第6話 秘密の馬車。私たちは隔てる壁一枚で
【ヴェスペル視点】
「――何ッ!?レシアが……一人で西の洞窟へ向かっただと!?」
夕刻。館のエントランスホールに怒号が響き渡った。
境界での魔物掃討を終え、還したばかりの俺は、自分でも驚くほど取り乱していた。
「か、閣下?レシア様とは……?」
共に帰還した騎士団長が、目を白黒させている。
彼はまだ、ザークとレシアの事を知らない。だが、そんなことを説明している暇はなかった。
あそこは今、ゴブリンよりも遥かに厄介な「ゴブリンエリート」の巣窟と化している。
さらに最近は、凶悪な再生能力を持つ巨獣『トロル』の上位種の目撃報告まである場所だ。
熟練の冒険者パーティですら全滅しかねない死地に、あのか弱そうな魔術師が一人で?
「直ちに全軍を招集し、西の洞窟へ向かわせろッ!!私は単騎で先行する!!」
「は、はいッ!!」
俺は屋敷から飛び出し愛馬の手綱を握りしめると、西の洞窟へと駆け出した。
(間に合え……!たのむ、無事でいてくれ……!)
心臓が早鐘を打つ。
「死神」と呼ばれ、戦場でも眉一つ動かさなかった俺が、今はただ恐怖に震えていた。
(俺はまた……。かけがえのない、大切なものを失ってしまうのか)
ようやく手に入れた、安寧の温もり。
あの香りが、無慈悲に奪われるかもしれない。
その想像だけで、視界が真っ赤に染まりそうだった。
◇◇
【ザークレシア視点】
ボッ……ゴゴ……ッ。
私の指先に灯った炎が揺らめく。
「ギャッ!?ギ……」
目の前で、黒焦げになったゴブリン達が次々と倒れていく。
彼らの錆びた剣は、私の肌に触れることすら叶わない。
獣の垢のような、カビた泥のような鼻をつく刺激臭。
洞窟に入る前から、微かに漂っていたから気づいてはいた。
ここがゴブリン達の巣窟だということは。
(数は多いけど、それだけ)
私は教科書通りの呪文を構築する。
――雷魔法「発光」
――炎魔法「火球」
私の両手の指先に、目も眩むような白雷と、太陽のような赤熱の球体が浮かび上がる。
私には、突出した魔術の才能はない。
ただ、アカデミーの教科書に書かれていた理論を、忠実に、正確に再現しているだけ。
ドォォォォォンッ!!
放った火球が狭い洞窟内で弾け、目眩ましで視界を奪ったゴブリンの群れを炭へと変えた。
「これで外に出られそう……」
そう思った、その時だった。
『グゥォォォォオオオオッ!!』
洞窟の最奥から、空気がビリビリと震えるほどの雄叫びが轟いた。
猛烈な殺気と腐臭を撒き散らしながら、巨大な影が地響きを立てて迫ってくる。
◇◇
ズドォォォン!!
森を抜けた瞬間、西の洞窟の方角から、地響きを伴う衝撃音が轟いた。
土ぼこりとともに、折れた木々が舞い散る。
「……ッ!!」
血の気が引いた。
あれだけの衝撃。もし人間ならひとたまりもない。
舞い散る木片が、ザークレシアの身体に見えて、ゾッとした。
(俺はなぜ、もっと早く帰ってこなかった)
(なぜ、危険を伝えておかなかった)
絶望が、私の心臓を握りつぶそうとする。
そして、森が開け洞窟の入り口が見えた。周囲には激しい戦闘の跡。
そこにいたのは――。
身の丈3メートルを超える、異形の巨獣。
トロル上位種、『トロルエンデ』。
討伐難易度は空の王者ワイバーンに匹敵する、傾国級だ。
ビシャ……ッ。
こちらに背を向けたトロルエンデの足元に、どす黒い血がぶちまけられた。
(まさか……ザークレシアが、潰され……)
そうとしか、思えなかった。
思考が弾け飛んだ。
「うおぉぉぉぉっ!!」
俺は武器を構え、走る馬の背から跳躍した。
その醜い首を刎ね、身体を両断し、彼女の仇を――。
その時だった。
ぐらっ……ズシィン……ッ!!
