第七話:黒き津波と、里の古神
地平線を埋め尽くす黒い波が、ついにフンデルトの城門へと到達した。
それは、数千、数万という「虫型のヒトガタ」の軍勢。カマキリのような鎌、甲虫のような外殻、そして無機質な複眼。それらが発する羽音と足音の混濁は、もはや一つの巨大な地鳴りとなって大地を揺らしていた。
鉄塊の旋風
「んふーーーー……! 来い、羽虫ども!!」
城門の前に仁王立つヴァレリアが、地面から二百キロの鉄塊を引き抜いた。
馬の返り血で真っ赤に染まった彼女の肉体は、降り注ぐ月光と魔王軍の黒い影を跳ね返し、不気味な輝きを放っている。
最前列の虫型兵たちが、鋭い鎌を振り上げ、一斉にヴァレリアへと躍りかかった。
だが、その刹那。
――ブンッ。
空気を、いや、空間そのものを押し潰すような凄まじい風圧が吹き荒れた。
ヴァレリアが放った水平斬り。それは「斬る」というよりは、鉄の質量で「消し飛ばす」という表現が正しかった。
直撃した数十体のヒトガタは、その堅牢な外殻ごと木っ端微塵に粉砕され、後続の群れを巻き込みながら肉片となって霧散する。
「がははは! 軽い、軽いぞ相棒!!」
狂ったように笑いながら、ヴァレリアは三時間一万回の素振りで鍛え上げた腕力で、巨大な鉄の板を紙切れのように振り回す。
ネネの切り札:里の契約
しかし、敵はあまりにも多すぎた。
一体倒せば十体、十体倒せば百体がなだれ込んでくる。鉄塊の隙を突き、空から、背後から、無数の鎌がヴァレリアの喉元へと迫る。
「……やれやれ、これだから力押しは嫌いなのよ」
ヴァレリアの背後、城門の影で静かに魔力を練っていたネネが、冷ややかに呟いた。
彼女は懐から、奇妙な意匠の施された「信楽焼の破片」のようなメダルを取り出した。
「ユウサクさん、少し離れて。……タヌキの隠れ里での契約、ここで使わせてもらうわ」
ネネが掲げたメダルが、禍々しい紫色の光を放つ。
それはかつて一行が訪れた「タヌキの隠れ里」にて、彼女が秘密裏に交わしていた古き神との契約だった。
「――出でよ、欺瞞と変幻を司りし者。肥大せし袋に呪いを詰め、異形の姿にて軍勢を呑み込め!」
異形の神の退場
出現した巨大なタヌキの異形神は、その圧倒的な質量と呪いで虫の軍勢を蹂躙した。しかし、魔王軍もただ無策ではなかった。
「……鬱陶しい置物だ」
軍勢の奥から、巨大なキセルを振り回す影が飛び出した。それは、筋骨隆々とした「カブトムシ型の人型」――。その怪力によって振るわれたキセルがタヌキの鋼鉄の腹を突き破り、異形の外装を破壊する。
『――グギ、ォ……!!』
致命的な損傷を負ったタヌキの神は、霧となって神の世界へと帰っていった。
血の池を歩く怪物
召喚獣が消え、再び戦場にはヴァレリアだけが残された。
彼女は今、積み上がった虫たちの残骸と、流し出された体液の「血の池」の上を悠然と歩いていた。
「ぬるい、ぬるいぞぉぉぉぉぉぉ!!」
ヴァレリアが叫ぶ。凶器のような殺気が彼女を包み込み、その姿はもはや聖戦士ではなく、地獄の番人のようだった。
後ろで見ていたユウサクは、その光景におののいていた。
たった一人で数千の軍勢を蹴散らし、返り血で真っ赤に染まりながら、なお底知れない余力を残している。誰の力にも頼らず、ただひたすら自分の「思い込みの力」だけで登りつめた、ありえない高み。
(……ヴァレリア……。お前、いつの間にそこまで……。ユウサク、怖いです……)
ユウサクは、震える声でそう呟くことしかできなかった。
一騎打ち:ヴァレリア vs ヘラクレス
そこへ、タヌキを退けたカブトムシ型の人型が立ち塞がった。
「我が名はヘラクレス。貴様のような怪物が人間に与しているとはな」
「ヴァレリアだ……。お前の角、いい具合に持ちやすそうだな」
ヘラクレスは激昂し、その強靭な角をヴァレリアに向けて突進した。重戦車のような突撃。
だが、ヴァレリアは逃げなかった。それどころか、迫りくる巨大な角を両手でガッシリと掴み取ったのだ。
「……んふっ!」
メキ、メキメキ……!
角の根元から、信じられない破壊音が響く。ヘラクレスの複眼が焦りに揺れた。
「なっ……!? バカな、我が突進を力ずくで……!?」
ヘラクレスがいくら足を動かしても、ヴァレリアという不動の岩を動かすことはできない。それどころか、ヴァレリアがグイと腕を突き上げると、ヘラクレスの六本の足がふわりと地面から浮いた。
「えっ……えっ? 貴様、何をするつもりだ……うわああぁぁぁぁぁ!?」
ヴァレリアはそのまま、自重数百キロはあるヘラクレスを「投げ飛ばした」。
ドォォォォォン!!!
街の奥へと砲弾のように飛ばされたヘラクレスは、そのまま「星の教会」へと直撃。かつてヴァレリアが鉄塊を授かった聖なる建物は、粉々になって崩壊した。
その光景を見たヴァレリアは、怒りに震えて叫んだ。
「卑怯な! ターゲットを住民に変えたか!! よくも教会を……街の人たちを狙ったわね!!」
自分が投げ飛ばしたという事実にすら気づかず、ヴァレリアはヘラクレスの「卑劣な作戦」だと決めつけ、さらなる殺意を燃え上がらせた。




