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眠れぬ死神と眠らせの調香師 ――不眠症の辺境伯に拾われた私の甘く危険な夜と、愚者たちに贈る破滅の香り  作者: セキド烏雲


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第10話 「愛している」の続きを、朝陽が射し込む執務室で

 あの夜の翌朝。


 ヴェスペル様は、裏稼業が急展開を迎えたらしく、ベッドサイドに一枚の書き置きだけを残して屋敷を発っていた。


『私が戻るまで待っていろ。愛している』と。


 たった二行の、不器用で力強い筆致。


 けれど、その言葉があまりにも甘く、決意に満ちていたせいで。


 まるで帰らぬ人が残す最期の言葉のように見えてしまい、私の背筋をひやりとした不安が撫でた。


 ベッドの隣には、すっかりと冷え切った彼がいた場所。

 ひとり取り残された私は、閣下の深く危険な香りが残った黒いシーツがたまらなく愛おしくて。

 指でそっと撫で、彼の大きな枕をすがるように抱きしめた。


「どうか、御無事で……帰ってきてください」


 それから数日。


 私の胃の痛くなるような不安を決定づけるように、屋敷の騎士のひとりで、閣下の裏稼業に通じる者が、重い口を開き、こっそりと今の状況を教えてくれた。


『閣下が向かったのは、アデル殿下が裏金で囲っていた無法者集団の壊滅任務です』

『彼らはただの無法者ではありません。複数のならず者ギルドが統合された、小国の軍隊にも匹敵する規模の傭兵団なのです』と。


 その巨大な組織が、恐らく閣下を排除するため、このノクタリアを強襲しようと動いたのだ。


 アデル殿下を追い返したタイミングを考えても動きが早すぎる。暴走か、元から計画されていたことか。

 いずれにせよ、閣下は精鋭だけを連れて、その大軍が潜む本拠地へ夜襲を仕掛けに行ったというのだ。


「そんな無茶な……っ」


 その事実を知って、私がこのまま大人しく待っていられるはずがなかった。


(私が行けば、閣下の背中を守れるかもしれない……!)


 私は弾かれたように立ち上がり、実戦用の魔香薬をありったけポーチに詰め込むと、厚手の外套を

 羽織って自室を飛び出した。


 だが、裏口へと向かう薄暗い廊下で、私の行く手を阻む者がいた。


「……どこへ行くつもり、シア」


 いつものおふざけを一切消し去った、冷徹な顔。ルズガーナだった。


「ルズ!お願い、通して!閣下が危ないの!」


 私が必死に訴えかけても、ルズガーナは壁に寄りかかったまま動かず、静かに腰の剣の柄に手を当てた。


「ダメ。通せない」

「なんで……っ!」

「ヴェスペル様から、監視を任されたの」

「え……?」

「『シアは絶対に外へ出すな。何があっても、お前の命に代えても館の奥で守り抜け』ってね」


 ルズガーナは自嘲気味に笑い、俯いた。


「なんで私が前線じゃなくて、居残りなんだって。……でも、絶対の命令だから」


 よく見れば、剣の柄を握る彼女の拳が、微かに震えている。


 ルズガーナだって、主君の危機に駆けつけたいはずなのだ。

 それを必死に押し殺して、絶対の命令を守るため、ここに残ってくれている。


「ルズ……」


 私は、自分が感情に任せてどれほど愚かな真似をしようとしていたかに気づき、足を止めた。


 私がここを出れば、閣下の覚悟も、ルズガーナの苦しい忠義も、私に事実を教えてくれたあの騎士の忠誠も、すべて無駄にしてしまう。


「……ごめんなさい、ルズ」


 私が外套をきつく握りしめると、彼女はふっと息を吐き、私の頭をぽんぽんと撫でた。


「分かればよろしい」


 それなら私は、自分にできる全てのことを始めた。


 閣下の留守を守るため、屋敷の書類に目を通し、代行役として彼の業務を肩代わりできるよう、館に仕える騎士や執事たちから必死に多くを学んだ。

 私がここを完璧に守り抜くこと。それが、今の私にできる「彼との共闘」なのだと信じて。


 それでも、それ以上の情報がない私には、もう知る術がない。


 日を追うごとに、シーツに残っていた沈香の香りは薄れ、部屋は冷たい静寂に包まれていく。


 彼が本当に、このまま二度と帰ってこないのではないかという恐怖。


 ただ、彼の無事を祈り、あの書き置きの言葉を信じて待つしかなかった。


 そして……。


 ◇◇


 七日目のある朝。


 重々しいエントランスの扉が開く音が、静まり返った館に響き渡った。


(まさか……!)


