第9話 捕食者の腕の中で、私は彼を眠らせすぎた
日が傾き始めた頃。
今夜、ヴェスペル様にお持ちする安眠香の調合を終えた私は、執務室で書類仕事の仕上げにかかっていた。
紙の重なる音と、羽ペンを走らせる音だけが響く静かな部屋。そこに突然、バン!と乱暴に扉が開く音が響いた。
「シア!」
飛び込んできたのはルズガーナだった。
任務を終えて帰還したばかりであろう彼女は、私の返事も待たずに大股で近づくと、椅子に座る私の背後から覆いかぶさるように強く抱きついた。
「ちょ、ちょっとルズ!?どうしたの?」
「……足りない」
「え?」
「シア成分が足りない!シアがこの館に来てから、あの堅物の相手ばっかりで、逆に遠くに行っちゃったみたい!」
彼女は私の首筋に鼻を押し当て、深く息を吸い込む。
濡れたような吐息が直接皮膚にかかり、ゾクリと背筋が震えた。
「んん〜、いい匂い……。ねえシア、こんな仕事放っておいて、私の部屋に来てよ。昔みたいに、同じベッドで寝よう?」
「あれは、寮の部屋が水漏れして仕方なくだったでしょ」
私が苦笑するのをよそに、彼女の手が、私の肩から首元へと滑り落ちる。
その指先は熱く、親友に向けるものとは違う、奇妙な執着を帯びていた。
「ルズ、やめ――」
私が抵抗しようとした、その時だ。
室内の温度が、一瞬にして氷点下まで下がった気がした。
「……私の女に、何をしている」
地獄の底から這い出たような、恐ろしく低い声。
入り口に、ヴェスペル様が立っていた。
その灰色の瞳は、明確な殺意に近い不快感を持ってルズガーナを射抜いていた。
「ちぇ……」
ルズガーナが舌打ちし、私から離れる。彼女はヴェスペル様を睨みつけ、私を庇うように前に立ちはだかった。
「言っておきますけど、シアを少しでも傷つけたり泣かせたりしたら、私、本気で許しませんからね」
主に対する不敬すれすれの忠告。
だが、ヴェスペル様は鼻で笑った。ポケットに手を突っ込んだまま、気だるげにルズガーナを見下ろす。
「泣かせはしないさ」
彼は短く告げると、その灰色の瞳をゆっくりと私に向けた。
その視線が、私の首筋から、胸元、そして唇へと絡みつき、ねっとりと舐め上げられたような錯覚を覚える。
「――ただ、俺の下で『鳴く』ことはあるかもしれん」
「ッ!?」
カッと、顔中が沸騰するように熱くなる。
その低く冷ややかな、けれど濃厚な情欲を孕んだ言葉だけで、心臓を鷲掴みにされたようだった。
ルズガーナが「むきー!!」と叫んで地団駄を踏んだ。
「さ、最低!変態!エロ死神!」
「ルズ……閣下はあなたの主人でもあるんだけど……」
「私、男は嫌なの!ゴツいし、太いし!」
「いや、知ってる。しかも、そういうこと言いたいわけじゃないし……」
ヴェスペル様は呆れたように溜息を吐くと、冷ややかにルズガーナを一瞥した。
「さっさと寝ろ、ルズガーナ。お前は明日、東の砦での護衛任務があるのだから」
「私は『攻め』で、守りは苦手だって何度も言ってるのに……。はいはい、善処しますよ」
ルズガーナが不服そうに部屋を出て行くのを見届けると、彼は私にだけ視線を戻した。
その瞳の色が、ふっと柔らかく、けれど火傷しそうなほど熱を帯びたものに変わる。
「……レシア。この後は、分かっているな?」
「は、はい。閣下の寝室で、ご準備してお迎えします」
彼は満足げに頷くと、静かに踵を返した。
コツ、コツ、と革靴の音が遠ざかっていく。
その広くて頼もしい背中が廊下の向こうに見えなくなるまで、私は動悸を鎮めることができなかった。
◇◇
夜も更け、月明かりが館を照らす頃。
私は魔香薬の道具一式を持って、ヴェスペル様の寝室へと足を運んだ。
共の者から聞いた話では、ヴェスペル様は私がアデル殿下に攫われないか心配で、寝る間も惜しんで一週間の任務を3日で終わらせ、一人で馬を飛ばして戻ってきたのだという。
(どれだけ心配性なのよ……)
そう毒づいてみるものの、彼が私のためにそこまでしてくれたという事実に、胸の奥が甘く締め付けられる。
だが、その疲労は計り知れないはずだ。
ならば、少しでもぐっすりと安心して眠ってもらえるようにするのが、私の役割。
