第11話 眠れるマンドラゴラと、闇夜に響く狂笑
「レシア、民からの陳情リストは?」
「はい。優先度順にまとめてあります」
「うむ。……早いな。概要も的確だ」
ヴェスペル様の執務室。
私がこのノクタリアに来て約二ヶ月。
親友であり、この館の専属魔術師でもあるルズガーナの教えもあって、ようやく立ち回りが板についてきた頃だ。
ヴェスペル様が書類に目を落とす。私に対するその声は低く、一見して事務的だ。
だが、その態度の裏にある『理由』を、私は知っている。
『私には敵が多すぎる。お前に対する表向きの私の態度は冷淡なものになるだろう。だが、それは掛け替えのないお前を守るためだ』
いつかの夜、彼は真剣な顔でそう私に告げた。
裏稼業を持つ彼には、敵が多い。
私が彼の「弱点」だと知られれば、狙われるリスクが高まる。
だから大衆の前では、あくまで「有能な部下」として塩対応をする。
……その言葉を聞いて、彼が私のことをどれだけ大切に想ってくれているのかが伝わり、胸が熱くなったのを覚えている。
「レシア。この嘆願には即対応が必要だ。頼めるか?私はこれから練兵場で騎士団を締め上げねばならん」
「分かりました。お任せください」
「ルズガーナ。お前は私の代わりに東の砦へ行け。野盗が出たらしい」
「了解ー。凍らせてきます」
閣下は的確に仕事を振り分ける。
数ヶ月間、夜を共にし、昼の彼を支えてよく分かった。
ヴェスペル・フォン・サーイェという辺境伯は、超人的に多忙だ。
早朝の練兵、膨大な決裁、防衛設備の点検、そして夜の裏仕事……。
彼はその全てを、恐ろしいほどの速度と正確さで処理していく。
(……本当に、どこまでも完璧で、少し生き急いでいるようなお方)
冷徹な采配の裏にあるのは、民の安寧を守り抜くという責任感。
だからこそ、ヴェスペル様は無能な者を側に置かない。
役に立たないと判断すれば、即座に切り捨てる冷徹さも持っている。
そんな彼だからこそ、名前を呼ばれ、仕事を任されることが誇らしい。
「レシア」
執務室を出ようとした私の背中に、声がかかった。
「嘆願の処理……。危険を伴う任務ではないが……念のため護衛をつけるか?いや、やはり私が直接行こうか」
「閣下?たかが街中のトラブルですよ。練兵はどうするんですか」
「しかし、万が一お前を傷つける輩が出たならば……三度殺しても殺し足りん」
小声で物騒な独り言を付け加えるヴェスペル様。
(……早くも「塩対応」の設定がブレている気がするのだけれど?)
「あのー。野盗討伐に向かう私のほうが圧倒的に危険なんですけどー?私にはそういう気遣い、一切ないんですか?」
そんなやり取りをしていると、横でルズガーナがジト目を向けてきた。
ヴェスペル様は冷ややかな目で彼女を一瞥する。
「あぁ。お前なら首を跳ねられても死なんだろう。早く行け」
「ぐぬぬぬ!!この獣!死神!冷酷漢!!」
◇◇
現場は、城壁に近い大通りだった。
耳をつんざくような金切り声。
住民たちは家の中に避難し、窓から様子を伺っている。
駆けつけた騎士たちも、耳を塞いでうずくまり、剣を振るうどころではない様子だ。
嘆願の内容は、『叫ぶマンドラゴラ』の脱走。
商人の馬車が横転し、積み荷の希少植物であるマンドラゴラおよそ百体が逃げ出したのだ。
「ひぃぃ……!鼓膜が……!」
商人は道端で泡を吹いて気絶していた。
マンドラゴラのその悲鳴は人の精神を削り、ノイローゼにさせるのだ。
しかも、物理的な攻撃は商品価値を損なうことになるため、騎士たちも手が出せないでいた。
(なるほど。これは剣では解決できない)
