掃きだめの街
酒場というのかしら? それともバー? 一軒一軒、さりげなく視線を走らせると、どこもお酒を提供しているらしく、お客さんは葡萄酒や麦酒を飲んで盛り上がっているみたい。かといって店の端っこの方で一人寂しく飲んでいる人もいる。
食べ物と酒精のきついにおいが鼻にまとわりつく。
こんなにおい、王宮で嗅いだことがないわ。
見たことのない光景は、刺激的というよりかは怖ろしくさえ感じる。
老婆に教えてもらった緑色の看板の飲み屋の前にやって来た。
通りに面したガラス窓をのぞきこむと、何人かの客がケンカをしているみたい。開きっぱなしになっている木製の扉から、怒鳴り声がきこえてくる。
その酒場の横手に建物のエントランスがあり、その奥には上階へと続くであろう階段がある。
「アール、行きましょう」
アールにというよりかは自分を促す為にアールに声をかけ、二人して建物の中に入った。
階段はかなり古く、一段のぼるごとに怖ろし気な音を発する。
そして、二階へと達した。
薄暗く湿った廊下には、鼻をつまみたくなるほどの異臭が漂っている。
意を決してその廊下を奥へと進んだ。
廊下の左右に扉が並んでいて、その扉の間隔から一部屋の大きさがそれほど広くはないことがわかる。
床にはゴミやそうでない得体の知れないものが積もっていて、壁や扉には落書きや得体の知れない汚れが付着している。
さすがに気がひける。
そのわたしの心情の変化に気がついたのか、アールがカーディガンの裾を噛んでひきとめてきた。
「わかっているわ」
体ごと反転させ、彼に言った。
「バカね、わたしって。だまされていると心のどこかで思っていたのに、それでもノーマンを信じていたのだから。だけど、せめて彼の真意を知りたい。せっかくここまで来たのだから」
まだ裾をくわえたままのアールに告げた瞬間、彼はそれを放して四肢を踏ん張りうなり始めた。
「おやおや、まさかほんとうに来るとはな」
一瞬にして凍り付いてしまった。
大げさではなく、体が委縮して動けなくなってしまった。
その声がだれのものなのか、わかりすぎるくらいにわかっている。
「へー、このレディが今度の獲物? ダウリング侯爵の奥さん? やけに若いな」
「政略結婚ってやつらしいぞ。上流階級も大変だな」
すぐうしろにいるのはノーマンだけではないみたい。彼の仲間か友人か、とにかく数名いる。
「せっかく来てくれたんだ。歓迎するぞ」
うしろからノーマンがわたしの腕をつかみ、無理矢理彼の方を向かせた。
「ガルルルルル」
アールは、世にも怖ろしいうなり声を発している。
「チッ、こいつめ。だれか、こいつをぶっ殺せ」
「やめて」
ノーマンの腕を振りほどこうと暴れるけれど、びくともしない。
「アール、逃げなさい。行くのよ」
せめてアールだけでもここから逃さないと。
絶望の中、ノーマンの仲間の一人が都合よく廊下に転がっている酒瓶を拾い上げ、それを振りかざしてアールに迫った。
アールはますます唸り声を上げるだけで、わたしの命令に応じようとしない。
「逃げなさい、アール」
半狂乱状態である。それでも、彼は逃げようとしない。
「おい、おれの妻と飼い犬になにをしている」
そのとき、アールのうなり声よりもはるかに低く、獰猛な響きを帯びた声が流れてきた。それこそ、流れてきたという表現がぴったりなほど、廊下を這うような感じできこえた。
その声にも覚えがある。
「ダ、ダウリング侯爵?」
ノーマンの手が緩んだ。
その機を逃すほどわたしは間抜けではない。
身を翻し、アールとそれから侯爵の側まで下がった。
「妻を誑かし、おれを脅す算段か? ふんっ! この代償は高いぞ」
「くそっ」
侯爵の毅然とした態度に、ノーマンたちは怖れをなすと思った。だけど、違った。
ノーマンは仲間の手から酒瓶を奪うと、こちらに殴りかかって来たのである。
「リエ」
呼ばれた瞬間、侯爵がわたしを抱きしめた。
彼はわたしをかばい、わたしのすべてを抱きしめた。
彼はあたたかい。とってもあたたかい。
なぜかそんなことを感じた。
「リエ、行くんだ」
唐突に体が解放され、侯爵に押しやられた。
「ですが、あなたが?」
「おれは大丈夫。アール、リエを頼んだぞ」
嫌だと言おうとしたけれど、侯爵はわたしに背を向けてしまった。そして、アールがカーディガンの裾をくわえてひっぱり始めた。
そうね。わたしがここにいても足手まといだわ。
そう思い直すと、走りだした。
ボロボロの階段を降りようとした瞬間、「うおーっ!」という侯爵の悲鳴とも雄叫びもつかない叫び声がきこえてきた。
その瞬間、うしろを振り向いた。
「キャアッ」
よそ見をしたものだから、右足が段を踏み損ねた。
体がグラついたかと認識したときには、階段上を舞っていた。
そのとき、アールが階段上からジャンプした。
二人でもつれ合いながら舞い、それから落ちて行く。
フワフワした感覚の中、「わたしってばほんとうにドジでバカで意地っ張りだわ」と、あらためて実感した。
そして、すべてが真っ暗になった。




