受け皿。しかもクッション付き~
児童館とは、児童福祉法第40条に基づき、18歳未満の子供が自由に利用できる児童福祉施設である。
専門の職員・・・児童厚生員が配置され、遊びを通じて子供達の健やかな成長を支えている。
また、施設によっては学童保育(放課後児童クラブ)が併設されている事もある。
これは、そんな場所でのある日の出来事である。
扉が、勢いよく開いた。
乾いた音と一緒に、夕方の空気が流れ込む。室内のぬるい空気が、一瞬だけ揺れた。
「せんせー!!」
顔を上げるより早く、声でわかる。大和と、樹だ。年度末に学童を退所した4年生の二人、声だけでもまだわかる。
匠は椅子から半分だけ腰を浮かせて、入口を見る。
大和は息を切らしている。額に汗、頬は赤い。短く刈った髪が少し跳ねていて、シャツは片方だけズボンから出ている。いかにも走ってきた格好だ。
その横で、樹は一歩遅れて入ってきた。背は大和より少し低く、細い。前髪が長めで目にかかっている。片足をわずかに引きずるようにして、体重をかけきれていない。
匠は一瞬で目線を落とす。
「どうした」
声は抑えたまま、手招きする。
「ゲーム機! 壊れた!」
大和が先に言う。
「・・・うん」
匠はうなずく。
「どこで」
「公園! あの、坂のとこあるじゃん、ちょっと遠い」
「・・・ああ」
頭の中で場所が浮かぶ。ここから自転車で10分ほど。子供だけでも行ける距離だが、まあ、問題が起きやすい距離でもある。
視線は樹から外さない。
「で?」
短く促す。
大和が一瞬だけ言葉を詰まらせる。その横で、樹がぼそっと言った。
「・・・俺が、大和のゲーム機で遊んでてて」
「うん」
「大和の、借りて」
「うん」
匠は、同じ調子で返す。
「大和もやりたいって言ったけど、もうちょっとでクリアできそうで・・・」
言いながら、樹の視線が床に落ちる。
大和がすぐに口を挟む。
「俺、樹からゲーム機返してもらおうとしただけ!」
「・・・それで?」
匠が間を切らないように返す。
「大和が追いかけてきて」
「樹が逃げるからだろ」
「走って、転んだ」
「・・・うん」
短い返事の間に、樹の足を見る。右足。かばい方が不自然だ。完全に体重を逃がしている。
「足、ひねった」
樹が自分で言う。
「・・・うん」
匠は一歩近づく。
「立てる?」
「・・・立てる。ここまで歩いてきたから」
言いながらも、体は正直だ。重心が揺れる。
大和が焦ったように続ける。
「で、ゲーム機もさ、飛んでって。ボタンも取れて、画面も割れた」
大和がポケットからゲーム機を取り出す。もう片方のポケットから、取れた部品も。
「・・・うん」
状況は揃った。
匠は一度だけ、二人の顔を見比べる。
大和は落ち着かない様子で、手をぶらぶらさせている。樹は口を結んで、なるべく何でもない顔をしている。
痛いの、言わないタイプか。
児童館の中は、いつも通りの音がしている。
奥では低学年がカードゲームで揉めていて、「ちがうって!」という声が重なっている。畳スペースでは、小さい子がブロックを崩して笑っている。空気は緩い。日常の温度のままだ。
その中に、少しだけ違う緊張が混ざる。
匠は手で近くの椅子を指した。
「樹、座れ」
「・・・大丈夫」
「いいから」
言い切る。
樹は一瞬だけ大和を見る。大和が小さく頷く。
それで、観念したように腰を下ろした。
「靴、脱げる?」
「・・・うん」
動きが遅い。やっぱり痛いのだろう。
匠はしゃがみ込む。
「どこでひねった」
「・・・転んだ時、段差があった。」
軽く触れる前に、声をかける。
「さわるぞ。痛いとこ言え」
「・・・うん」
反応はある。折れてはいなさそうだが、油断はできない。
大和が横からのぞき込む。
「やばい?」
「今から見る」
匠は短く返す。
視界の端で、ゲーム機が置かれている。あれは、後で。
先に、人間だ。匠はもう一度、樹の顔を見る。
児童館内は変わらず賑やかしい。
その中で、匠はゆっくりと立ち上がった。
