わたしです
ドミノの音は、嫌いじゃない。
かち、かち、と乾いた音が一定の間隔で続くと、頭の中が少し静かになる。考えなくていい事だけを考えられる感じがする。こういう時間は、六年生になってから少しだけ上手く使えるようになった。
騒がしい中でも、自分の中だけ切り離すみたいに。
節子は、最後の一枚を指先で整えた。今日は邪魔されなかった。
誰かがわざと手を伸ばしてくる事も、途中で崩される事もない。それだけで、ほんの少しだけ肩の力が抜ける。
「・・・できた」
声は小さく、でもはっきり出た。ちゃんと最後までやりきれたという事実を、誰かに聞こえるくらいには。
隣で見ていた未菜が、ほっとしたように笑う。
「すごっ、綺麗。倒そっ。皆呼んでくる?」
「まだ。ここ、繋ぐから」
褒められても、すぐには終わりにしない。途中で満足すると、最後のところで失敗するのを、もう何度も知っている。
床はひんやりしていて、ワックスの匂いが微かに残っている。奥では低学年の子がブロックを落として、軽い音がする。キーボードを鳴らして、それに合わせて鼻歌を歌っている子もいる。
児童館は、いつもいろんな音でできている。
去年までは、その音にいちいち引っ張られていた。気になって、途中で手が止まって、崩してしまう事も多かった。
でも今は、違う。
音は聞こえているのに、邪魔にはならない。
でも、ドミノの周りだけは少しだけ静かだった。
その時。
玄関のドアが、乱暴な音を立てて開いた。
視線がそっちに引っ張られる。
息を切らしたまま、靴音を鳴らして上がり込んでくる木村お母さん。顔は強張って、周りを見ているのに、誰も見ていないみたいな目だった。
「昨日うちの環に死ねって言った子は誰!」
声が、まっすぐ飛び込んでくる。
節子の手が止まる。
反射みたいに、昨日の事が浮かんだ。
ドミノが散らばって、未菜が固まって、環が笑っていた。
『もうやめてっ』
『うるせーな。死ねっ』
『死ねって言う奴が死ねっ。3年生にもなって、やっていい事と悪い事の区別もつかないのっ!』
『知るかっ』
その先。
『死ねしか言えないの?』
『うっせーブス!』
環が一歩、踏み込んでくる。距離が急に近くなる。
『ダッセー名前の奴に言われたくねーんだよっ』
一瞬、言葉の意味より先に、見下されたのだけははっきりわかった。引くより先に、どうやって傷を返すかを考えていた。
胸を押される。体勢が崩れる。
節子の体勢が戻る前に、もう一歩、環は詰めてる。
『邪魔して楽しい? 悪口言って楽しい?』
『死ねよっ』
環の足が出る。膝のあたりに、鈍い衝撃。蹴られた。
そのまま、ぐっと距離が詰まって、髪を掴まれて、強く引かれる。
首ごと揺さぶられて、視界がぶれる。
『きっしょ』
唾が顔にかかる。
反射で、蹴り返した。
狙ったわけじゃない。ただ、やり返したくて。離れたくて。足先が当たる。
そのまま、もう一度蹴ろうとしたところで・・・
『はい、そこまで』
腕を掴まれる。ちょっと強くて、痛い。と同時に、体と体の間に、森もっちゃんが滑り込んでくる。
掴まれていた髪が離れる。頭皮に残るじん、とした痛みだけが遅れて残る。
腕を押さえられて、一歩、後ろにずらされる。
『離す。はい、手』
動こうとすると、その分だけ位置をずらされる。完全に間合いを切られる。
『足も、出さない。終わり』
低く言われて、動きが止まる。
環の方にも、もう片方の手が伸びていた。
完全にぶつかり合う前に、流れを切られたのがわかる。
それでも、口だけは止まらなかった。
『それって、自分では殺せないって事だよね?』
『うっせー、ザコ、消えろっ』
『自分の手でやれないって事だよね? 雑魚はどっち?』
『ブスが調子乗んなっ!』
『怖くて殺せないから、死ねって言うんでしょ』
喉が少し痛い。息も乱れてる。
それでも、言葉はそのまま出た。言葉を選んだ記憶はない。ただ、出した。
『うっぜぇー!』
『終 わ り』
森もっちゃんに止められて、やっと二人止まった。体だけ先に止まって、最後まで残ったのは、息と、言葉だった。
あの時は、正しいと思っていた。
でも今、その全部が音になって戻ってくる。
喉の奥が重くなる。
「連れてきて! 謝って!」
「うちの環は怖くて、児童館に来れないって言ってるのよ!」
嘘だ、と思った。
ほとんど反射みたいに、節子の頭の中に浮かぶ。
それなら、あの子達はどうなる。
一年生と二年生。崩されたドミノを前にしゃがみこんでいた子達。
気づかれないように、標的にされないように、静かに固まっていた子達。
未菜は昨日帰り際になってやっと、「明日もドミノやろう」って。「今度こそ最後まで完成させようね」って返事した。
あの場にいた何人もが、顔を固くして、笑いも声も消して、目を逸らしていた。
怖いって、ああいう顔だ。
知っている。
なら、怖がらせているのは、どっちだ。
「今日学校も休んだの!」
「私仕事に行けなくて、困るのよ!」