 私は弾かれたように椅子から立ち上がり廊下を駆けた。


 息を切らしてエントランスホールへ飛び出すと――そこには、見慣れた漆黒の外套を纏った大柄な影。


 幻なんかじゃない。約束通り、ヴェスペル様は私の元へ帰ってきたのだ。


「閣下……っ!」


 生きて、帰ってきてくれた。


 安堵で視界が滲みそうになった、その時。


 ハッと息を呑んだ。


 彼の美しく整った頬に、血の滲む一筋の新しい傷が刻まれていたのだ。


(『死神』と恐れられる閣下が、顔に傷を負うなんて……)


 彼が乗り込んだのは、軍隊規模の傭兵団。


 どれほど無茶をして、どれほど過酷で激しい戦闘をくぐり抜けてきてくれたのか、その傷がすべてを物語っていた。


 痛む胸を押さえ、私は今すぐその広い胸に飛び込み、力いっぱい抱きつきたい衝動に駆られた。


 きっと彼も、手紙に残してくれたあの甘い言葉の通り、私を強く抱きしめ返してくれる。そう信じて疑わなかった。


 だけど。


「……レシア」


 私を呼ぶ閣下は、なぜかひどく気まずそうな、難しい顔をしていて。


 駆け寄ろうとした私を、片手でスッと制するように押し留めたのだ。


 私を、抱きしめてはくれなかった。


 なぜなら。


 閣下の帰還には、この国の重鎮であり、フロースフォンス領の絶対的統治者――アデル殿下の父君である、アウルス・フォン・ディケム大公陛下が伴っていたからだ。


 ◇◇


 辺境伯の館、その応接室には、張り詰めた空気が漂う。


 ……はずだったのだが。


「いやあ、見事だ!身体が羽のように軽い!まるで魔術学院の学生時代に戻ったようだ!」


 豪快に笑う初老の男性。アウルス大公陛下だ。


 その顔色は、以前都で拝見したときのような病的な色ではなく、血の気が通った若々しく健康的なものだった。


「ザークレシアよ。礼を言う。お前が届けてくれたあの『香薬』……あれで一発よ。この辺境独特の薬草を使ったのか?」

「は、はい。西の洞窟で見つけた『竜血華』を少々。陛下の体質と、ここ最近の気候を鑑みて、調合の波長も変えました」


 私が緊張気味に答えると、陛下は我が意を得たりと満足げに深く頷いた。


「なんと?!あの幻の竜血華か!?はははっ、お前には死ぬまで足を向けて寝られぬよ。それに引き換え、都に残った宮廷魔術師どもは……ミリアとか言ったか?レシピも読めぬ愚か者が、適当な分量で毒香を作りおって。危うくお花畑を見るところだったわ!」


「私が至らぬばかりに……。大公陛下にはひどくご迷惑をかけてしまいました」


「お前のせいではない。あのミリアという小娘は、即刻、宮廷魔術師の資格を剥奪して大公宮から追放してやった。二度と都の門はくぐらせん」


 魔香薬は、一歩間違えれば薬にも毒にもなる。


 ミリア様は、その初歩的な知識すら「知らなかった」で通そうとしたのだろう。追放は、魔術師として当然の報いだ。


「それに、愚息アデルの件もだ」


 陛下の声が、急に低くなる。

 その瞳には、一人の父親ではなく、為政者としての冷徹な光が宿っていた。


「以前から不穏な動きをしていたのだ。お前が去った途端に、大公宮の機密費が隣国のならず者たちへ流れ始めた。ヴェスペルに内偵と処理を依頼していたのだが……」

「……」

「白日の元に晒された以上、我が子であれ情けは無用。奴の王位継承権をすべて剥奪し、『魔王領』との境界国へ、最前線の防人さきもりとして追放してやった。一生、泥まみれで塹壕を掘り、命を燃やすことになるだろう」


 実の息子への容赦のない、断固とした処断。


 けれど、その厳しさこそが、長年この大国を支えてきた大公としての矜持なのだろう。


 都での理不尽な婚約破棄。


 私を縛り付けていた過去の呪縛が完全に崩れ去り、胸のつかえが取れたような気がした。


「それにしても、バラ=エル魔術学院の先輩として、お前のような優秀な人材が育っているのは鼻が高い。あそこの学園長には、もっと実技を増やすよう言っておいたのだが――」