「順番にやるぞ」
ゲーム機と、足と。どっちも放ってはおけない。
匠は一度だけ、樹の足元を確認してから立ち上がった。
「ちょっと待ってろ」
そう言い残して、事務室へ向かう。
引き戸を開けると、外のざわめきが一段だけ遠くなる。代わりに、紙の擦れる音と、キーボードを打つ乾いたリズムが耳に入る。あと10分ほどで工作教室が始まる。その準備だ。
棚の上、いつもの場所にある救急箱に手を伸ばしたところで。
「どうしました?」
声がかかる。
悠子が準備の手を止め、立ち上がっていた。
すっと通った鼻筋に、無駄のない輪郭。肩で切り揃えた黒髪が、動くたびに静かに揺れる。派手さはないのに、視線が止まるタイプの整い方だ。ベージュのシャツに落ち着いた色のカーディガン、姿勢は崩れない。あの感じは、どこにいても変わらないだろう。
「樹が、足ひねったようです」
救急箱を持ち上げながら答える。
「外で?」
「坂の所の公園。大和のゲーム機も、ちょっと壊れてます」
「ああ」
悠子は一度だけ目を細める。玄関口に座る二人の方へ目を向ける。状況を飲み込むのが早い。
「樹くんの方の足は折れてませんね」
「多分捻挫かと思います。ここまで歩いてきた割には腫れていません。歩けています」
本当に折れていたら、ここまで歩く事なんてまず無理だ。公園から近い大和の家に行って、母親のスマホに連絡する方が確実だ。まあ、まずいことをした自覚があるから、二人そろって直接親に連絡せず、児童館の方へ来たのだろうけれど。
「なるほど」
短く頷くと、もう動いている。
悠子はさっと事務机の端に置いてあった受話器を手に取る。その仕草も無駄がない。
「連絡、しますね」
「ええ、お願いします」
匠はそれだけ返して、救急箱の蓋を軽く押さえる。
悠子は棚から前年度の学童名簿を引き出すと、画面を確認しながら、指で番号を押していく。
まだ、残してる。二人とも学童は年度末で区切りをつけた。形式上はもう在籍していない。それでも、こういう時のための書類は残してある。
コール音が、事務室の中で小さく響く。
数秒。
「・・・もしもし、児童館の悠子です。お久しぶりです」
声のトーンが少しだけ変わる。柔らかいが、曖昧さはない。
「お忙しいところすみません。今、児童館の方に・・・」
匠はそれを横目に見ながら、救急箱を抱え直す。
お任せします。それ以上は言わない。
役割はもう、分かれている。
匠はそのまま踵を返す。
引き戸を開けると、さっきの音が戻ってくる。
日常の中に、少しだけ混ざった非日常。
樹の足首に冷却材を当てて、軽く固定する。
「痛むか」
「・・・さっきよりは、まし」
「ならいい」
強く締めすぎないように、テープの端を押さえる。
横で大和が、じっと見ている。さっきまでの勢いはもうない。口を開きかけて、閉じて、また開く。
「・・・あのさ」
「うん」
「俺のゲーム機・・・」
「見た」
匠は短く返す。
「ボタンも取れてる。画面も割れてる。すぐ直るやつじゃない」
「・・・だよな。怒られるよな」
大和の肩が少し落ちる。
その時、事務室の方から足音が近づいてくる。
「匠くん」
悠子の声。
振り返ると、さっきと同じ落ち着いた顔で立っている。けれど、ほんの少しだけ事務的な硬さが混ざっている。
「大和くんのお母さんと繋がりました」
「・・・うん」
「元気で歩けるようなら、そのまま一度自宅に戻ってほしいと」
一拍。
「ゲーム機の件も含めて、家で確認するそうです」
言い切る。
匠は小さく頷いた。
「了解」
それ以上、付け足さない。視線を大和に戻す。
「聞いたな」
「・・・うん」
返事は小さい。
「帰れるか」
「・・・帰れる」
少しだけ間があってからの答え。
匠は立ち上がって、入口の方を顎で示す。
「気をつけて帰れ」
「・・・うん」
大和は一度だけ、樹を見る。
「・・・ごめん」
「別に」
樹はそっけなく返すけれど、さっきより力は抜けている。
「お前が遊んでいいって言ったんだし」
「でも俺のゲーム機だし」
