こすタイプではない。むしろ少し周りを見過ぎるくらい。その見過ぎる子の家で、何かあった?
水位を確認して、ポットのスイッチを入れる。すぐに低い作動音が立ち上がる。早い。水が新しいからか、それとも、今日がそういう日だからか。
京子は壁にもたれかける。ほんの数秒。
児童館とはいえ、相手にするのは子供だけではない。子供が持ってくるもの。それを抱えている大人ごと、ここに来る。
泣く子をあやすより、理由の言語化ができる分だけ楽・・・とは限らない。むしろ、言葉がある分、厄介な事も多いし。自我が確立している分、誤魔化しも効かない。
・・・さて、どこから来るか。怒りか。不安か。それとも、そのどちらでもない、別の何かか。
ポットが小さく音を変える。沸き始めた合図。
京子は体を起こし、面談室へ戻る。
扉を開けると、母親・・・高橋は、さっきより少しだけ落ち着いて見えた。呼吸の間が、整っている。完全ではないが、話せる状態には入っている。
京子はそのまま向かいの椅子を引き、腰を下ろす。
視線は、真正面には置かない。少しだけずらす。準備は、いい。あとは、出てくるのを待つだけ。
京子は、テーブルの端に指を軽く置いたまま、声の高さを一段落とす。
「今日は綾香ちゃんは、学校へ行きました?」
「・・・はい」
短い返事。息はまだ浅いが、さっきよりは整っている。
・・・行かせた、のね。事実確認だけを置いて、踏み込まない。まだ確信にふれる段階ではない。
「あの、」
高橋が口を開きかけて、言葉を探すように視線を落とす。
まだ三十代前半。服装は整っているが、どこか急いで出てきた感じが残っている。綾香を学校に送り出して、開館時間を確認して、それでも待ちきれずに児童館の玄関前に立っていたのだろう。月曜のこの時間にここにいるという事は、仕事は休んだか、遅らせたか。・・・日曜、ずっと考えてた顔。
京子は一度だけ頷く。
「何か、ありましたか? こういう所ですので、個人情報や相談内容に関しては、どこかに漏らす事はありませんし。ここだけで対応が難しいお話でしたら、適切な所へ相談を繋げる事もできますよ」
「・・・その、そこまでは」
否定は弱い。内容はまだ曖昧。
「では、この児童館でのお話ですか?」
一歩だけ狭める。
「あのっ」
息を吸う音。
「お弁当でっ」
言葉が、少し跳ねる。
「買ったパンを持たせたら、ダメですかっ? きちんとしたお弁当じゃないとっ」
高橋の声は半分泣いていて、半分は怒っている。向いている先が自分なのか、誰かなのか、まだわからない。京子は表情を動かさない。
「・・・」
間を置く。止めない。続けさせる。
「あのっ、私、弁当を作るのは苦手で。それで、こども園は完全給食の所を選んで。時間もなくて・・・」
視線が揺れる。言い訳と自己弁護が混ざる、典型的な順序。
「誰かに、何かを、言われました?」
個人ではなく、出来事へ。
「綾香が・・・土曜、スーパーで、」
言葉がほどける。
「『ママおにぎり作れる?』って」
一呼吸。
「『ワカメとゴマと梅干買って』って」
更に数秒。
「他の子に言われたって」
そこで、止まる。
京子は小さく息を吐いた。
・・・ああ。
土曜のお昼時。
児童館に遊びに来ている子供達は一度帰って、家でお昼御飯。学童クラブの子だけが残る時間帯。
それぞれが家から持ってきた弁当を広げる。
平日より人数は少ない分、席は混ざる。いつも関わらない学年同士で、自然に会話が生まれる。
両親がいてもシフト制勤務の家庭。シングル家庭。土曜に来ている、という前提だけで、背景はある程度見える。
そして、弁当。開いた瞬間に違いが出るもの。
京子は視線を少しだけ横にずらす。
「・・・綾香ちゃんは、何て言ってました?」
評価も同情も乗せない。
「先日の土曜のお弁当時間なら、私が聞いてました」
京子は間を切らずに言う。
高橋の動きが止まる。
「その話は、まだ1年生で上手く伝えられなかった事と・・・」
言葉をそこで少しだけ曖昧にする。断定を避けたまま、話を少しだけ横に流す。
「土曜は、平日と少し様子が違うんです」
一度、相手に向けて言葉を置く。
「人数が少ない分、学年も混ざりますし、普段関わらない子とも一緒に過ごす事が多くて・・・」