 陛下は上機嫌に語り続ける。


 話が、長い。


 隣に立つヴェスペル様が普段無口な分、余計に長く感じる。


「相変わらず、話が長い。このおじさん」


 横で護衛として控えていたルズガーナが、ぼそりと猛毒を吐いた。


「ルズ!!」


 私は慌てて彼女の口を塞ぐ。相手はフロースフォンスの絶対支配者だ。不敬罪で即刻首が飛ぶ。


 だが、陛下は「はっはっは!確かに年寄りの昔話は退屈か!」と豪快に笑い飛ばした。


「して、ザークレシアよ。本題に入ろう。お前には私から、特別な勲章――『公認調香師』の称号を授ける」


 大公の供の者が恭しく進み出て、小さなベルベットの箱を開いた。


 中に入っていたのは、フロースフォンスの王家の紋章が刻印された、深く澄んだ瑠璃色ラピスラズリに輝くバッジだった。


 息を呑む。


 それは、宮廷に長年仕え、多大な功績を残した臣下が、引退するときにのみ与えられる最高の褒賞。


 大公公認のこの証があれば、国中のどの希少文献にも無条件でアクセスでき、部外者以外立ち入り禁止の大公宮の素材庫へも自由に足を踏み入れることができる。


 調香師にとって、夢のような、これ以上ない究極の「自由の証明」だった。


「……光栄です。私のような若輩者が、このような名誉をいただけるなんて。身に余る光栄に、心より感謝申し上げます」


 私が深く頭を下げると、陛下はニヤリと笑って首を振った。


「その感謝の言葉、儂が受けるには少しばかり的外れだな。なんせその称号は、そやつの『強い推薦』あってのものだからな」


 アウルス大公陛下は、流し目でヴェスペル様に視線を移した。


「え……?」


 私が驚いてヴェスペル様を見上げると、彼は居心地が悪そうにフイッと視線を逸らす。


(ヴェスペル様が、私のために……?)


 胸の奥から、熱いものが込み上げてくる。


 彼はただ力で私を守るだけでなく、私が理不尽に奪われた「調香師としての実績と誇り」を取り戻し、国から正当に評価されるように、裏で大公陛下に掛け合ってくれていたのだ。


 私の仕事を、誰よりも一番に認め、尊重してくれている。

 こんなの、嬉しすぎて、耐えられない。


「さて。困ったことに……出来の悪い愚息を追放したせいで、我が領地の跡継ぎが居なくなってしまってな。ディケム家の血の繋がりを辿っておるのだが……」


 陛下はわざとらしく咳払いをして、チラリとヴェスペル様を見た。


「まぁ、直ぐにとは言わん。お前はこの辺境の地になくてはならぬ男だからな。だが、そろそろ『後継者』は探しておけよ」

「……え?それって、ヴェスペル様が大公に!?嘘?じゃあシアはどうなるの!?」


 ルズガーナが取り乱すのも無理はない。


 大公陛下の口ぶりからすれば、ヴェスペル様には大公を継ぐ血筋と資格があるというのだ。


「ははは。ヴェスペルもいい年だ。有能な専属調香師が隣におるのは、領の統治者になる者としては非常に心強いぞ?……吉報を待っておる」

「……善処します」


 ヴェスペル様が、短く、けれど力強く答える。


(つ、つまり……それって)