「だから何」
「・・・いや」
二人の言葉が続かない。
匠はそこで口を挟む。
「その話は、あとでいい」
二人とも、黙る。
「まず帰るやつは帰る。足痛いやつは座っとく。それでいい」
区切るように言う。
大和は小さく頷いて、外へ出ていく。壊れたゲーム機を慎重にポケットに入れて。
振り返らない。その背中だけが、少しだけ小さく見える。まあ、そうなるよな。絶対怒られる。
匠は何も言わずに、そのまま見送る。
扉が閉まる。外の音が少しだけ遠くなる。
室内には、またいつもの声が戻ってくる。カードゲームの言い合いも、積み木の崩れる音も、変わらない。
ただ一か所だけ、静かな場所ができている。
匠は視線を戻す。椅子に座ったままの樹が、足元を見ている。
扉が閉まってから、まだそれほど時間は経っていない。
外の音が落ち着いた頃、もう一度、入口の引き戸が開いた。
「すみません」
少し息を上げた声。
匠は顔を上げる。
樹の母親だ。肩にかけたバッグを押さえながら、館内を見渡す。視線がすぐに樹を見つけて、まっすぐに寄ってくる。
「樹、大丈夫?」
「・・・うん」
短い返事。
母親はしゃがみ込んで、樹の足元を見る。
「どっち?」
「右」
「どこで?」
「公園。段差」
「・・・もう」
小さくため息をつきながら、そっと足首に触れる。
「痛い?」
「・・・ちょっと」
匠は一歩引いた位置で様子を見てから、口を開く。
「先ほど、冷やして軽く固定してあります」
母親が顔を上げる。
「あ、すみません」
「いえ」
匠は首を振る。
「歩けていますが、今日はあまり動かさない方がいいと思います。腫れが強くなるようなら、医療機関で診てもらってください」
「はい・・・ありがとうございます」
頭を下げてから、母親は少しだけ言い淀む。
「あの・・・もう一つ、いいですか」
「どうぞ」
「大和くんのお母さんと・・・私、連絡先を交換していなくて」
視線がわずかに揺れる。
「こういう場合って、どうしたら・・・」
一瞬だけ、匠は間を置く。
「こちらから、直接お伝えする事はできないんですが」
「・・・はい」
「今日の件については、先方にも状況は伝わっています」
極力落ち着いた声で続ける。
「ご自宅に戻られているので、あとは保護者同士でやり取りされる形になります」
母親は小さく頷く。
「・・・そうですよね」
それでも、まだ何か引っかかっている顔。少しだけ踏み込んでくる。
「もし・・・児童館さん経由で、何か・・・お伝えいただく事って、できませんか」
言葉を選びながらの依頼。依頼という名の強要。
匠は視線を逸らさずに受ける。
来るよな、ここ。
「気持ちはわかります」
一度、受け止める。
「ただ、児童館外で起こった出来事については、連絡先の共有や、個別のやり取りの仲介は、こちらでは基本的にしていません」
「・・・そうなんですね」
声が少しだけ落ちる。
「トラブル防止の意味もあって、保護者同士でのやり取りをお願いしている形です」
事務的な言い方になりすぎないように、少しだけ間を柔らかくする。
「今回のように、こちらで状況を把握している場合は、双方に同じ内容をお伝えする事まではできます。実際に悠子先生が先ほど電話しましたよね」
一呼吸。
「ただ、それ以上のやり取りは難しいです」
母親は少しだけ考えるように視線を落とす。
「・・・わかりました」
納得しきったわけではないが、引くラインは理解した顔。
匠は続ける。
「もし必要であれば、お子さん同士で学校を通してつながることもできますし」
「はい」
「向こうから連絡が来る可能性もあります」
「・・・そうですね」
小さく息を吐く。そこでようやく、樹の母親の肩の力が少し抜ける。
匠は話を戻す。
「大和くんは、先に帰っています」
「そうですか」
母親は樹を見る。
「一緒にいたの?」
「・・・うん」
「ゲーム機?」
「大和の、借りて」
「・・・それで?」
「返してって言われたけど、もうちょっとでクリアできそうだったから、逃げて。転んだ」