私は手早く準備に取り掛かった。
今日の調合は、これまでと少し変えてある。
深い休息が得られ、かつ目覚めがスッキリとするよう、柑橘系のトップノートを少々。
そして、アウルス陛下の香薬にも使った希少素材『竜血華』の成分も加えてある。
竜血華が持つ様々な効能の中には、皮膚から血液への魔力の浸透力を爆発的に高める効果がある。
これなら、私が直接魔法を使って緊張を解きほぐさずとも、香りの成分だけで十分な安眠効果が得られるはずだ。
渾身の香油が詰められた硝子瓶から、数滴、銀の香炉へ垂らした。
その上に、香りを整える花びらとハーブを散らせると、キャンドルの熱とともに、部屋中にふわりと深く心地よい香りが広がった。
(あとは……)
準備を終えると、私は部屋の鏡の前で、そっと自分の姿を確認した。
「……変じゃない、よね」
夜着の上に薄いガウンを羽織り、いつもはきっちりと束ねている紅い髪を解く。
汗ばんでいないか。作業室の埃っぽい匂いは残っていないか。
まるで初夜を迎える花嫁のように、自分の首筋や手首の匂いを入念にチェックしてしまう自分が、ひどく恥ずかしい。
ふと、彼のベッドが目に入った。
主不在の、広大なキングサイズのベッド。
黒いシルクのシーツは、どこか冷たく、主の帰りを待っているように見えた。
私は吸い寄せられるように、ベッドの縁に腰を下ろした。
(閣下の、匂い……)
枕元から、あの沈香の重さと、微かなムスクの匂いが漂ってくる。
その深く危険な香りが、今はひどく安心できて。
私はつい、抗い難い誘惑に負け、シーツの上にコロンと仰向けになってしまった。
昨日はあまり寝ていない。いや昨日だけではなく、ここ数日。
馬車でのあの熱い口づけが頭から離れず、悶々とする日々。
それだけでも大変なのに、今日の昼間の、アデル殿下襲来の騒動。
(アデル殿下に対して「私のレシア。私のレシア」って……)
私は閣下の所有物か何かですか?
一人で思い出して恥ずかしくなり、閣下の大きな枕に顔を埋める。
閣下の残り香が、私を優しく包み込む。
その心地よい香りと、部屋に満ち始めた安眠香の相乗効果で、泥のような眠気が一気に襲ってきた。
(少しだけ……目を閉じるだけ……)
それが、決定的な間違いだった。
◇◇
「……無防備すぎるぞ、レシア」
不意に降ってきた熱い吐息に、私はビクッと意識を引き戻された。
目を開けると、視界いっぱいにヴェスペル様の顔があった。
私の上に完全に覆いかぶさり、逃げ場を塞ぐように両手をついている。
「か、閣下!?いつ間に……!」
「……お前があまりに気持ちよさそうに私のベッドで眠っていたから、しばらく見ていたのだ」
私を見下ろすその灰色の瞳には、どろどろとした熱が渦巻いていた。
「だが、見ているだけではもう物足りない」
彼の顔が近づく。
唇が落とされたのは、唇ではない。首筋の、脈打つ動脈の上だ。
「んぅっ……!」
微かな痛みと、ゾクゾクするような快感が同時に走る。
彼は私の肌を味わうように、強く、深く吸い上げた。まるで、誰の目にも触れる場所に「所有印」を刻み込むように。
「か、閣下……私は、お待ちしている間……ただ横に、なっていただけでッ」
言い訳をして逃げようとする私の腰を、固く逞しい腕が強引に抱き寄せる。
「レシア」
鼓膜を痺れさせるような、低い声。
覆いかぶさる分厚い胸板から、高ぶる体温が、薄い夜着越しに伝わってくる。
「さらけ出せ」
背中をなぞる手が、僅かな隙間すら潰すように私を密着させる。
ドクン、ドクンと心臓が痛いほど高鳴り、耳の奥で響いた。
「男のベッドで、無防備に横になって俺を待っていた……」
至近距離で見下ろす灰色の瞳が、獲物を仕留める捕食者の色へと濁っていく。
射竦められ、私は息を呑んだ。
彼の言うとおりだ。理性を言い訳にし、「堅物」という鎧で必死に隠し通してきたもの。
「お前の、その欲望と本性を」
耳元に落とされた熱い吐息に、全身が粟立つ。
圧倒的な熱気と危険な匂いに当てられ、女としての生々しい渇望が、まさに今、理性の皮一枚を突き破ろうとしていた。
もう、抗うことなどできない。
だから、最後の。
素直じゃない私が、震える声でこう言った。