私は冷静に状況を分析し、ポーチから小瓶を取り出した。
マンドラゴラが叫ぶのは、土から引き抜かれた不安と恐怖からだ。
なら、安心させてあげればいい。
――風魔法「囁く霧・地緑」
私は術式を展開し、小瓶の中の液体を霧状にして散布した。
広場に満ちたのは、雨上がりの森のような、深く湿った土の香りと、微かに混ざった地属性の魔力。
『キィ……?……キュゥ』
金切り声がピタリと止む。
マンドラゴラたちは、ここが土の中だと勘違いし、安心してスヤスヤと眠り始めた。
「今のうちに」
私は眠ったマンドラゴラたちを麻袋へと回収していく。
傷ひとつない、鮮度抜群の状態だ。
「す、すげぇ……」
「騎士様たちが手も足も出なかったのに、一瞬で……!」
住民たちが恐る恐る家から出てくる。
彼らの視線は、恐怖から称賛へと変わっていた。
「あれが噂の『紅の魔女』様か?」
「すっげえ美人……それに、今の魔法、見たか?」
私はほとんど館から出ていないのに、なぜ私のことを知っているのだろう。
不思議に思っていると、視察を終えたヴェスペル様が馬で駆けつけた。
「騒ぎは収まったようだな」
彼は馬から降りると、衆人環視の中で私の腰を引き寄せた。
住民たちが「おおっ」とどよめく。
「はい、閣下。マンドラゴラは全数捕獲しました。報酬として、数体貰い受けました」
「うむ。流石だな、ザークレシア。私が選んだ魔術師だ」
誇らしげに言い放つヴェスペル様。その腕は、しっかりと私の腰をホールドしている。
(……えっ!?塩対応の設定は?!すでに壊れてませんか?!)
そんな私の動揺を気にかける様子もなく、ヴェスペル様は私の身体を軽々と抱きかかえ、黒い愛馬に乗せると、まるでトロフィーでも見せつけるかのような顔で館へと帰還したのだった。
◇◇
その夜。
寝室には、濃厚なイランイランとムスク、そして報酬で得たマンドラゴラから抽出した特製の香油の香りが充満していた。
「……んぅ、あ……!」
「……愛している、レシア」
ベッドの中、ヴェスペル様の腕に強く抱きすくめられ、身動きが取れない。
今夜の彼は、いつも以上に執拗で、甘く、激しい。
「閣下……少し、緩めて……苦しいです」
「ダメだ。離さない。……日中、我慢した反動だ」
耳元で低く囁かれ、首筋に熱い痕を刻まれる。
昼間、多くの人の前では「領主と部下」として振る舞わなければならない。
そのもどかしさが、夜の独占欲となって爆発しているようだ。
ただ……。
「……閣下。他の者の前では……冷淡に対応すると言ったあれは、どうなったのですか」
「十分冷淡だろう」
彼は私の首筋に顔を埋めたまま、不服そうに唸った。
「お前の姿が目に入って、タガが外れぬよう、抑え込むのに必死なのだぞ」
スンスンと、私の身体の匂いを嗅ぐヴェスペル様。
その言葉を聞いて、「待て」の意味が分かっていない、あるいは「待て」が出来ていると勘違いしている大型の猟犬に思えてならなかった。
「……ふふ。そうでしたか」
それがどうしようもなく愛おしくて、私は彼の漆黒の髪を撫でる。
「日中も……私のお部屋でなら、構わないのですよ?」
「……そんなことをしたら、執務室から一歩も出さずに監禁してしまう」
大仕事を終えて帰ってきた、あの日の彼の激しさを考えれば、冗談には聞こえない。あれこそが、本当に我慢した結果だろう。
「レシア。俺の理性はお前によって、完全に狂わされてしまった」
心地の良い圧迫感。再び唇を塞がれる。
彼が求めてくれるなら、私は何度でもそれに応えよう。
こうしてマンドラゴラの滋養強壮効果――それも『特級』の効果が効き過ぎた私たちは、朝が来るまでノクタリアの夜を溶かしていくのだった。
