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眠れぬ死神と眠らせの調香師 ――不眠症の辺境伯に拾われた私の甘く危険な夜と、愚者たちに贈る破滅の香り  作者: セキド烏雲


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9/10

第9話 捕食者の腕の中で、私は彼を眠らせすぎた

 日が傾き始めた頃。


 今夜、ヴェスペル様にお持ちする安眠香の調合を終えた私は、執務室で書類仕事の仕上げにかかっていた。


 紙の重なる音と、羽ペンを走らせる音だけが響く静かな部屋。そこに突然、バン!と乱暴に扉が開く音が響いた。


「シア!」


 飛び込んできたのはルズガーナだった。


 任務を終えて帰還したばかりであろう彼女は、私の返事も待たずに大股で近づくと、椅子に座る私の背後から覆いかぶさるように強く抱きついた。


「ちょ、ちょっとルズ!?どうしたの?」

「……足りない」

「え?」

「シア成分が足りない!シアがこの館に来てから、あの堅物の相手ばっかりで、逆に遠くに行っちゃったみたい!」


 彼女は私の首筋に鼻を押し当て、深く息を吸い込む。


 濡れたような吐息が直接皮膚にかかり、ゾクリと背筋が震えた。


「んん〜、いい匂い……。ねえシア、こんな仕事放っておいて、私の部屋に来てよ。昔みたいに、同じベッドで寝よう?」

「あれは、寮の部屋が水漏れして仕方なくだったでしょ」


 私が苦笑するのをよそに、彼女の手が、私の肩から首元へと滑り落ちる。


 その指先は熱く、親友に向けるものとは違う、奇妙な執着を帯びていた。


「ルズ、やめ――」


 私が抵抗しようとした、その時だ。

 室内の温度が、一瞬にして氷点下まで下がった気がした。


「……私の女に、何をしている」


 地獄の底から這い出たような、恐ろしく低い声。

 入り口に、ヴェスペル様が立っていた。


 その灰色の瞳は、明確な殺意に近い不快感を持ってルズガーナを射抜いていた。


「ちぇ……」


 ルズガーナが舌打ちし、私から離れる。彼女はヴェスペル様を睨みつけ、私を庇うように前に立ちはだかった。


「言っておきますけど、シアを少しでも傷つけたり泣かせたりしたら、私、本気で許しませんからね」


 あるじに対する不敬すれすれの忠告。


 だが、ヴェスペル様は鼻で笑った。ポケットに手を突っ込んだまま、気だるげにルズガーナを見下ろす。


「泣かせはしないさ」


 彼は短く告げると、その灰色の瞳をゆっくりと私に向けた。

 その視線が、私の首筋から、胸元、そして唇へと絡みつき、ねっとりと舐め上げられたような錯覚を覚える。


「――ただ、俺の下で『鳴く』ことはあるかもしれん」

「ッ!?」


 カッと、顔中が沸騰するように熱くなる。

 その低く冷ややかな、けれど濃厚な情欲を孕んだ言葉だけで、心臓を鷲掴みにされたようだった。

 ルズガーナが「むきー!!」と叫んで地団駄を踏んだ。


「さ、最低!変態!エロ死神!」

「ルズ……閣下はあなたの主人でもあるんだけど……」

「私、男は嫌なの!ゴツいし、太いし!」

「いや、知ってる。しかも、そういうこと言いたいわけじゃないし……」


 ヴェスペル様は呆れたように溜息を吐くと、冷ややかにルズガーナを一瞥した。


「さっさと寝ろ、ルズガーナ。お前は明日、東の砦での護衛任務があるのだから」

「私は『攻め』で、守りは苦手だって何度も言ってるのに……。はいはい、善処しますよ」


 ルズガーナが不服そうに部屋を出て行くのを見届けると、彼は私にだけ視線を戻した。


 その瞳の色が、ふっと柔らかく、けれど火傷しそうなほど熱を帯びたものに変わる。


「……レシア。この後は、分かっているな?」

「は、はい。閣下の寝室で、ご準備してお迎えします」


 彼は満足げに頷くと、静かに踵を返した。


 コツ、コツ、と革靴の音が遠ざかっていく。


 その広くて頼もしい背中が廊下の向こうに見えなくなるまで、私は動悸を鎮めることができなかった。


 ◇◇


 夜も更け、月明かりが館を照らす頃。


 私は魔香薬の道具一式を持って、ヴェスペル様の寝室へと足を運んだ。


 共の者から聞いた話では、ヴェスペル様は私がアデル殿下に攫われないか心配で、寝る間も惜しんで一週間の任務を3日で終わらせ、一人で馬を飛ばして戻ってきたのだという。


(どれだけ心配性なのよ……)