短いやり取り。
母親はもう一度、足元に視線を落とす。
「立てる?」
「・・・立てる」
樹がゆっくり立ち上がる。僅かに顔が歪む。
母親がすぐに腕を添える。
「無理しなくていいからね」
「・・・してない」
小さな反発。
匠が口を挟む。
「帰りはゆっくりでいいです」
「はい」
「今日は安静に」
「わかりました」
母親は改めて頭を下げる。
「本当に、ありがとうございました」
「いえ」
匠はそれだけ返す。
樹が一歩、外に向かって歩く。入口で靴を履きながら、ふと振り返る。
「・・・せんせー」
「うん」
「・・・ありがと」
小さく言って、すぐに目を逸らす。
匠は軽く顎を引く。
「気をつけて帰れ」
「・・・うん」
扉が開いて、閉じる。
また、日常の音だけが残る。
匠は一度だけ、さっき樹が座っていた椅子を見る。少しだけ、空気が静まっていた。
次の日の朝。
開館前の児童館は、まだ音が薄い。机と床と、少しひんやりした空気だけが広がっている。
鍵を開けて中に入り、匠は事務室へ向かった。
鞄を置いた、その時。
電話が鳴る。
少し早い時間。
昨日の続き、だよな。こういう予感ほどよく当たる。
受話器を取る。
「はい、児童館です」
「あの、昨日お世話になりました、樹の母です」
昨日より、少しだけ焦りが抜けている。でも、迷いは残っている声。
「・・・あ、はい」
少し間を置いて返す。
「学校に連絡して、大和くんの事を聞いたんですが、個人情報なので教えられないと言われてしまって」
「・・・あー、はい」
頷くように、声を落とす。
「それで・・・児童館さんの方から、ご連絡いただく事って、できませんか」
まっすぐ来た。匠は、受話器を持ったまま少し黙る。本当は、ダメなやつ。
分かってる。
でも。
「・・・本来は」
言葉を選ぶ。
「学校と同じで、うちもその、個人情報とかの関係で・・・児童館の外で起こった事の仲介はしない形なのですけど」
「・・・はい」
一度、そこに置く。
「ただ」
少しだけ、声を下げる。
「今回みたいに、状況がはっきりしてる件なら・・・こっちから、経緯だけお伝えする事はできます」
間。
「・・・いいんですか?」
戸惑いと安堵が混ざる。
「連絡先をお伝えしたりは、できないのですけど」
線を引く。
「昨日どういう事があって、今どうなってるか、っていう共有くらいなら」
「・・・それで大丈夫です」
すぐに返ってくる。
「ありがとうございます」
「いえ、あの・・・」
少し言い淀む。
「一応、その・・・今回は例外というか、あくまで状況の共有だけで」
「はい」
「直接やり取りが必要な場合は、学校とか通していただく形になると思うので」
「わかりました」
声が、はっきり落ち着く。
「本当に助かります」
「いえ」
短く返す。
「足の様子、どうですか」
「あ、少し腫れてはいるんですが、歩けています」
「無理しないようにしてください」
「はい」
通話が切れる。受話器を戻す。
そのまま、少しだけ動かない。
やっちゃったな。自覚はある。ルールから、ちょっとはみ出した。
「・・・やると思ったわ」
後ろから声。
びくっとして振り返る。
いつの間にか、京子が入口のところに立っている。
ショートに近い髪をざっと手で押さえながら、コートを脱ぎかけたままこちらを見ている。表情はきつくないのに、目だけはちゃんと見てくる。
「え、あ・・・おはようございます」
「おはよう」
軽く返して、そのまま中に入ってくる。
机の横を通りながら、小さく息を吐く。
ため息。
「今の、聞こえちゃいました?」
「全部じゃないけどね。だいたい分かる」
椅子を引いて、どかっと座る。
「で? やるの?」
真正面から来る。
匠は少しだけ視線を外してから、戻す。
「・・・いや、その・・・放っとくと、ちょっと面倒かなって」
言い方が曖昧になる。
京子はすぐにかぶせる。
「面倒にはなるよ」
即答。
「でもね、面倒になるからって、全部こっちで拾ってたらキリないのよ」