◇◇
――時間は一ヶ月前に遡る
都近くの街道。
フロースフォンスの大公宮から、一台の惨めな馬車が、逃げるように闇夜を疾走していた。
かつては公爵令嬢に相応しい豪奢な馬車を乗り回していたミリア・エル・バーベナ。
だが今、彼女が乗っているのは、窓ガラスも曇り、サスペンションも軋む、罪人を運ぶような粗末な馬車だ。
「……ッ、ありえない……!こんなの、間違いよ!!」
馬車の中、ミリアは座席のクッションを、爪が剥がれんばかりの力で握りしめていた。
完璧だったはずの化粧は涙とマスカラで黒く汚れ、夜露に濡れた飴色の髪は乱れ、唇は噛みちぎられて血が滲んでいる。
その瞳には、反省の色など微塵もない。
あるのは、プライドをズタズタに引き裂かれたことによる、煮えたぎるような憤怒の赤。そして、その奥底でゆらりと燃える、底なしの狂気の黒だ。
「辺境伯が何よ!大公が何よ!!私の価値も分からない、無能で愚かなクズどもが……!!」
彼女は窓の外、ザークレシアがいる、あの忌々しいノクタリアの方角を、ギョロリと瞳孔が開いた瞳で睨みつけた。
彼女の愛用していた、桃とバニラの甘ったるい香水は、憎しみの汗と混ざり合い、まるで腐った果実のような臭いを漂わせている。
「調子に乗るのも今のうちよ、ザークレシア。……お前も、あの死神もッ。全員、私の足元に這いつくばらせて、泥水を啜らせ、靴を舐めさせてやるわ……ッ!」
ドスッ!
彼女は、はだけた胸元から、鞘から抜いた氷のように冷たい短剣を、古びた馬車のシートに突き立てた。
それは、『支配の呪い』がかけられた、アウルス大公の厳重な呪具コレクションの一つ。
ミリアが大公宮を追放される際、混乱に乗じて盗み出した、怨念の塊だ。
所有者が他者にこの短剣を「握らせる」だけで、その者の魂を黒い呪詛で侵蝕し、自我を奪い、所有者の命令に従うだけの忠実な下僕へと堕とす。
ドスッ!ドスッ!ドスッ!
「きゃははっ!死ね、死ね、死ね!!」
ミリアは狂ったように、何度も何度も、短剣をシートに突き立てる。
グズッ、ブズッ、と、まるで肉を刺すような生々しい音が、狭い車内に響く。
滅多刺しにされたシートから、腸のように、綿が飛び出した。
「ふふ……。きゃはははは!!あいつが一番『絶望』する相手は、誰かしら」
ミリアはギョロリと瞳を動かし、虚空を眺めた。
その視線は、もはや現実のどこも捉えていない。
彼女は飛び出した綿を愛おしげに撫で、汚れた指で短剣の刃を愛撫する。
短剣から這い出る黒い靄が、彼女の手を黒く蝕んでいくが、彼女はそれを悦びに満ちた表情で見つめていた。
「死神伯の顔を、原形がなくなるまで刻んであげる……?それとも、あの生意気な魔法剣士の親友を操って、ザークレシアの心臓を刺させようかしら……?どちらにせよ、あいつは自分の大切なものが壊れるのを、動けないまま、ただ見ているしかないのよ……!」
復讐の猟奇的な想像に、彼女の口元は、人間のものとは思えないほど不気味に吊り上がる。
涎が、顎を伝って滴り落ちた。
「刺して、斬って、刻んで……。全部壊して、灰にして、虚無にしてやる!きゃはは。きゃはははははッ!!」
呪具の影響か、はてまた元から狂っていたのか。
彼女の壊れた、怨念と歓喜が混ざり合った高笑いは、闇夜を疾走する馬車の車輪の音とともに、暗い街道に不吉に木霊していた。
都を追放されたミリアの不穏。今後の展開が気になりますね!
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