 いや、確定しているわけではない。だけど、まさか……私が、彼の。


「えぇ?!やめてよ!私のシアが、また遠くにいっちゃう!!」

「ちょっとルズ!揺らさないで!私もわけわかんないんだから!!」


 私たちは頭を抱えて絶叫した。

 その悲痛な叫び声が、厳かな応接室にこだまする。


 そんな私たちのやり取りを見て、陛下は心底楽しそうにニヤリと笑った。


「さて、年寄りの長居は無粋か。ヴェスペルのやつが、さっきから『早く帰れ。俺のレシアに触れたい』と、殺気を飛ばしてきおるしな」

「へっ?」


 視線を向けると、ヴェスペル様がまたしても露骨に視線を逸らした。


 確かに私ですら、あの夜の不完全燃焼のせいで、内心はいても立ってもいられないほど彼の熱を求めている。

 アウルス陛下は、ヴェスペル様から漏れ出すその「隠しきれない飢え」を感じ取ったのだろう。


「積もる話もあるだろう。儂はこれで失礼する。……励めよ、若人」


 陛下は意味深に片目を瞑ると、嵐のように去っていった。


 その後ろ姿は、アデル殿下とは比べ物にならないほど大きく、そして頼もしかった。


 ◇◇


 大公が去ったあと。


 私は贈られた「公認調香師」のバッジを大切に保管するため、自分の執務室へ戻った。……ある種の、甘い期待とともに。


 その時。


 ガチャリと、扉が開く音。


 振り返ると、そこにはヴェスペル様がいた。


 いつもの冷静で氷のような「死神」の顔ではない。限界まで飢餓感を募らせた、獲物を狙う獣の瞳だった。


 その圧倒的な熱に射竦められた瞬間、私の心は歓喜で震え、崩れ落ちそうになった。


「か、閣下……」

「……もう、限界だ」


 彼は私へと歩み寄ると、そのまま腰に腕を回し、逃げ場を完全に塞ぐようにきつく抱きしめ、荒々しく唇を塞いだ。


「んっ……、ふぁ……!」


 息継ぎすら許さない、獰猛で深い口付け。

 私の唇をこじ開け、熱い舌が口腔の隅々まで蹂躙し、私を貪り尽くそうとする。


 彼の体温と、強烈な雄の匂いに包まれた私の中で、理性のタガが完全に弾け飛ぶ音がした。


 待ち焦がれていた彼の熱が、カラカラに渇いていた私の心と身体の隙間を、ドクドクと甘く満たしていく。


 そのまま、彼は私を執務机へと押し倒した。


 飢えた狼のように覆いかぶさる。机の上の書類が、バサバサと音を立てて床に散らばる。


「こんなところで、ダメです!誰かに見られたら……!」

「構わないさ。むしろ……」


 私の首筋に鼻をあて、すうっと息を吸い込んだあと、所有印を刻むように熱い口付けを落とす。


「世界中に見せつけてやりたい気分だ。この美しいお前が誰の女か、その身の奥底まで刻み込んでな」

「あっ……んぅ……」


 彼の熱い指先が、隙のないブラウスの合わせ目にするりと滑り込む。


 あの夜よりも、ずっと強く、ずっと熱く。私の輪郭が、彼に激しく侵食されていく。


 そう。抵抗する気など、最初からなかった。


 私は、彼にこうしてすべてを奪われることを、ずっと待ちわびていたから。


「レシア……」


 名前を呼ばれるたび、私の理性がドロドロに溶け、貪欲なまでにさらなる濃厚な熱を求める。


「……愛しています、ヴェスペル様。理性が、耐えられないくらいに」


 私がそう囁くと、彼の灰色の瞳孔が大きく開いた。


「――泣いて懇願しても、もう止まれんぞ」


 彼は喉奥から絞り出すように唸ると、再び私の唇を塞いだ。


 そのキスは獰猛で、呼吸すら奪い、私の存在すべてを飲み干そうとするようだった。


「んぅ……っ、ぁ……!」


 無意識に、甘い声が喉から鳴る。

 その私の震えが、閣下のさらなる渇望を煽ってしまった。


 唇が離れる。


 机に押し付けられていた私の身体が、きつく、乱暴に持ち上げられ、今度は革張りのソファへと深く押し倒された。


「は、ぁ……ヴェスペル、さま……っ」


 閣下を見上げた私の口から、自分でも分かるくらいに喘ぐような声が漏れ出す。


 私のジャケットは乱雑に剥ぎ取られ、白いブラウスのボタンが弾け飛ぶ。


 タイトなスカートも、それを覆うわずかな下着も容赦なく引き剥がされ、私は無防備な白い肌を晒した。


「……っ、雪のようだ。美しすぎるぞ、レシア」


 ヴェスペル様は熱に浮かされたような低い声で唸ると、自らのシャツのボタンを苛立たしげに引きちぎるように外し、分厚い胸板と鍛え上げられた逞しい腹筋を露わにした。


 カチャリと、重い革ベルトのバックルが外され、金属の冷たい音が執務室に響く。


 その圧倒的な雄の肉体と、そこから立ち上る危険な熱気に、私は完全に射竦められた。


 もはや、私たちを遮るものなど何もない。


 捕食者が、獲物をむさぼり食うように、首筋、鎖骨、柔らかな胸の膨らみへと、噛み付くような口付けが落とされる。


 私の肌に、所有を主張する赤い痕を残すたび、その強烈な喜びと快楽に身体が跳ねる。


「あっ、そこ……!跡が……っ」

「見せつけてやればいい。お前に触れられるのは俺だけだと、他の有象無象に分からせてやる」


 そう囁きながら、彼は再び私の唇を深く塞ぐと同時に、その手を私の太腿の内側へと滑り込ませた。


「あっ……んぅっ!?」


 反射的に閉じようとする脚。それを強引に割って開かせる。

 最も無防備で秘められた場所が、彼の熱い視線と指先に晒される。


(見ないで……そんなところまで、見られたら……っ)