一呼吸。
「しかもそれ、前例になる」
指で机を軽く叩く。
「『あそこに言えば、何だってやってくれる』『困った時は、全部頼めばいい』ってね」
匠は言葉を詰まらせる。
「・・・はい」
「気持ちは分かるよ」
少しだけトーンが落ちる。
「昨日の流れなら、親も不安だろうしね」
そこはちゃんと拾う。
「でもね」
もう一度、間を取る。
「やるなら、やり方は最初にきっちり決めなさい」
視線がぶれない。
「誰に、何を、どこまで言うのか。どこまで、関わりあうか」
一つずつ、区切る。
「曖昧にやると、あとで全部あんたに返ってくるから」
匠は小さく頷く。
「・・・はい」
「今回だけって言うなら、その今回の線を自分で、しっかり決める」
ため息が、もう一度だけ落ちる。でも、さっきより軽い。
「ほんと、拾うよねぇ、そういうの。まだまだ若いねえ」
少し笑う。最後はひとり言みたいに。
匠も、苦笑いで返す。
「・・・いや、何か、見えちゃって。大変だろうなあ、とか」
「見えるのはいい事よ」
即座に返る。
「全部拾うのが仕事じゃないだけで」
京子が深く息を吐きだす。それで、空気が少しだけ緩む。
それから立ち上がって、袖をまくる。
「ほら、開ける準備するよ」
「・・・はい」
匠はうなずいて、電話機を一度見る。
やるなら、ちゃんとやる。曖昧にはしない。
そう思いながら手を動かした。
開館準備の合間。
まだ子供の声が入ってこない時間。事務室の中は、紙と朝の空気だけがある。
匠はメモを一度見て、受話器を取った。
コール音が数回。
「・・・はい」
出た声は少し低く、急いでいる気配がそのまま乗っている。
「あ、児童館の匠です。昨日の件でお電話しました」
「ああ、はい」
すぐに分かる反応。
「お時間、大丈夫ですか」
「今ちょっとバタバタしてるんですけど・・・少しなら」
「はい、手短に」
一度区切る。
「昨日の公園での件なんですが」
「はい」
「樹くんのお母さまから、お話がありまして」
一呼吸置く。
「ゲーム機の件について、弁償したいとおっしゃっていました」
少し間が空く。
「・・・ああ」
受け止める声。驚きではなく、状況を整理している感じ。
「それはわかりました、が・・・」
相手の方から続く。
「今、ちょっと忙しくて」
息を吐く音が混ざる。
「メーカーさんにも、すぐには送ったりは出来ないのですよね」
「・・・ああ、はい」
匠は頷く。
「なので・・・」
少しだけ言葉を選ぶ。
「ご確認いただくまで、お時間かかっても大丈夫です」
「そうですね・・・」
間。
「返事は、しばらくかかると思います」
はっきりした言い方。
「承知しました」
匠はそのまま受ける。
「その旨、こちらからもお伝えしておきます」
「すみません」
「いえ」
一拍。
必要な事だけで終わらせる。
「では、失礼します」
「はい」
通話が切れる。
受話器を戻して、匠は軽く息を吐いた。
こんなもんか。
机の上のメモに書き足す。
『弁償意思あり/確認に時間』
それだけ。
線の上で動いた分だけ、余計なことは足さない。
一週間後の午後。
児童館は、いつものざわつきに戻っている。
カードの取り合いで声が上がり、奥ではボールの跳ねる音。日常がそのまま流れている。
その中で事務室の電話が鳴る。
匠は手元の書類と並べられた玩具から目を上げる。これから行う伝承遊び教室の準備物の最終確認をしていた。
受話器を取る。
「はい、児童館です」
「あの、樹の母です」
名乗る前にわかる声。
「・・・あ、はい。お世話になってます」
「先日はありがとうございました」
「いえ」
すぐに本題に入る気配。
「あの、その後なんですが」
「はい」
「大和くんのお母さんから、まだ連絡って・・・来ていないですか」
少しだけ、押し出すような聞き方。
匠は一度、言葉を選ぶ。
「こちらからお伝えした時点では」
区切る。
「ご多忙との事で、メーカーさんにもすぐには送ったり出来ない状況と伺っています」
