目撃
「あー、もう。雨が降り始めたわね」
人通りのない閑静な馬車道の脇を通りながら、空を見上げた。
雨雲がはてしなく広がっている。
「アール、付き合わせてごめんなさいね」
一番信頼出来る友人に謝らずにはいられない。
「寒いわね」
雨脚は徐々に強くなってきている。しかも、気温が急激に下がっている気がする。
カーディガンではなく、もっと分厚い上着にすればよかった。
とはいえ、もともとちゃんとした上着は持っていないのだけれど。
「アール、どこかで雨宿りしましょう。二人とも、風邪をひいてしまうわ」
アールに提案したものの、銅貨の一枚も持って来ていない。それに、行く当てもない。
「そうだわ。王立公園に行きましょう。図書館や美術館はまだやっているでしょうし、そこがダメでも雨宿り出来るところはあるはずだから」
そう思いたつと、少しでもはやく雨宿りがしたい。
アールのリードを握りしめ直し、小雨の中走りだした。
王立公園へ向かって走っている間でも、雨脚は強くなる一方である。
眼前に王立公園が見えてきた。
入り口付近には、さすがに人の気配はない。
馬車道を渡ろうとして、少し先に立派な馬車が停まっていることに気がついた。
その馬車に見覚えがあるどころか、公式の場へ向かう際に何度か乗ったことがある。
ダウリング侯爵家の馬車だわ。
その瞬間、侯爵が考え直してわたしを捜しに来てくれたのだと直感した。
どうしよう……。
迷った。あれだけ啖呵をきって飛び出したのに、まだそんなに経っていないのにもう降参して連れて帰ってもらうわけ?
わたしにはプライドはもちろん、意気地もないのね。
またしても、自分自身が情けなくなった。
しかし、その一方でうれしい気持ちもある。
なんだかんだ言って、侯爵はわたしのことを少しは思ってくれているのだということがわかったから。
「アール、今日は日が悪いわ。侯爵が『戻って来てくれ』とお願いしてくるのなら、戻ってもいいわよね? あなたはどう思う」
わたしは、意気地はないのに意地っ張りみたい。
「クーン」
しかも、優柔不断でもある。アールに決断を委ねると、彼は困ったような鳴き声で応じた。
「キャハハハ。面白いわね、それ」
そのとき、甲高いレディの笑い声がきこえてきた。
同時に、馬車の向こう側から男女が現れた。
一つ傘の下、レディは男性に抱きついている。
おもわず、歩を止めていた。
無意識の内に声をだしてしまったみたい。
男性が気がつき、こちらを見た。
小雨の中でも、おたがいの表情は確認出来る。
アールのリードが、手から滑り落ちたのを感じた。
どう理解していいかわからない。とにかく、ここから逃げだしたい。これ以上、彼のこんなところは見たくない。
その思いで頭も心もいっぱいになっている。
一歩、二歩と足が勝手にうしろへ下がり始めた。
「クーン」
アールの心配げな鳴き声をどこか遠くの方できいた気がする。
「リエッ!」
彼が、侯爵がわたしの名を呼んだのも、どこか遠くで呼ばれている気がした。
同時に、侯爵が自分にまとわりつくレディを振り払うようにし、こちらに駆けて来た。
それを見た瞬間、踵を返していた。うしろを向いたときには、すでに走りだしている。
「リエッ、待ってくれ。待ってくれ、リエッ!」
侯爵の怒鳴り声が雨音ににじむ。
いいえ。にじんでいるのは涙。
それでなくても雨で視界が悪いのに、ボヤーッとしてよりいっそう悪くなっている。それでもかまわない。とにかく、侯爵から逃げたい。彼の前から消え去りたい。
その思いで頭と心をいっぱいにしながら、足を動かし続けた。
しだいに侯爵の声はきこえなくなった。
いま、きこえるのは雨音とアールの息遣いだけ。
もしかすると、自分の嗚咽かもしれない。
もうこれ以上走ることが出来ない。体力の限界まで走った。
気がつくと、どこにいるのかわからなくなっていた。
つまり、迷子。
いつの間にか雨はやんでいた。
「アール」
自分のことだけでせいいっぱいだった。というか、自分のこともわからなくてひたすら走っていた。
アールのことを思い出し、左すぐ後ろを見下ろした。
彼は、ちゃんといた。
どれだけ走ったかはわからないけれど、彼はずっとわたしについて走ってくれたのである。
「アール、ごめんね」
前かがみになると、彼の頭部を抱きしめた。
きれいな銀色の毛は、すっかり濡れぼそっている。
「クシュン」
彼がくしゃみをした。
「クシュン」
わたしも鼻がムズムズしてくしゃみが出てしまった。
「体を乾かさないとね。ここ、どこかしら?」
周囲を見まわすと、これまで見たことのない景色が広がっている。
人の通りが多く、ごちゃごちゃしている。通りの両側には、食堂や飲み屋さんかしら? そういうお店が並んでいる。
道行く人は、狼みたいなアールとあきらかに場違いな恰好と雰囲気のわたしに目もくれない。連れの異性と怒鳴り合ったり笑い合いながら通りすぎてゆく。
小説に出てくるような、ちょっと怪しげなところかしら?
そう思うことにした。
すぐ近くに果物を並べている屋台があることに気がついた。老婆が木箱にボーッと座っているので、彼女にここがどこか尋ねてみた。
「ここは、この世の中心さ」
老婆は、そう言って笑った。
歯がまったくないことに気がつき、心の中で驚いてしまった。
「別名アビー街。あんたのような品のいいお嬢さんには、ここは掃きだめみたいなもんさ」
老婆は、また笑った。
アビー街……。
その歯のない笑顔を見ながら、その名を知っていることに気がついた。
カーディガンのポケットから紙片を取り出し、間違いないことを確認する。
「すみません。ここはすぐ近くですか?」
その紙片を老婆に見せると、彼女はニンマリと笑った。
「ほら、そこに緑色の看板の飲み屋があるだろう? その飲み屋の二階だよ。だけど、行かない方がいい。ノーマンはやめときな。あんたのようなお嬢さんが付き合うような野郎じゃないよ」
「はい?」
この老婆、もしかして魔女かシャーマン? それとも、聖女?
どうしてノーマンのことを知っているの? 住所を見せただけなのに。
「ご忠告ありがとうございます。ですが、どうしても会わなきゃいけないのです」
ほんとうは、会わなきゃいけないなんてことはない。
いまのいままで、彼の存在を忘れていたくらいだから。
だけど、ノーマンのことを思い出すと、会わずにはいられなくなった。
もしかして、侯爵へのあてつけ?
自分がそんなみっともないことをするなんて、と驚いてしまった。
「教えて下さってありがとうございます。果物を買いたいのですが、銅貨の一枚も持ち合わせていなくて」
「ちゃんと忠告したからね」
老婆は、皺だらけの手を振った。
「アール、行きましょう」
追い払われるようにして、老婆の前から去った。