俺が刃を届かせるよりも早く、その巨体は糸が切れた人形のように、音を立てて横倒しになった。
土煙が晴れる。
その向こうに立っていたのは、紅の魔術師。
彼女は毅然とした瞳で、トロルエンデの最期を見届けていた。
その右手には、まだ微かに風の刃を纏っている。
「……レシア!!!」
「閣下?……うわっ!?」
キョトンとした彼女の身体を、俺は全速力で抱きしめた。
勢い余って、二人して草むらに転がり込む。
「お前は、なんでこんな危険なところに……ッ!!」
腕の中に、確かな温もりがある。
心臓の鼓動が聞こえる。
生きている。彼女は、間違いなく生きている。
「あぁ……なんてことだ。服が破れ、靴も……血が滲んでいる」
彼女のローブは土埃で汚れ、足元を見れば、擦り傷から血が流れていた。
「閣下、少し転んで擦りむいただけです。それより、見てください」
彼女は俺の腕から顔を出すと、何事もなかったかのように、背負っていた籠を差し出した。
中には、ぎっしりと詰まった『夜光茸』と、硝子瓶に入った、いかにも希少そうな赤い結晶に似た花が光っている。
「たくさん採れましたよ。これで閣下は、今日も安心して眠っていただけます」
にこりと、無邪気に笑う彼女。
(……この女は)
俺のために。
俺の不眠を治す、ただそれだけのために。
騎士や上位冒険者すら恐れるこの魔境へ、たった一人で踏み込んだというのか?
「……少し、苦戦しました。トロルの再生速度が、予想より早くて」
倒れた巨獣の胸には、巨大な剣で斬り裂いたような、凄まじい魔法の痕跡。
そして周囲には、ゴブリンエリートの死骸が山のように転がっている。
「レシア……これを、一人でやったのか?」
「はい。一応、元・宮廷魔術師ですから。教科書通りにやっただけです」
……教科書通り?どこの国の教科書だ。
「は、ははっ」
絶望からの安堵と、その言葉のおかしさに、思わず笑い声が漏れだした。
(俺は、とんでもない女を雇い入れてしまったらしい)
ザークレシアを戦場に出すつもりなど一切なかった。
守るべき存在として、館の留守だけを任せるつもりだった。
だが、しかし。
安堵と、驚愕と、その突き抜けた献身性に、気づけば俺は笑っていた。
(元婚約者は愚かだな。余りにも)
こんな極上の宝石をむざむざ捨てるとは。
(俺はもう、死んでも手放さん)
「……帰るぞ、レシア」
「きゃっ!閣下ッ、大丈夫です!自分で歩けますから」
俺は彼女を有無を言わさず抱き上げると、後を追って駆けつけた騎士団の馬車へと向かった。
◇◇
【ザークレシア視点】
夜の帳が降りる頃。
私は馬車の中で揺られていた。
ただキノコを採りに出かけただけなのに、閣下は騎士団総出の「お迎え」まで準備していたのだ。
私の足元に置かれた夜光茸が車内をぼんやりと照らす。
あの時、大型犬のように遠くから走って飛びついてきた閣下のせいで、藤籠に入れていた夜光茸がいくつか吹っ飛んでどこかへ行ってしまった。
けれど……まあ良しとしよう。
そんなことを考えていると。
ギシッ……。
扉が乱暴に開き、閣下がドカッと入ってきた。
彼は私の隣に腰を下ろすと、何も言わず、じっと私を見つめてくる。
(え?何?)