言葉は途切れず、強さだけ増していく。
空気が、押し込まれるみたいに重くなる。
怖い、と感じる。
環に向けた言葉とは、種類の違う怖さだった。
カウンターにいた京子せんせーが動いていく。速さを見せない速さで、すっと間に入る。
丸みのある顔立ちに、やわらかい髪。でも視線はまっすぐで、逃がさない。
「お母さん、こちらでお話を・・・」
「いいから出しなさいよ! 言った子を!」
言葉がぶつかる。
周りの子供達が、息をひそめる。
節子は自分だ、とわかる。
足が、動かない。
そのとき、前に赤が入った。
森もっちゃん。
赤いフリースの背中が視界を半分ふさぐ。体は大きいのに、動きに無駄がない。
「大丈夫」
低くて短い声。
それだけで、少しだけ音が遠くなる。守られている位置、隠されている位置にいる、と気づく。
自分が言ったのに。
ドミノを崩された事も、腕を掴まれた事も、蹴られた事も、ちゃんと覚えているのに、それでも今はただ守られている側にいる。
その事実が、胸の中でひっかかる。
「みんな、奥行こうか」
匠せんせーが静かに言う。
いつもなら、嫌だとかなんで~とか言う子達も、おとなしく移動していく。
振り向くと、背の高い体が少しだけかがんでいる。目線を合わせるために、ちゃんと低くしているのがわかる。いつもより表情が硬いが、声は変わらない。
「静かな部屋あるから」
バイトの小春ちゃんも、子供達に目線を合わせる。少しぎこちないしゃがみ方で、それでも一人ずつ顔を見ようとしている。笑おうとして、ちょっとだけ口元が遅れる。
「続き、あっちでやろ」
未菜が、袖を軽く引く。
「・・・行こ」
節子は一度だけ、ドミノを見る。
きれいに並んだまま、崩れていない。
立ち上がる。
足は動く。
でも、頭の中で別の動きが止まっている。
後ろでまた声が上がる。
「言った子を出しなさいよ!」
逃げるみたいに奥へ向かう子供達の流れに、乗る。
一歩、二歩。
そこで、止まる。
このまま行けば、終わる。
多分、誰も言わない。誰も何も言わないまま、うまく流れて、なかったみたいになる。そのままになる。
それでいいのか、と考える。
胸の奥が、蹴られた所みたいに、じん、とする。
怖い。怒られるのも、責められるのも、ちゃんと想像できる。
でも、それと同じくらい、嫌だった。
誰が言ったかだけが残って、どうしてそうなったかが消えるのが。
昨日、自分は止めたかった。あのまま、何も言わないのが嫌だった。
邪魔したのは、そっちだ。悪いのもそっち。
だから言った。強すぎる言い方で。間違っていたかもしれないけど、間違っていない。でも、言わないよりはましだと思って、言った。
なら、ここで黙るのは、さっき自分が嫌だと思ったやつと同じだ。
正しいかどうかは、よくわからない。
でも、ずるいのは、わかる。
怖さは消えない。
むしろ、さっきよりはっきりしている。
それでも、体を動かす。足が、少しだけ重い。
それでも、止まったままの方が、もっといやだった。
「・・・せんせー」
自分の声が、思ったより小さい。
匠せんせーが振り返る。
目が合う。
逃げない目。
それに押されるみたいに、言葉が出る。
「わたしです」
少しだけ、間があく。
周りの空気が止まる。
それでも続ける。
「昨日、環に・・・言いました」
喉がつまる。
でも、言い切る。
京子せんせーの視線が、こちらに向くのがわかる。
森もっちゃんの背中が、僅かに動く。
怖い。
はっきりと、怖い。
それでも、足は引かない。
ドミノは、まだ倒れていない。
けれど、今、自分で一枚押した感覚だけが、はっきりと残っていた。
ドミノの音は、もう聞こえない。自分で言った「わたしです」が、まだ耳の奥に残っている。時間が、少しだけ遅くなった気がした。
森もっちゃんが、ちらっとこっちを見た。
ほんの一瞬。
それから、小さく首を振る。
だめ、って。
止めるみたいに。
でも、もう遅かった。
「はあ?」
声が、変わる。
さっきまで玄関にいたはずの木村お母さんが、靴のまま一歩、中に踏み込んでくる。
床に、硬い音がする。
児童館の空気に、その音だけが浮く。
「言ったのはアンタ!?」
まっすぐ、こっちに来る。
視線が刺さるみたいに重い。
「どう責任取ってくれるのよ!」
足がすくみそうになる。
でも、その前に赤いのが完全に前に入った。
森もっちゃん。
さっきより、近い。背中じゃなくて、壁みたいに立っている。
「木村さん。驚かれましたよね。学校に行きたくない・・・困るでしょう。急にああいう言葉が出てきたら、怒りたくなるのも無理はないと思います」
声が低いまま、少しだけ柔らかい。
「その上で、少しだけ状況を整理させてください」
いつもの声じゃない。のんびりした、どこか抜けたみたいな話し方じゃない。
低くて、重くて、まっすぐ届く声。
