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眠れぬ死神と眠らせの調香師 ――不眠症の辺境伯に拾われた私の甘く危険な夜と、愚者たちに贈る破滅の香り  作者: セキド烏雲


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外伝6 新たな命、領土の割譲

 熱を持った吐息が、甘く鼓膜を震わせる。


「レシア。……お前は、ますます綺麗になっていく」

「……んぅ、ヴェス……」


 夜の寝室。深い情事の余韻が漂うベッドの中。

 ヴェスペル様は背後から私をすっぽりと包み込み、耳元で低く囁きながら、随分と大きくなった私のお腹を愛おしげに、そして執拗に撫で回していた。


 私の方はというと、酷かったつわりはすっかり治まり、いよいよ臨月を迎え、はち切れんばかりに身体が重くなってきた時期だ。


 それに伴い、ヴェスペル様は「兎に角、妻を大事にする」というミッションにおいて、以前にも増して常軌を逸した過保護っぷりを発揮している。


 どのくらいかと言うと……。


『そんな重いものを持つな!私が代わりに持つ!』

『いえ、たかが乾いたキノコ(魔香の材料)ですけど……』


『お前は立たなくてもいい!行き先を言え、俺が抱いて運んでやる』

『あの、お手洗いなので……自分で行きます』


『ほら、食べさせてやる。口を開けろ』

『あ、はい……あーん』(……正直、これはすごく嬉しい)


 といった具合だ。


 そして今も、大きな手で私のお腹を優しく擦ってくれている一方で……どう考えても、この人、お腹の子供に『嫉妬』している。


 私のお腹が大きくなるに従い、夜のベッドでの囁きや、肌に落とされるキスの数があきらかに多くなった。

 それはまるで、自分のテリトリーに新しい存在(まだ見ぬ子犬)が入ってくることに怯え、必死に飼い主に『マーキング』を繰り返している大型犬のようだ。


 流石に本人は口にはしないけれど。

「私からの愛情を、生まれてくる赤ちゃんに取られるのが嫌だ」と、全身から駄々をこねているのが伝わってくる。


(生まれる前からこれじゃあ……実際に生まれて、私が赤ちゃんに授乳でもしようものなら、嫉妬で憤死してしまうんじゃないかしら)


 私を逃がさないように両腕で塞ぎ、お腹を気遣いながらも、何度も何度も熱っぽく覆いかぶさってくるヴェスペル様。

 その美しくも切羽詰まった顔を見上げながら、私は全く先が思いやられると、内心で苦笑した。


 コン、コン。


 その時だ。深夜の静寂を破り、控えめだが緊迫感のあるノックの音が部屋に響いた。


「……ッ」


 瞬間。私に甘くすり寄っていたヴェスペル様の瞳から、熱がスッと引いた。

 いや、引いたのではない。『死神』のそれへと、一気に温度が切り替わったのだ。


「レシア……すまない。すぐに戻る」


 声のトーンが、甘い寝室の響きから、領地を統べる為政者の低く冷徹なものへと変わる。


「……ヴェス、私も」

「ダメだ。お前はここで休んでいろ」


 彼は有無を言わさぬ圧で短く告げると、ベッドから身を起こした。

 乱れたカラスのような黒髪を無造作にかき上げ、放り出されていた漆黒のシャツを素早く身に纏う。


 引き締まった背中の筋肉が波打ち、シャツのボタンが的確に留められていく。無駄のない洗練された動き。隙のない横顔。


(……あぁ。いつ見ても、本当にかっこいい)