 そう毒づいてみるものの、彼が私のためにそこまでしてくれたという事実に、胸の奥が甘く締め付けられる。


 だが、その疲労は計り知れないはずだ。


 ならば、少しでもぐっすりと安心して眠ってもらえるようにするのが、私の役割。


 私は手早く準備に取り掛かった。


 今日の調合は、これまでと少し変えてある。

 深い休息が得られ、かつ目覚めがスッキリとするよう、柑橘系のトップノートを少々。

 そして、アウルス陛下の香薬にも使った希少素材『竜血華ドラグ・ブラッド』の成分も加えてある。


 竜血華が持つ様々な効能の中には、皮膚から血液への魔力の浸透力を爆発的に高める効果がある。


 これなら、私が直接魔法を使って緊張を解きほぐさずとも、香りの成分だけで十分な安眠効果が得られるはずだ。


 渾身の香油が詰められた硝子瓶から、数滴、銀の香炉へ垂らした。


 その上に、香りを整える花びらとハーブを散らせると、キャンドルの熱とともに、部屋中にふわりと深く心地よい香りが広がった。


(あとは……)


 準備を終えると、私は部屋の鏡の前で、そっと自分の姿を確認した。


「……変じゃない、よね」


 夜着の上に薄いガウンを羽織り、いつもはきっちりと束ねている紅い髪を解く。


 汗ばんでいないか。作業室の埃っぽい匂いは残っていないか。


 まるで初夜を迎える花嫁のように、自分の首筋や手首の匂いを入念にチェックしてしまう自分が、ひどく恥ずかしい。


 ふと、彼のベッドが目に入った。


 主不在の、広大なキングサイズのベッド。

 黒いシルクのシーツは、どこか冷たく、主の帰りを待っているように見えた。


 私は吸い寄せられるように、ベッドの縁に腰を下ろした。


(閣下の、匂い……)


 枕元から、あの沈香の重さと、微かなムスクの匂いが漂ってくる。


 その深く危険な香りが、今はひどく安心できて。


 私はつい、抗い難い誘惑に負け、シーツの上にコロンと仰向けになってしまった。


 昨日はあまり寝ていない。いや昨日だけではなく、ここ数日。

 馬車でのあの熱い口づけが頭から離れず、悶々とする日々。


 それだけでも大変なのに、今日の昼間の、アデル殿下襲来の騒動。


(アデル殿下に対して「私のレシア。私のレシア」って……)


 私は閣下の所有物か何かですか?


 一人で思い出して恥ずかしくなり、閣下の大きな枕に顔を埋める。


 閣下の残り香が、私を優しく包み込む。


 その心地よい香りと、部屋に満ち始めた安眠香の相乗効果で、泥のような眠気が一気に襲ってきた。


(少しだけ……目を閉じるだけ……)


 それが、決定的な間違いだった。


 ◇◇


「……無防備すぎるぞ、レシア」


 不意に降ってきた熱い吐息に、私はビクッと意識を引き戻された。


 目を開けると、視界いっぱいにヴェスペル様の顔があった。


 私の上に完全に覆いかぶさり、逃げ場を塞ぐように両手をついている。


「か、閣下!?いつ間に……!」

「……お前があまりに気持ちよさそうに私のベッドで眠っていたから、しばらく見ていたのだ」


 私を見下ろすその灰色の瞳には、どろどろとした熱が渦巻いていた。


「だが、見ているだけではもう物足りない」


 彼の顔が近づく。


 唇が落とされたのは、唇ではない。首筋の、脈打つ動脈の上だ。


「んぅっ……!」


 微かな痛みと、ゾクゾクするような快感が同時に走る。


 彼は私の肌を味わうように、強く、深く吸い上げた。まるで、誰の目にも触れる場所に「所有印」を刻み込むように。


「か、閣下……私は、お待ちしている間……ただ横に、なっていただけでッ」


 言い訳をして逃げようとする私の腰を、固く逞しい腕が強引に抱き寄せる。


「レシア」


 鼓膜を痺れさせるような、低い声。

 覆いかぶさる分厚い胸板から、高ぶる体温が、薄い夜着越しに伝わってくる。


「さらけ出せ」


 背中をなぞる手が、僅かな隙間すら潰すように私を密着させる。


 ドクン、ドクンと心臓が痛いほど高鳴り、耳の奥で響いた。


「男のベッドで、無防備に横になって俺を待っていた……」


 至近距離で見下ろす灰色の瞳が、獲物を仕留める捕食者の色へと濁っていく。


 射竦められ、私は息を呑んだ。


 彼の言うとおりだ。理性を言い訳にし、「堅物」という鎧で必死に隠し通してきたもの。


「お前の、その欲望と本性を」


 耳元に落とされた熱い吐息に、全身が粟立つ。


 圧倒的な熱気と危険な匂いに当てられ、女としての生々しい渇望が、まさに今、理性の皮一枚を突き破ろうとしていた。


 もう、抗うことなどできない。


 だから、最後の。


 素直じゃない私が、震える声でこう言った。


「……か、軽い女だと。閣下に、思われたく……ありません」


 その言葉を聞いた瞬間、閣下の端正な表情が、凶悪な獣のように歪んでいく。


 私が纏う最後の薄い皮を、食い破ってやろうと言うように。


「……ならば、分からせてやろう、レシア。お前の身体に、心に、魂の奥底まで」


 拒絶を許さない。暴力的で、威圧的で、それでいてひどく甘美な囁き。


 私は熱に潤む瞳で彼を真っ直ぐに見つめ返し、もう迷うことなく頷いた。


(分からせて、ほしい)