目の下にはクマがあり、酷く疲れているように見える。
そして、その瞳は怒っているようにも、泣き出しそうにも見えた。
すると唐突に、彼は私の右脚を持ち上げた。
「ちょ!閣下?!やめてください!私の足、汚れて……」
「黙っていろ。怪我をしている」
彼は私の抵抗を無視し、革靴を脱がせると、夜光茸の光を頼りに、ハンカチで丁寧に血と泥を拭い去った。
そして自身のシャツの袖を躊躇なく引き裂き、擦りむいた患部に包帯として巻き付ける。
武人に似つかわしくない、白く綺麗な手が、私の汚れた足を優しく撫で、それにより閣下の膝は血や泥で汚れてしまう。
恥ずかしいし、申し訳ない。
でも、それ以上に――
大切にされているという実感が、胸を熱くする。
「……ただ擦りむいただけですよ。大げさです」
「私は怒っているのだ」
彼は視線を落としたまま、低く呟いた。
「何に、ですか?」
「……知らん。だが」
彼は処置を終えた私の足首を、強く握りしめた。
「お前の身体は、もうお前だけのものではないのだ」
「……えっ」
それって――
どういう――
顔を上げると、閣下の顔が目の前にあった。
馬車の中。私の背中は片側の壁についている。逃げ場は、ない。
車外。木の壁一枚向こうには、護衛の騎士たちが並走している。彼の部下が大勢いるのだ。
その張り詰めた緊張感の中、彼の熱っぽい瞳が私を捕らえて離さない。
「……私は、お前を絶対に手放さない」
それは、懇願するような、命令するような、震える声だった。
あごに指が添えられ、閣下の顔にさらに近づく。
私は子供じゃない。
これから何をされようとしているかくらい、分かる。だから――
(……だめです、閣下)
私の理性が警鐘を鳴らした。
(あなたは皆から慕われ、必要とされている伯爵様。対して私はただの雇われ魔術師。立場が違う。格が違う)
ここで彼を受け入れてしまえば、二度と気楽な「雇用関係」には戻れない。
けれど。
私の唇は拒絶の言葉を紡げなかった。
アデル殿下には、魔術学院の同級生には、これまで出会ってきた全ての男たちには、しっかりと拒絶できていたのに。
「ん……っ!」
彼の熱い唇が、私の唇を塞いだ。
それは触れるだけの挨拶ではない。
砂漠で渇ききった獣が水を求めるような、深く、情熱的な口づけ。
強引にねじ込まれた舌が、私の思考を甘くかき回し、思い悩んでいた些細な理屈を奪っていく。
その拍子に、私の足元にあった籠が倒れた。
中からこぼれ落ちた夜光茸が、暗い馬車の床に散らばる。
ぼんやりとした蒼白い燐光が一気に広がり、密室を幻想的な光で満たしていった。
「はぁ……っ、ぁ……」
一度、唇が離れる。
互いの荒い呼気が、狭い空間で交錯した。
蒼光の中、私の頬を包み込む彼の手。
死神の大剣を振るうその指先は、憎らしいほどに美しく、私の唇を名残惜しそうになぞる。
「……閣下」
その瞳に宿る脆そうな熱に、私は抗えなかった。
魔術師としての矜持も、立場の懸念も、すべてはとうに溶かされている。
無意識に、彼の方へ身体を寄せていた。
(私は……私は……)
言葉を紡ごうとしたけれど、喉が熱くて声にならない。
この危険な関係に、抗おうという意識は確かにある。ただ、もっと彼に触れていたいという衝動が突き上げてくる。
「……外に……聞こえて、しまいます」
私がそう訴えると、彼は獰猛に、けれど愛おしそうに目を細めた。
「構わん。……聞かせてやればいい」
「っ……」
彼は意地悪く囁くと、再び私に覆いかぶさった。
今度は逃げられないよう、その腕が私の背中に回り、強く抱き寄せられる。
馬車の揺れに合わせて、唇が重なる。
先ほどよりも深く、粘着質に。
「んぅ……」
私は抵抗するどころか、彼の首に腕を回し、その背にしがみついていた。
甘い痺れの中で、私の身体は私の意志と別の生き物になり果てた。
薄い壁一枚向こうには、大勢の騎士たちがいる。
その背徳感と、幻想的な光の中で、私たちは溶け合うように舌を絡ませ続けた。
不眠症の死神伯、またまた理性の限界を突破したようです……!
もし「二人のやり取りにドキドキした!」と感じていただけましたら、 星を入れて応援をお願いいたします!
皆様からの応援が、二人の関係をさらに甘く進展させる最高の薬になります! 引き続き、よろしくお願いいたします!




