第5話 愚者たちの嘲笑は、私に届かない
【アデル視点】
フロースフォンス大公宮。執務室。
「殿下。こちらが、今月の裏金……いえ、例の明細です」
「うむ、ご苦労。……これはくれてやろう」
「ははっ、ありがたき幸せ!」
私は震える使者の手に、金貨をたった一枚握らせてやった。
薄汚れた男は、まるで神を崇めるように何度も頭を下げ、逃げるように執務室を後にした。
いつでも尻尾を切ることができる、社会的影響力のない底辺。こうした無知な連中は、はした金で命を懸けるから扱いやすくて良い。
私は、アウルス・フォン・ディケム大公の嫡子だ。この広大な領地も、富も、権力も、いずれはすべて私のものとなる。未来は完全無欠に約束されている。
――だからこそ、父上にはもう少し「長生き」してもらわなければ困るのだ。
あれは、三ヶ月ほど前だった。
呪物収集という悪趣味を持つ父上が、その手入れを行っていたとき、扱いを誤って強い呪いを受け床に伏した。
その呪いは恐ろしく強く、溌溂としていた父上は見る見るとやせ細り、誰もが、命を失うのも時間の問題だと覚悟をし始めていた。
大公の座を継ぐのはまだ早すぎる。領地の面倒な統治や終わりのない書類仕事など、若く優秀な私には退屈すぎる。やりたい遊びが山ほどある。
そう考えた私は、大金を叩いて高名な医者も魔術師を呼びつけたが、誰一人として父上の呪いを解けなかった。
そこでしゃしゃり出てきたのが、あの没落貴族出身の新任宮廷魔術師――ザークレシアだ。
あの女の作った魔香薬とやらは、父上の呪いの進行をあっさりと食い止めた。
命を救われた父上は女をいたく気に入り、あろうことか、次期大公である私の婚約者に据えたのだ。
多くの女を侍らせてきた私から見ても、あの女の容姿が優れていることだけは認めてやる。
だが、他の女たちのように私の威光に平伏すことも、甘く媚びることもない。仕事のことしか頭になく、初夜まで指一本触れさせない堅物。一言で言えば、ひどくつまらない女だった。
そればかりか、無駄に頭が切れるせいで、私の「小銭稼ぎ」の邪魔ばかりしやがるのだ。
私が私腹を肥やすために意図的に書き換えた関税の数字を、あのお人好しは「殿下の計算ミス」だと思い込み、勝手に正しい数字に訂正して報告してきやがった。
あんな息苦しい女が正妻になるなど、冗談ではない。
そんなことを思い出していると。
ガチャッ。
執務室の扉が開き、熟れた桃と過剰なバニラが絡みつく、甘い匂いがなだれ込んできた。
「アデル様ぁ。またあんな卑しい者を部屋に入れられたのですか?部屋が臭くなりますわ」
ミリアだ。
「社会の底辺を知っておくのも、上に立つ者の務めだよ」
私は適当に言葉を返し、すり寄ってくるミリアの腰を引き寄せた。
この、華やかで、美しく、尻の軽い扱いやすい馬鹿。私の隣には、私の自尊心を満たしてくれるこういう女がちょうどいい。
「それよりも、父上の香薬のレシピは再現できたのか?」
「も、もちろんですわ!」
ミリアは私の胸に顔を埋めながら、あからさまに鼻で笑った。
「あの女、わざと自分を有能に見せるために、素材の分量やら火の強さやら、細かくて無駄な手順をびっしり書いていたんですの。ですから、私と他の魔術師たちで『それっぽく』混ぜ合わせておきましたわ。今朝、陛下のお部屋でもちゃんと煙が出ていましたし、何の問題もありません」
「ははっ、だろうな。所詮は没落貴族の小娘の趣味だ。我が宮廷魔術師が何人もそろえば、あんなもの誰にでも作れる」
私はミリアの飴色の髪を撫でながら、満足げに頷いた。
あの夜会で、公衆の面前で捨ててやったときの、あの女の滑稽な顔。
泣き叫ぶこともできず、ただ強がって逃げるしかなかった惨めな姿を思い出すと、今でも胸がすく思いだ。
「そういえばアデル様。あの哀れな女、都から逃げ出してノクタリアに向かったそうですわよ」
「ほう、ノクタリア?あの『死神』の領地にか」
私は思わず吹き出した。
「没落貴族の逃げ場には相応しいゴミ捨て場だな。あの死神伯の機嫌を損ねて、早々に首と胴体が離れなければ良いが」
「本当ですわね。あんな可愛げのない女、死神に殺されてしまえばいいんですわ」
ふふふ、あはははっ、と。
二人で可愛げのない哀れな女の末路を想像し、声を上げて笑い合う。
私にとって、ザークレシアなど、とっくの昔に捨てたゴミでしかない。
そんな女のことを考える暇があるなら、今夜この腕の中の女とどうやって楽しむかを考えるほうが、よっぽど有意義というものだ。
◇◇
【ザークレシア視点】
キィ……キィ……。
腰に下げた魔石ランタンが、歩くたびに微かな軋みを上げる。
「西の洞窟」は、鬱蒼と茂る蔦と苔に覆われ、山肌にポッカリと黒い口を開けていた。
ここに来る途中、古びた看板がいくつか立っていたけれど、苔むしていてよく読めなかった。
まあ、大方「落石注意」か「足元注意」といったところだろう。
カリ、カリ……ッ。ポロッ。
「ふふっ……すごい……!」
私は湿った岩肌にへばりつくようにして、慎重かつ夢中でミスリル製のピックを振るっていた。
薄暗い洞窟の奥深く。魔石ランタンの光に照らし出された岩壁には、淡い青白い光を放つキノコ――『夜光茸』が、まるで星空のように群生していたのだ。
都の商人たちが血眼になって探している希少素材が、こんな手付かずの状態で残っているなんて。
私は服が泥で汚れるのも構わず、根元から一つ一つ丁寧に採取し、藤籠へと収めていく。
「……えっ?嘘、まさか……っ!」
夜光茸の群生を掻き分けたその奥。
岩の裂け目に、ルビーのように妖しく、脈打つように輝く結晶花がひっそりと咲いていた。
『竜血華』。
市場に出れば、間違いなく都の一等地に館が建つ超希少素材だ。
アウルス陛下の治療にあたっていた頃、喉から手が出るほど欲しかった幻の一品。
今となっては、都の仕事は私の手を離れてしまったわけだけど。
「うふふふ……これは、私だけの秘密のコレクションね」
私は宝物を見つけた子供のように頬を緩め、厳重に硝子の小瓶へと封をした。
今、夜光茸は国中の市場から枯渇している。
でも、この群生地の規模なら、ヴェスペル様の安眠香の材料は十二分に確保できる。
(次に来るときは、ルズガーナや館の騎士たちにも手伝ってもらおうかな。ノクタリアの領民たちの鎮静薬や風邪薬として、分けてあげられるくらい持ち帰れるかもしれない)
土埃と草の汁にまみれながら、いい場所を見つけた私は、鼻歌交じりに採取に没頭していた。
そんな私の背後には。
ぽたり、ぽたり。
暗闇から、粘り気のある水音が響く。
そして、ひんやりとした洞窟の空気を塗り潰すように、ツンとした獣の汗とカビた泥を混ぜたような強烈な悪臭が迫る。
その闇に蠢く影は、濁った黄色い瞳をギョロギョロと動かし、醜く歪んだ口からは、貪欲な涎を垂らしていた。
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