 私という存在の全部を、ヴェスペル様という捕食者の香りで、隅々まで塗り替えてほしいと。


「んっ……」


 唇を塞がれた。


 息継ぎも許さぬほど深く、舌を絡められ、私の理性の全てを剥ぎ取るような濃厚なキス。


 頭の中が真っ白になり、指先が黒いシーツを強く握りしめる。


「んぅ……っ、は、ぁ……」


 唇が離れたとき、銀の糸が艶めかしく引いた。彼は情欲に濡れた瞳で私を見下ろし、熱に浮かされたように荒い息を吐く。


「……レシアっ」


 彼の指が、私のガウンの紐にかかる。


 抵抗する自分は、もうどこにもいない。むしろ、身体の奥が疼いて、彼にすべてを暴かれることを求めている自分がいた。


 スルリと。


 私のガウンの紐が解かれた。


 はだけた胸元に、夜の冷たい空気が触れる。


 露わになった白い肌と、先ほど彼が刻み込んだ、真っ赤なキスマーク。


 それを眺める彼の瞳が、ゆらりと暗く濁った。


「……綺麗だ」


 彼は私の鎖骨に熱い唇を押し当てながら、大きな手で薄い夜着の裾から内側へと入り込んでくる。


 直接肌を撫で上げる指先は、火傷しそうなほど熱い。


「あっ……ん……!」


 敏感な場所を掠められ、私は無意識に背中を反らせた。


 もう、すぐだ。

 もうすぐ私は、彼によって骨の髄まで貪り食われる。


 捕食者の目に射すくめられ、私は彼に全てを捧げる覚悟を決めて、ギュッと目を閉じた。


「愛している……誰にも渡さない……」


 トクン。


 胸の奥で、私の感情が弾けた。


『愛している』。閣下の口から、初めて告げられた言葉。


 便利な魔術師や調香師としてではなく、私という存在そのものを、心の底から渇望し、慈しんでくれる響きだった。


 じんわりと温かい歓喜の波が、全身の血を巡って私の心をひたひたに満たしていく。


(ああ……目を閉じていた自分が憎い)


 覚悟を決めて、きつく瞼を閉じてしまったことが、今ほど悔やまれたことはない。


 私に愛を告白したときの閣下が、一体どんな熱を帯びた、どんなにいとおしい顔をしていたのか。


 この目にしっかりと焼き付けておきたかったのに。


 胸がいっぱいになり、私がそっと彼を抱きしめ返そうとした。


 彼が私の身体に深く体重を預け、より深く、一つになろうとした――その時だった。


「……ぅ」


 彼の動きが、ピタリと止まった。

 数秒の沈黙。


 ドサッ。


 重たい音がして、彼が私の上に崩れ落ちた。


「……閣下?」


 恐る恐る声をかけると、私の胸元から、スー、スー、と規則正しい寝息が聞こえてきた。


「……え?」


 特製の魔香薬の効果だ。

 余りにも効きすぎてしまった。


 一週間の任務を3日で終わらせた極度の疲労と緊張、そこに強力な安眠成分と安心感が重なり、彼は私の体温の中で、限界を迎えて眠りに落ちてしまったのだ。


「……嘘でしょ」


 私はガウンをはだけ、真っ赤な顔をしたまま、一人で天井を見上げた。

 身体中は火照ったまま。心臓は狂ったように早鐘を打っている。


(この、行き場のない熱を……どうすればいいの)


 けれど、私の胸に顔を埋めて無防備に眠る彼の寝顔は、死神という異名とは程遠く、あまりにも幼く、愛おしかった。


「……せっかく、『分かった』のに」


 私は深く溜息をつき、そっと彼の大きな背中に腕を回して抱きしめた。


 私たちの初夜は、どうやらもう少しだけ、お預けのようだ。

 不眠症の死神伯、今度は体力が限界を迎えたようです……!

 もし「ヴェスペルの溺愛がたまらない!」「二人のやり取りにドキドキした!」と感じていただけましたら、ぜひ星を入れて応援をお願いいたします!

 皆様からの応援が、二人の関係をさらに甘く進展させる最高の『特効薬』になります! 引き続き、よろしくお願いいたします!

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