低学年の子に「デブ」とか「まりも」とか言われても、「悪口はいけませ~ん」「そんな名前ではありませんよ~」って、笑ってるのか注意してるのかよくわからない、あの感じが、どこにもない。
別の人みたいだった。
「あんたに何がわかるのよ!」
ぶつかるような声。
でも、森もっちゃんは動かない。
一歩も引かない。
「全部ではありませんが、見えていた範囲の事はお伝え出来ます」
否定しない。遮らない。
間を置かずに返す。
「見ていましたので」
「だったら、止めなさいよ!」
「止めています」
短く、でも柔らかく。
「だからこそ今、環ちゃんは誰に何をされたかを言葉にできている状態です」
一呼吸。
「強い恐怖があると、何があったのかもが言えなくなる事も多いので」
責めるでも、かばうでもない。
ただただ、事実を。
その一言で、空気が変わる。
さっきまで押してきていた声が、一瞬だけ止まる。
森もっちゃんの背中は大きい。でも、ただ大きいだけじゃない。押されても動かないものみたいに、そこにある。
「流れは一通り見ています。この子がその言葉を使うまでの経緯も含めて」
一言ずつ、区切る。
「その前に、環ちゃんから、この子達に向けてあった関わりも確認しています」
節子は少しだけ、横を見る。未菜たちのいる方。
「やり取りの中で交わされた言葉も、できる限りそのままお伝えできます」
視線を戻す。
逃がさないみたいに。
「一連の流れとして、把握しています」
最後の一言は、静かだった。でも、一番重かった。
音は大きくないのに、床に落ちて、そのまま動かない感じ。
児童館の中が、しんとする。さっきまで聞こえていたブロックの音も、キーボードの音も、遠くに引っ込んでいる。
節子は、その背中を見ている。さっきと同じ赤いフリース。でも、さっきとは全然違う。やわらかいはずの布が盾みたいに、硬く見える。
守られている、と思う。今度は、さっきよりはっきり。
その後ろに、自分がいる。
怖さは、消えない。でも、全部こっちに来るわけじゃない、とも思う。
森もっちゃんが、前にいるから。
ドミノは、まだ倒れていない。
でも、さっきよりもずっと、倒れない形で、並び直されている気がした。森もっちゃんの把握していますが、し・・・んと、残っている気がした。
木村お母さんの声がそこで一度、止まる。
言い返そうとして、言葉が出てこない、みたいな間。
さっきまでまっすぐだった勢いが、少しだけ曲がる。
その隙に。
京子せんせーが、すっと横に入った。
さっきと同じ動き。速くないのに、気づいたらもう間にいる。
顔はやわらかく戻っている。さっきの強さを引っ込めて、代わりに、逃がさないやさしさを出している。
「お母さん、こちらでゆっくりお話を伺いましょう」
声も、少し低くて落ち着いている。
押さないのに、引かせる声。
木村お母さんが、ほんの少しだけためらう。
それから視線を外して、京子せんせーの方へ体を向ける。
「・・・ちゃんと、説明してもらいますからね」
「はい、もちろんです」
京子せんせーはうなずいて、そのまま自然に面談室の方へ歩き出す。
木村お母さんも、ついていく。
靴のままの足音が、だんだん遠くなる。
扉が閉まる音は、小さかった。
それでやっと、空気が動いた。
止まっていた音が、少しずつ戻ってくる。
奥の部屋の方から、ぱっと高い声が上がった。
「やったー!」
「ちがうって!」
すぐあとに、「こら! 順番守れって言ってるだろ!」匠せんせーの声。
さっきよりはっきり怒っている声なのに、どこかいつも通りで、変に安心する。さっきまでの重さが、嘘だったみたいに。
森もっちゃんが、ふっと息を抜いたみたいに肩を落とす。
それから、またちらっとこっちを見る。今度は、さっきみたいな止める目じゃない。いつもの、ゆるい目。
「ああいう時はね~」
声も、戻っている。
「子供は黙って知らん顔してなさいな~」
のんびりした言い方。
さっきと同じ人だと思えなくて、少しだけ変な感じがする。
それも、悪い方をオススメして。
節子は、頷くでもなく、そのまま立っていた。
森もっちゃんは、気にした様子もなく続ける。
「面談室、行くからさ~」
くるっと体の向きを変える。
「節子ちゃんも奥で、小さい子達と遊んでくれる~?」
軽い調子。頼んでるのか、決めてるのか、よくわからない言い方。
でも、断る感じじゃない。
奥からまた、子供達の声がする。さっきより少し大きい。匠せんせーが何か言って、それに誰かが笑っている。さっきまでの事が、また少し遠くなる。
節子は、小さく息を吸う。
「・・・うん」
短く答えて、奥の部屋の方へ歩き出す。足の裏に、床のひんやりが戻ってくる。振り返ると、ドミノはそのまま残っている。
まだ、倒れていない。
でも、さっきとは違って見えた。そのままにしておくしかないもの、みたいに。
節子はそれ以上見ないで、奥の部屋へ入った。
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