「・・・はい」
「返答も、少し時間がかかると思います、との事でした」
電話の向こうで、短い沈黙。
「・・・そう、ですよね」
理解はしている。けれど、納得はしきれていない声。
一拍おいて、少し強くなる。
「あの・・・もし可能でしたら」
「はい」
「もう一度、児童館さんの方からご連絡していただく事って、できますか」
言い切る前に、少しだけ迷いが混ざる。
「こちらからだと、連絡先も分からなくて・・・」
続ける。
「すぐに、というか・・・一度、確認だけでもしていただけたら助かるのですが」
待てないまでは言わないが、にじむ。せかされている。
匠は一瞬だけ黙る。机の上のメモに視線を落とす。
また一歩、来たな。
「・・・状況は、分かりました」
すぐに否定はしない。
「ただ」
深呼吸する。
「先方もお仕事の都合があるとの事なので」
言葉を選ぶ。
「すぐにご対応いただけるかどうかは、こちらからも確約はできません」
「・・・はい。それはわかるのですが」
それでも、引かない。
「それでも大丈夫なので・・・お願いできますか」
少し低くなる声。
匠は短く息を吸う。
「・・・分かりました」
一度、決める。
「もう一度、こちらから状況だけ確認します」
「ありがとうございます」
すぐに返ってくる。
「ただ、あくまで確認までになりますので」
線を引く。
「その点だけ、ご了承ください」
「はい、大丈夫です」
声に、少しだけ安心が混ざる。
「すみません、何度も」
「いえ」
短く返す。
「足の方はどうですか」
「あ、だいぶ良くなってきました」
「それなら良かったです」
少しだけ空気が緩む。
「では、失礼します」
「はい」
通話が切れる。
受話器を戻す。
匠はしばらく、そのまま動かない。外から、子供の笑い声が聞こえる。
机の上のメモ。
『弁償意思あり/確認に時間』
その下に、空白。
匠はペンを取り、少しだけ考えてから書き足す。
『再連絡』
線、どこまで引く。
小さく息を吐いて、受話器にもう一度手を伸ばした。
二週間ほど経った、夕方。
学童の迎えの時間帯は、児童館の空気が少し変わる。
子供達の声に、保護者の低い声が混ざる。日常の延長に、外の気配が入り込む時間。
匠は入口付近で、靴箱のあたりを整えていた。子供達に何度言っても、靴は靴箱に入れない。児童館に走りこんだ形のまま放り出されて、片方はドア近く。もう片方は傘立ての影にある・・・なんて事も日常茶飯事だ。
ため息をつきかけた時。
「・・・匠せんせー」
少し抑えた声。
顔を上げると、学童クラブに在籍している子の保護者の一人が立っている。子供を迎えに来た流れのまま、少しだけ距離を詰めてくる。
「ちょっと、今いい?」
「・・・はい」
匠は手を止めて、少しだけ横に移動する。人の流れから外れる位置。周りの声はあるのに、ここだけ少しだけ音が遠い。
「ゲーム機の件なんだけど」
単刀直入。
匠は一瞬だけ視線を上げる。
「・・・はい」
「あの子達の、」
名前は出さない。
「何かさ、忙しいって言ったのに、せかされて困るって話と」
一拍の間。
「対応が遅いって話、両方出てるよ」
声は小さいが、はっきりしている。
匠は何も言わない。
「でね」
少しだけ肩をすくめる。
「あたしのとこには、両方回ってきたから」
更に一拍。
「おかしいなって思えたけど」
視線が、少しだけ強くなる。
「片方しか聞いてない人、そこそこいると思うよ」
言い切る。
匠は小さく息を吸う。
「・・・そうですか」
「うん」
軽く頷く。
「あの二人、子供同士は遊ぶけどさ」
少しだけ口元が歪む。
「ママ友グループ、違うから」
それで流れは分かる。どこでどう切り取られて、どう広がるか。
匠は一度だけ、しっかりと頭を下げた。
「・・・教えていただき、ありがとうございました」
余計な言葉は足さない。
相手は一瞬だけ目を細める。
「まあ、あたしはここに親子共々お世話になってると思ってるから。こんな事くらいしか言えないけど・・・話聞いた時も、いい先生達だって言っておいたから・・・」
