くろい川
何日かたつと、夕方には階段室の下の通り抜けに人が溜まるようになっていた。
踊り場に立つ人も、日ごとに増えている。戸の前で足を止め、何も言わずに端末を構えて、少しして下りていく。下りていった人の代わりに、別の誰かが上がってくる。母親は台所の椅子に浅く座り、膝の上で手を組んだまま、ずっと階段の音を数えるような顔をしていた。
「今夜は、ここを出ます」と芹沢が言った。「一晩だけです。朝には戻ります」
「どこへ」
「決めていません。人のいない所に車を止めて、朝を待つ。ここにいるよりは、静かです」
母親は窓の布を見た。それから、押し入れのほうを見た。
「……結を、外へですか」
「車の中です。中にいれば、外からはほとんど見えません。出るのは、まだ明るさが残っているうちに。階段の灯りの下なら、あの子は光りません」
母親は長いあいだ黙っていて、それから、押し入れの戸を一度だけ叩いた。
「結。上着、着て。……出かけるの」
中から返事はなかった。少しして戸が開き、子どもが顔を出した。まだ日が残っているので、頬は光っていない。
「どこ」
「分からないの。夜のあいだだけ」
「夜? 外?」
子どもの声が高くなった。母親が唇に指を当てると、子どもは自分の口を両手でふさぎ、目だけを大きくした。
「両角、部屋を頼む」
「はいはい。右は留守番に反対、左は賛成。私は、まあ、ここで本を読む」両角は台所の椅子を窓から離れた所へ引いた。「戸は開けない。灯りもつけない。戻ってきたら、合図は二回」
出るときは、芹沢が先に立った。階段室の灯りは昼間より白く、子どもは母親の上着の中に半分隠れて、その下を下りた。踊り場の端末が、いっせいにこっちを向いた。錠は子どもの側に体を寄せ、雨宮は少し離れて、いちばん後ろを下りてきた。端末の画面の中で、子どもはただの、上着をかぶった子どもだった。光ってはいなかった。
駐車場の灯りの下を抜けて、白い車に乗る。芹沢が運転席、錠が助手席、後ろに雨宮と母親と子ども。雨宮は窓に体を寄せて、母親とのあいだに隙間を作った。
団地を離れて大きい道に出たころには、日がすっかり落ちていた。
「じょう」
後ろから声がした。いつのまにか、子どもは錠をそう呼ぶようになっていた。誰かが呼ぶのを聞いていたのだろう。
「じょう、あれなに。上の、ずっと続いてるの」
「高架だ。車が走る道。上にもある」
「上に道があるの? なんで」
「下が混むから」
「ふうん。……あかいの、いっぱい」
前を走る車の尾灯が、道の先まで並んでいた。子どもは窓に額をつけていて、その額と頬が、窓の外の明かりが切れるたびに青白く浮いた。母親はその肩に手を置いていたが、窓から引き離そうとはしなかった。
「あれ、川?」
橋を渡るところだった。黒い水に、岸の灯りが縦に長く伸びて、揺れている。
「川だな」
「くろい。でも光ってる。灯りがうつってる。ゆいみたい」
誰も返事をしなかった。子どもはそれで構わないらしく、見えたものを順番に口に出していった。信号。犬を連れた人。閉まった店のシャッターの絵。高い建物の、上のほうだけ点いている窓。錠は前を見たまま、それを聞いていた。夜の町を、こんなふうに一つずつ数えたことはなかった。
芹沢がバックミラーを見たのは、三つ目の信号を過ぎてからだった。二度見て、三度目は長く見た。
「隊長」
「後ろに一台いる。団地を出たときから」
芹沢は言っただけで、速さを変えなかった。角を二つ曲がり、大きい道から外れて、家の並ぶ細い通りに入る。小さい公園の脇で、車を止めた。街灯が一本、ブランコの鎖を照らしている。
「ここで、少し様子を見る」
後ろの一台は、角を曲がってこなかった。エンジンの音が遠ざかっていく。錠は息を吐いた。
雨宮が、黙って後ろのドアを開けて外へ出た。車から三歩離れた所の、電柱の陰に立つ。車の中の誰からも、手の届かない距離だった。子どもが窓に手を当てて、よいちゃん、と口だけ動かした。
前から光が来た。