「……か、軽い女だと。閣下に、思われたく……ありません」
その言葉を聞いた瞬間、閣下の端正な表情が、凶悪な獣のように歪んでいく。
私が纏う最後の薄い皮を、食い破ってやろうと言うように。
「……ならば、分からせてやろう、レシア。お前の身体に、心に、魂の奥底まで」
拒絶を許さない。暴力的で、威圧的で、それでいてひどく甘美な囁き。
私は熱に潤む瞳で彼を真っ直ぐに見つめ返し、もう迷うことなく頷いた。
(分からせて、ほしい)
私という存在の全部を、ヴェスペル様という捕食者の香りで、隅々まで塗り替えてほしいと。
「んっ……」
唇を塞がれた。
息継ぎも許さぬほど深く、舌を絡められ、私の理性の全てを剥ぎ取るような濃厚なキス。
頭の中が真っ白になり、指先が黒いシーツを強く握りしめる。
「んぅ……っ、は、ぁ……」
唇が離れたとき、銀の糸が艶めかしく引いた。彼は情欲に濡れた瞳で私を見下ろし、熱に浮かされたように荒い息を吐く。
「……レシアっ」
彼の指が、私のガウンの紐にかかる。
抵抗する自分は、もうどこにもいない。むしろ、身体の奥が疼いて、彼にすべてを暴かれることを求めている自分がいた。
スルリと。
私のガウンの紐が解かれた。
はだけた胸元に、夜の冷たい空気が触れる。
露わになった白い肌と、先ほど彼が刻み込んだ、真っ赤なキスマーク。
それを眺める彼の瞳が、ゆらりと暗く濁った。
「……綺麗だ」
彼は私の鎖骨に熱い唇を押し当てながら、大きな手で薄い夜着の裾から内側へと入り込んでくる。
直接肌を撫で上げる指先は、火傷しそうなほど熱い。
「あっ……ん……!」
敏感な場所を掠められ、私は無意識に背中を反らせた。
もう、すぐだ。
もうすぐ私は、彼によって骨の髄まで貪り食われる。
捕食者の目に射すくめられ、私は彼に全てを捧げる覚悟を決めて、ギュッと目を閉じた。
「愛している……誰にも渡さない……」
トクン。
胸の奥で、私の感情が弾けた。
『愛している』。閣下の口から、初めて告げられた言葉。
便利な魔術師や調香師としてではなく、私という存在そのものを、心の底から渇望し、慈しんでくれる響きだった。
じんわりと温かい歓喜の波が、全身の血を巡って私の心をひたひたに満たしていく。
(ああ……目を閉じていた自分が憎い)
覚悟を決めて、きつく瞼を閉じてしまったことが、今ほど悔やまれたことはない。
私に愛を告白したときの閣下が、一体どんな熱を帯びた、どんなにいとおしい顔をしていたのか。
この目にしっかりと焼き付けておきたかったのに。
胸がいっぱいになり、私がそっと彼を抱きしめ返そうとした。
彼が私の身体に深く体重を預け、より深く、一つになろうとした――その時だった。
「……ぅ」
彼の動きが、ピタリと止まった。
数秒の沈黙。
ドサッ。
重たい音がして、彼が私の上に崩れ落ちた。
「……閣下?」
恐る恐る声をかけると、私の胸元から、スー、スー、と規則正しい寝息が聞こえてきた。
「……え?」
特製の魔香薬の効果だ。
余りにも効きすぎてしまった。
一週間の任務を3日で終わらせた極度の疲労と緊張、そこに強力な安眠成分と安心感が重なり、彼は私の体温の中で、限界を迎えて眠りに落ちてしまったのだ。
「……嘘でしょ」
私はガウンをはだけ、真っ赤な顔をしたまま、一人で天井を見上げた。
身体中は火照ったまま。心臓は狂ったように早鐘を打っている。
(この、行き場のない熱を……どうすればいいの)
けれど、私の胸に顔を埋めて無防備に眠る彼の寝顔は、死神という異名とは程遠く、あまりにも幼く、愛おしかった。
「……せっかく、『分かった』のに」
私は深く溜息をつき、そっと彼の大きな背中に腕を回して抱きしめた。
私たちの初夜は、どうやらもう少しだけ、お預けのようだ。
不眠症の死神伯、今度は体力が限界を迎えたようです……!
もし「ヴェスペルの溺愛がたまらない!」「二人のやり取りにドキドキした!」と感じていただけましたら、ぜひ星を入れて応援をお願いいたします!
皆様からの応援が、二人の関係をさらに甘く進展させる最高の『特効薬』になります! 引き続き、よろしくお願いいたします!