一歩引く。
「ちょっと気になったから」
「はい」
匠はもう一度、短く返す。
その保護者は、そのまま子供の方へ戻っていく。すぐに、いつもの迎えの顔に戻る。笑って、手を引いて、帰っていく。
匠はその背中を少しだけ見てから、視線を落とす。両方、来たか。せかされている側と、遅いと思っている側。どちらも、間違ってはいない。
だから厄介だ。
入口の外では、また一組、親子が帰っていく。児童館の中は、少しずつ人が減っていく。音も、少しずつ薄くなる。
匠はその場に立ったまま、しばらく動けなかった。
閉館後の事務室。
子供の声が消えた後の静けさは、昼間とは別物だ。
蛍光灯の音と、紙をめくる音だけがやけに残る。
匠は椅子に座ったまま、机の端を見ている。手は止まっている。
やりすぎたか。線を越えた自覚はある。でも、これ以上踏み込んだ対応をした場合の展開も、何となく想像できてしまう。
どっちにしても、詰む形になってしまっている。自覚はある。
その向かいで、京子がファイルを閉じた。短く切った髪に、よく動く大きめの口元、言葉と一緒に表情がはっきり変わる人だ。視線は柔らかくも強い。
「で?」
顔を上げずに言う。
「顔に出てるよ」
匠は少しだけ苦笑いをする。
「・・・出てます?」
「出てる出てる」
即答。
「今日、何か言われたでしょ」
匠は観念したように息を吐く。
「迎えの保護者の方に・・・ちょっと」
「うん」
「ゲーム機の件で、噂が回ってるって」
京子の手が止まる。
「どっちの?」
匠は間を置かず返す。
「両方です」
「ははは・・・」
京子先生がわざとらしい乾いた笑い声を出した。
「そりゃ来るわ」
悠子がパソコンから目を上げる。肩で揃えた黒髪に、無駄のない姿勢。派手さはないのに、視線だけで空気を締めるタイプだ。
「せかされている、という話と」
匠が続ける。
「対応が遅い、って話」
悠子は一瞬だけ目を細める。
「両立しますね」
静かに言う。
「立場が違えば」
森もっちゃんが後ろの棚にもたれたまま口を挟む。くたっとした赤いフリースを羽織っていて、そこにいるのに印象が薄い。けれど口を開くと妙に刺さる。
「あるあるだよねぇ、それぇ」
ぼそっと、くぐもった声で。
「どっちも自分が被害者ってやつ~」
匠は小さく頷く。
まさに、それだ。どちらかを否定すれば、もう片方に寄る。寄った瞬間に、別の火種になる。
「・・・冷たい対応だって、後で言われるかもしれないなって」
口に出してみると、思っていたより軽くない。
京子が、ゆっくり顔を上げる。
「言われるよ。何もしなければ、対応してくれなかった、って」
あっさりと落とされる一言。
「それで。今回の話はもう、あちこちで言われてると思った方がいいね。広がったから、そのお母さんもこっちの耳に入る前に教えてくれたのだろうし」
間髪入れない。
匠は苦笑するしかない。
「・・・ですよね」
覚悟、足りてなかったか。
「間に入るってね」
京子は椅子に深く座り直す。椅子が軋む。
「相当な覚悟がいるし。エネルギーもいるし。ろくな事ないのよ」
言い切る。躊躇いはない。
「今回みたいなのは特に」
ため息混じりに続けられる。
「どっちの言い分も、それなりに正しいから」
悠子も小さく頷く。
「調整ではなく、受け皿になりますね」
「そう」
京子が机を指先で叩く。
「受け皿。しかもクッション付き~」
少し遅れて、背後からまたぼそっと森もっちゃんが呟く。
「衝撃全部来るやつだねぇ」
匠は少しだけ視線を落とす。
全部、来る。その言葉が妙にしっくりくる。
「・・・仕事の範囲って、どこまでなんだろうって思います」
ぽつりと落ちる飾りのない本音。この仕事は好きだ。子供も好きだ。給与が普通より安いくらいで、不満だと思った事はない。だけど・・・。
「いいとこ突くね」
京子がすぐに返す。間を置かずに帰ってくる声は少しだけ笑っている。
「正解はね、ない」
「・・・ない、ですか」