通りの先の角から、車が一台、こっちへ鼻を向けて止まった。眩しさに目を細めているうちに、後ろでも同じ光が止まる。道は車一台ぶんの幅しかない。前と後ろを、ふさがれていた。
灰色の服がドアから降りてくる。四人、五人。
「辻さん、伏せて。子どもを下に」芹沢がシートベルトを外した。「久我、出るな」
錠は出なかった。出る前に、電柱の陰の雨宮が見えていた。両腕を体の脇に垂らしたまま、一歩も動いていない。顔だけが、近づいてくる灰色の服のほうへ向いている。
生あたたかい風が、車の窓を叩いた。
白いものが、雨宮の襟の後ろからせり上がった。電柱より高く伸び、街灯の光をさえぎって、通りに大きい影を落とす。長い腕が二本、アスファルトに手のひらをついた。濡れた重い音がする。白い表面に目が開いていく。半分は灰色の服を見て、残りは、車の中を見ていた。
〈脅威を検知。右腕の戦闘使用を提案します。許可しますか〉
「しない」
〈了解しました〉
寮へ移った日、廊下で、あの目の半分が錠の右腕を見ていた。お前の腕がな、と芹沢が言ったのも覚えている。あいつが怖いのは、自分の腕だ。ヨルのいる所で、これを出したくなかった。
灰色の服たちは、ヨルの手前で止まった。近づかない。待っている。何を、と思ったとき、通りの先の、前の車のさらに向こうに、人が一人立っているのが見えた。
白い服の子どもだった。
子ども、と見えたのは、細かったからだ。街灯の光の端に立って、両手を胸の前で組んでいる。頭を少し下げて動かず、遠くて顔は見えない。祈っている人の形だった。
ヨルが、萎みはじめた。
何かに当たったのでもなかった。腕がアスファルトから浮き、目が端から閉じて、背中が縮んでいく。雨宮が電柱に手をついた。膝が折れかけて、こらえている。ヨルは雨宮のうなじへ、吸いこまれるように引いていく。道に濡れた白い薄皮が残った。
灰色の服が動いた。
ヨルのいなくなった道を、まっすぐ車のほうへ来る。芹沢がドアを開けて外へ出た。後ろのドアの前に立つ。錠もドアを開けた。腕は出さない。それでも、立つことはできる。
そのとき、通りの家の戸が開いた。
右の家、その隣、向かいの二階の窓。悲鳴が上がり、灯りがついていく。玄関から転がるように出てきた男が、腕を押さえていた。押さえた指のあいだから、包帯の上に赤いものが広がっていく。
「血が、なんで、さっきまで」
向かいの家からは、女の人が出てきた。額を押さえた年寄りの腕を、肩に回して支えている。年寄りの額の絆創膏が、内側から黒く濡れていた。支えている女の人のほうは、どこからも血を流していなかった。
通りじゅうに、灯りが増えていった。窓という窓に人が立ち、誰かが救急に電話をかけている声がする。端末の画面の光が、あちこちで光った。
灰色の服が、足を止めた。一人が耳に手を当てて、何か聞いている。それから短く何か言い、全員が下がりはじめた。来たときよりも速かった。前の車と後ろの車に乗りこみ、ドアの閉まる音が重なって、二台はバックで角の向こうへ消えていく。
通りの先を見た。街灯の光の端には、もう誰も立っていなかった。
錠は振り向いた。雨宮は電柱の根もとに座りこんでいた。息が浅い。額に汗が浮いている。腕を抱えて、自分のうなじに指を当てていた。そこにまだ何かがあるのを、確かめているような手つきだった。
「雨宮」
返事はない。錠は近づかなかった。近づいていいのかどうか、分からなかった。
後ろの席で、子どもが窓に両手を当てていた。指の一本ずつが光っている。外の人たちの騒ぎも、救急車を呼ぶ声も、子どもの光を消さなかった。
「ヨル、ちっちゃくなった」子どもが言った。「よいちゃん、いたい?」
母親が子どもの頭を、自分の胸に押しつけた。
芹沢は、まだ後ろのドアの前に立っていた。通りの両端を見て、それから、自分の車を見た。団地を出たときから後ろにいた一台のことを、錠は思い出した。
「隊長。この車」
「ああ」芹沢は短く言った。「この車じゃ、出られんな」