高橋が、静かに聞いているのを確認してから、続ける。
土曜の昼。
人数は平日より少ないが、その分、席は混ざる。いつもと違う組み合わせで自然に輪ができる。
綾香の隣には四年の隼人、向かいにはニ年の那津が座っていた。平日なら遊ぶ事はない組み合わせ。けれど隼人と那津達のドッチボールに、今日は綾香が混ぜてもらっていた。
隼人は、今年中学に上がった兄がいる。その兄も六年卒業までここに在籍していた。弁当の中身も、空気の読み方も、ある程度わかっている。
那津もシングル家庭。それも父子家庭。量と早さでバランスを取るタイプ。
綾香は少しだけ間を置いてから、袋を開ける。遠慮するように、砂糖のついたパンを二つ出す。
隼人は、おにぎりが三つ。弁当箱には大きめシリコン容器に、炒り卵。ブロッコリー。ソーセージ。
那津は、ラップに包まれた大きめの・・・いわゆる爆弾おにぎりが二つ。
「なあ、それで足りんの?」
那津が言う。
最初、誰に向けられたのか分からなかったのだろう。綾香は顔を上げて、少しだけ周りを見る。
「オマエだよ」
言われて、ようやく自分だと気づく。小さく頷く。
「足りるかもしれねーけど、栄養たりねーだろ」
続けたのは隼人だった。
「子供のせいちょーには、適度な睡眠と、適度な運動。そんで適度なえいよー、がいるんだぜ」
京子は、そのやり取りを少し離れた位置で聞きながら、手を動かしていた。どこかで聞いたような言い方。言葉の並び。妙に整った正しさ。
多分、学校か、家か。大人の言葉が、そのまま降りてきている。
「母ちゃん忙しかったら、自分で作れるようになれよ~。そうしたら、母ちゃん楽になるし。栄養も自分で考えれるようになる。しょーらい一人暮らしした時に、困らないぞ~」
隼人が当たり前の顔で言う。
「隼人、1年にはまだ難しいよっ」
那津がすぐに返す。
「難しいか?」
「難しいって」
少しだけ間。
「魚と肉と野菜と、ちょっとずつ、なるべくいろいろ食え。わかったか」
那津はちょっと考えてから、続けた。
綾香は、小さく頷いた。理解したというより、そういうものだと受け取った頷き。
「そんで、時々はフルーツだな」
那津が急に声を上げる。
「じゃーん」
タッパーを取り出す。中にはイチゴが幾つか。ほんの少しだけ誇らしげ。
「フルーツは高いから、月に1回か2回買ってもらう。そのまま食えるのがいい。イチゴかミカン。ブドウ。リンゴでもいいけど・・・」
那津がちらっと綾香を見る。
「オマエ、リンゴまるかじりできる?」
綾香は、少し考えてから、小さく首を振る。
「だろうな。無茶教えるなよ」
「隼人、うっせー」
那津が軽く返す。空気は荒れていない。強い言い方でも、押しつけでもない。
ただ、知っている事をそのまま教えているだけ。
「おにぎり作れるようになるといいぞ。米ははらもちがいーって言うしな。ほら、俺のはワカメ。ミネラル?豊富だな。ゴハンにてきとーまぜて、握ればできる」
隼人が自分の弁当を少しだけ持ち上げる。
「こっちはゴマと梅干。こっちもミネラル豊富って言ってたぞ。すりごまの方がいい、だったか?」
記憶をたどるように言いながら、指で示す。
綾香は、それを見て、また頷く。
「俺なんて、今日父ちゃんのおにぎりも作ってやったぜ」
那津はえへへ、と少し照れたように笑う。鼻の頭をこすりながら、でもどこか誇らしげだ。
「俺二つだから、父ちゃん三つにしようかって言ったら、そんなでかいの二つでいいって言われたわ」
手振りで大きさを示す。実際、ラップに包まれたおにぎりは、どうやって作ったのか、子供の手には少し余るくらいの大きさだった。
「俺も三つはいらねー。那津もオカズの作り方練習したら? やればできるぞ」
隼人は淡々と言う。自分の弁当箱を指で軽く叩いて、当たり前の延長のように。
いり卵は少し形がいびつで、端が崩れている。話からすると、自分で作ったのか、中学生になったお兄ちゃんが作ったのか、どちらかのようだ。
「う~ん」
那津は腕を組む。視線は自分のおにぎりと、隼人の弁当を行ったり来たり。
「俺の今日のブロッコリーは冷凍のを、そのまま入れてきただけだからな」
隼人がさらっと言う。フォローのつもりなのか、ただの事実なのか、声色は変わらない。
「でもなぁ」