 羞恥で顔から火が出そうになるが、抵抗する力などとうに入らない。


 熱を帯びた彼の手が、私の輪郭を確かめるように這う。

 触れられるたびに背筋に電流のような快感が走り、甘い痺れが全身を支配していく。


 触れられるたびに背筋に電流のような快感が走り、私の内側からとめどなく溢れ出した熱い蜜が彼の指を濡らし、静かな部屋にいやらしい水音を響かせ始めた。


「もう、十分すぎるほど熟れている」


 熱を孕んだ吐息を落とし、彼は灰色に濁った瞳で私を見下ろした。


「……俺の全部で、お前を満たす。俺なしでは生きられない身体にしてやる」


 有無を言わさぬ、完全な捕食宣言。


 私はもう言葉を返すこともできず、ただ熱に潤んだ瞳で彼を見つめ返し、自ら彼の広い背中に腕を回して、こくりと小さく頷いた。


 私の肩が押さえつけられ、唇を深く塞がれる。そして、私たちは限界まで深く、互いの熱を重ね合わせた。


「ふっッ……!!あぁっ……!」


 互いの熱が、遮るものなく限界まで深く絡み合う。


 私から漂う清廉な白檀とネロリの香りが、彼から溢れ出す重厚な沈香と獣のようなムスクの匂いに蹂躙され、犯され、ぐちゃぐちゃに混ざり合っていく。


「俺を受け入れろ。お前の全てを、俺の匂いで塗り潰してやる」


 私たちの輪郭が、熱と香りの渦の中でドロドロに溶けていく。


「あ、あっ……ヴェスペル様、おかしくなる……!」

「なれ。俺と一緒に、堕ちるところまで」


 私の悲鳴に近い嬌声が、彼の野生をさらに昂ぶらせる。

 個としての境界線は、既にない。


 私は彼になり、彼は私になる。


 混ざり合い、溶け合い、溺れるほどの愛欲の沼へ沈んでいく。


 閣下は獣のような唸り声を上げ、私の身体を抱き潰すように、その熱の檻へと、さらに深く、深く潜り込んできた。


 ◇◇


 翌朝。


 小鳥のさえずりと共に、執務室の窓から朝日が差し込んだ。


「……うわぁ」


 部屋に入ってきたルズガーナが、露骨に顔をしかめた。


 床に散らばった重要書類。ひっくり返ったインク瓶。そして、ソファで互いに絡み合うように泥のように眠る、二つの人影。


「獣の巣か、ここは」


 彼女は呆れたように溜息を吐くと、足元に落ちていた一枚の羊皮紙を拾い上げた。


 それは、昨日アウルス陛下が置いていった、金箔押しの親書だった。


『追伸:ヴェスペルよ、励め。ザークレシアよ、孕め。――アウルス』


「……あのじいさん、直接的すぎて引く」


 ルズガーナは苦笑いし、その手紙をデスクの上にそっと置いた。

 そして、幸せそうに眠る親友の寝顔を見て、小さく呟いた。


「……悔しいけど。いいよ、死神。しばらくは見逃してあげる」


 部屋に充満しているのは、どんな高級な香水よりも濃厚で、甘美な香り。


 白檀と沈香、ネロリとムスク。二つの香りがぐちゃぐちゃに混ざり合い、二人の魂が完全に一つになった証の匂いだった。


 ソファの上で、ヴェスペルが寝言のように低く唸り、腕の中のザークレシアを強く抱き寄せた。


 その顔には、かつての「死神」の険しさは微塵もない。ただ、愛する体温に包まれて安眠を貪る、一人の男の顔があるだけだ。


 ザークレシアが、うっすらと目を開けた。


 目の前には、愛しい人の寝顔。彼女はふわりと微笑むと、その胸に顔を埋め、再び夢の中へと落ちていった。


 その鎖骨の窪みには、彼が刻み込んだ無数の赤い痕と、肌身離さず身につけていた深紅の宝石が、まるで最初からそこにあったかのように馴染んでいた。


 不眠症の死神は、もういない。


 ここにあるのは、美しく調合された、永遠の幸福だけ。

 ここまで読んでいただきありがとうございました。

 これにて、第一章「眠れぬ死神と眠らせの調香師」は完結となります。


 もし「ヴェスペルの溺愛がたまらない!」「二人のやり取りにドキドキした!」と感じていただけましたら、 ぜひ星を入れて応援をお願いいたします!


 引き続き、第二章「狂気の刃と血染めの儀式」が始まります。

 すこし不穏な章タイトルですが、この二人の運命はどうなっていくのか。


 皆様からのお声が、二人のハッピーエンドに向けた応援となります。引き続き、よろしくお願いいたします!

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