確認するように、弱く返す。
「ない。この仕事にマニュアルなんてものはないし、作れない」
何年も勤めている京子の言葉から迷いは全く感じられない。
「勿論、怪我の対応とか。災害時のマニュアルも一応整備されているけど、」
肩を竦める。
「いざって時は、結局、臨機応変て言葉で、現場で何とかするしかないのよ」
きっぱりと言い切る。
「今回のも、それ」
その即答に、妙に納得する。
「ただね」
一拍。わざと一呼吸の間。
「自分で線引かないと、際限なくなる」
京子が指で机を軽くはじく。
・・・線。
昨日も今日も、その言葉ばかり浮かぶ。
「困ってるから助けるは、間違ってない」
京子の声が少しだけ落ちる。
「でもね」
視線が真っ直ぐになる。
「助けた結果、何が返ってくるかは別問題なのよ」
背後で森もっちゃんが小さく笑う。
「来るのは苦情だけ、ってやつねぇ」
勝手にため息が漏れる。
「災害の時も同じだよ~。親が迎えに来ない~って泣いて、精神的に不安定になる子供百人見てるだけで手一杯なのに、多分、近隣から『入れてくれぇ』『備蓄分けてくれぇ』って来るよねぇ」
一拍。
「言ってる事は間違ってないし、困ってるのも分かるけどさぁ」
少しだけ間を置く。
「こっちも限界はあるよ~。神様じゃないけど、こっちで手を伸ばす範囲は決めとかないと困った事になる。神様じゃないから、全てを助けるのは無理~」
乾いた笑い声が混じる。
「そうそう」
京子が苦笑交じりに軽く同意する。
「ほんとそれですね」
匠も、合わせるように少しだけ笑う。でも、胸の奥はあまり軽くならない。
助けた、つもりだった。そのつもりが、一番危ないのかもしれない。
「・・・お互いを悪役にはできないから」
言葉を探るように、ゆっくりと続ける。
「たまたま間に入った人に、押しつける・・・みたいな」
京子が頷く。
「そういう事」
あっさりと肯定。
「一番都合いいのよ、間の人間って」
間に滑り込むように、悠子が静かに続ける。
「責任の所在が曖昧ですから」
「で、言いやすい」
京子先生がかぶせる。
「反撃してこなそうだしね。特に匠せんせー」
森もっちゃんが肩をすくめる気配。
「優しそうな人ほど、狙われるやつ~」
匠は苦笑する。否定できない。
「・・・やっぱり、関わらないのが一番ですかね」
口に出してみると、逃げみたいに聞こえる。
京子が少しだけ間を置く。
「まあ、極論ね」
悠子が深く息を吸う音が聞こえた。
「でも、半分は正しい」
はっきり言う。
「性善説とボランティア精神だけでやってたら」
少しだけ声が低くなる。
「この仕事、続かないよ」
その言葉は、脅しじゃない。経験から出ている重さ。
匠は何も言えない。
悠子が静かに補足する。
「関わるなら、ルールと距離感が必要です」
「そうそう」
京子が指をさす。
「優しさだけじゃなくて、線引きもセット」
一拍。
「今回、あんたはちょっと越えた」
匠が苦笑する。
「・・・はい」
分かってる。
だから、引っかかってる。
「でもね」
京子は少しだけ柔らかくなる。
「助けた事は間違っていない。それで学べばいいのよ」
軽く肩をすくめる。
「最初から完璧な線引ける人なんていないから」
背後から、またぼそっと森もっちゃんの声が聞こえる。
「失敗込みで経験値だよねぇ」
匠もゆっくり頷く。
「・・・はい」
次は、どうする。同じ場面で、同じ選択をするか。
まだ、答えは出ない。
でも、引くべき線の形だけは、少し見えた気がした。
事務室に、少しだけ静かな時間が戻る。
京子が立ち上がる。
「はい、反省会終わり」
パン、と手を叩く。
「帰るよ」
いつもの調子。
悠子もパソコンを閉じる。
森もっちゃんは静かに壁から離れる。
匠は少しだけ遅れて立ち上がる。
線を引く。
簡単じゃない。
でも、引かないと、呑まれる。
その感触だけが、残っていた。
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