那津はまだ迷っている顔。少しだけ唇を尖らせて、けれど完全には否定しない。
「おっきい袋のだから、お金も大丈夫だぞ」
隼人は続ける。できる理由を一つずつ並べる調子。
那津はその言葉を受けて、少しだけ考えるように黙る。
「じゃあ、父ちゃんと探してみるかなぁ」
ぽつりと落とす。
「おう、そうしろそうしろ。野菜も大事って、さっき自分で言っただろ」
短く返す隼人。
それで会話は一区切りつく。
そのやり取りの横で、綾香はじっと聞いていた。
パンにはまだ手をつけていない。両手は膝の上に置いたまま、視線だけが二人の間を行き来する。口は開かない。けれど、一つ一つの言葉を逃さないように、僅かに前に傾いている。
・・・覚えようとしてる。
そこまで話して、京子は言葉を切った。
説明というより、見たままを置いただけの話し方。
面談室に、ほんの短い間が落ちる。
高橋が何かを飲み込むように、わずかに息を整える気配。
今思えば、あれは覚えようとしていた姿だった。
ポットのお湯が沸いた音が聞こえた。京子は一度だけ瞬きをして、視線を高橋に戻す。
目の前に高橋は、さっきよりも肩の力が抜けている。完全に落ち着いたわけではないが、少なくとも、どこに向かっていたのかわからない状態ではなくなっている。
「ちょっと失礼しますね。お湯が沸いたようなので、コーヒーでも」
立ち上がる。そのまま給湯室へ。
カップを二つ取り出して、インスタントコーヒーを入れる。粉が落ちる音はほとんどしない。代わりに湯を注ぐ音だけが、静かに広がる。
少しだけ時間をかける。急げばすぐ終わる作業を、あえて急がない。
・・・考える間、いるわね。言葉に出すほどのものではないが、そういう種類の間。
カップを持って、面談室に戻る。
「どうぞ」
テーブルに一つ置く。高橋は軽く会釈して、両手で受ける。湯気が二人の間にゆっくり上がる。
「・・・そう、だったんですね」
高橋が小さく言う。
納得しきった声ではない。けれど知らなかったものが形になった時の、少し軽くなる感じがある。
京子は頷かない。ただ聞いている姿勢だけ。
「何か・・・」
言葉を探すように、高橋の視線がテーブルに落ちる。
「ちゃんとしたもの、持たせてあげられてないのかなって・・・」
京子は、少しだけ間を置いてから口を開く。
「綾香ちゃんは、できると思っただけだと思いますよ。子供ができるなら、お母さんなら出来るだろう。お母さんが大変なら自分でやってみよう、くらいの」
高橋の指先が、わずかに動く。
「・・・我慢、させてましたかね」
小さい声。
京子は、少しだけ間を取る。
「我慢というより、知らなかっただけだと思います。知ったから、聞いてきた」
高橋の息を吸い込む音が聞こえた。
「それだけでも、ちゃんと周りを見てる子ですよ」
高橋は、ゆっくり息を吐く。
「・・・私、余裕なくて」
完全に安心した顔ではない。けれど、さっきまでのどうしていいかわからない状態からは外れている。
「仕事もあって、朝もバタバタで・・・」
そこまで言って、高橋とようやく今日初めてきちんと視線が合った気がした。
「全部をきちんと完璧に整えるのは、難しいです」
京子もコーヒーを一口飲む。
「だから、まずはどこかを一つやるか、でいいと思います。それで、余裕ができたら、次のもう一つ」
高橋がカップを両手でぎゅっと握りしめた。
「おにぎり一つでもいいですし、他の事でもいいですし。できたって思えるところがあれば、それで十分だと思いますよ」
面談室の空気が、少しだけ落ち着く。コーヒーの湯気はもう細くなっている。
高橋は小さく頷いた。まだ不安は残っているだろう。これから先、似たような事はきっといろいろある。でも、さっきよりは自分の中で扱える大きさになっているはずだ。
京子はそれ以上、言葉を足さない。
「また何か気になる事があれば、いつでも来てください。お話くらいは聞きます」
やわらかく間を置く。
「少し気持ちを整理したい時に、コーヒーを飲みに来るくらいでも大丈夫ですよ」
押さず、引かず。逃げ場だけを残す。
高橋は一度、カップに視線を落としてから、顔を上げた。
「・・・ありがとうございました」
深く頭を下げる。
京子は軽く会釈だけ返す。
・・・それで、この話は一度終わる。