 胸の奥が、キュン、と甘く疼いた。

 さっきまで私の首筋にすり寄っていた甘えん坊の大型犬が、一瞬にして、血の匂いを纏う『冷徹な狼』へと変わる。


 この、圧倒的なオンとオフの切り替え。

 誰にも見せない甘い顔を知っているからこそ、他者に向けるその冷酷で有能な姿が、私の心をどうしようもなく煽り立てるのだ。


 私から彼の熱が離れてしまうのは少し名残惜しいけれど……この背中を見つめるのが好きだという、私の密かなフェチズムは、誰にも言えない秘密だ。


 それに、彼がどこへ行こうと不安はない。

 だって、私にはしっかりと『首輪』が繋がれているのだから。


 私はそっと首元に触れた。あの日、ミリア様の凶刃から私を守って砕け散った宝石の代わりに、彼が傷跡を隠すためにと贈ってくれた、黒いレースのチョーカー。


 それは、私が『彼のもの』であるという、絶対的な所有の証。


 私は裸の身体にシーツを巻きつけると、そっとベッドを抜け出し、扉の横に立つ彼の広い背中へ、後ろからギュッと抱きついた。


「っ……レシア?」

「……お待ちしています。私の、素敵な旦那様」


 背中に頬を擦り寄せて囁くと、冷徹な狼の肩が、微かに、嬉しそうに揺れた気がした。


「あぁ。お前はもう臨月だ、いつ何が起きてもおかしくない。……仕事など秒で片付けて、すぐに戻ってくる」

「ふふっ。無理はなさらないでくださいね」


 彼は私の額に優しく口付けると、嵐のような速さで部屋を出て行った。


 有言実行の彼のことだ。本当に信じられないほどの早さで戻ってくるに違いない。

 だが――。予定日より少しだけ早く、彼が帰ってくる前に、私は突然の陣痛を迎えたのだった。


 ◇◇


「はぁっ、はぁっ……くそっ、なんでこんな時に……!」


 予定日はまだ数日先だったはずだ。

 夜更けの急務を文字通り秒殺し、息も絶え絶えに館へ舞い戻った俺を待っていたのは、「奥様が想定より早く陣痛を迎えられた」という従者からの報告だった。


 ミシッ、ミシッ……。


 館の最も日当たりが良く暖かい奥の寝室。

 その重厚なオーク材の扉の前で、俺は先ほどから何百往復目かも分からない足踏みを繰り返していた。


「……くそっ。中は、どうなっている」


 爪を噛み、ギリッと奥歯を鳴らす。


 分厚い扉の向こうからは、村から呼び寄せた熟練の産婆と、その手伝いの女性たちが慌ただしく室内を立ち働く足音、そしてお湯の弾ける音。そして――愛しい妻の、苦しみに耐えるようか細い呻き声が漏れ聞こえてくる。


「っ……あ、ぐ……」

「レシア!!」


 その声を聞くたびに、俺の心臓は鷲掴みにされたように軋んだ。

 たまらず扉のノブに手を掛けようとした瞬間。


「ストーップ!!閣下、邪魔しないでって言ってるでしょ!」


 ドンッ!と、扉の前にルズガーナが立ちはだかった。


「おじさん、落ち着きがなさすぎる!僕だって心配なんだよ?!」


 後ろでは、エミルが、俺が扉を突破しないよう、俺の周りに物理障壁の魔法を展開しはじめた。


「どけ、ルズガーナ!やめろ、小僧!俺が中に入って魔力を流せば、痛みを散らしてやれるはずだ!!」

「馬鹿言わないで!そんな魔法使えないくせに。それに、出産はね、男子禁制の神聖な儀式なの!!」


 ルズガーナは一歩も引かず、俺の胸ぐらを掴んで睨み返してきた。


「百戦錬磨の産婆さんたちがついてるから!そこに血生臭い『死神』なんかが乱入したら、産婆さんがびっくりして逃げ出しちゃうし、赤ちゃんだって、その強面見たら引っ込んじゃうでしょ!おとなしくここで待ちなさい!!」


「だが……っ!レシアが、あんなに苦しんで……ッ!」


 北伐隊として魔王軍の幹部を単騎で蹂躙した時でさえ、俺の心拍数は平然としていた。

 どんな絶望的な死地にあっても、焦りなど微塵も感じたことはない。


 それなのに、今の俺はなんだ。


 たかが木の扉一枚を隔てた向こう側で、命懸けの戦いをしている妻に、ただの一度も触れてやることすらできない。己の無力さに、腸が煮えくり返りそうだった。


「神よ……」


 俺は扉に額を押し当て、人生で初めて、見えもしない神に祈った。


 俺の命を半分持っていってもいい。だから、彼女を。俺の愛する世界そのものを、どうか護ってくれ。

 どれほどの時間が経っただろうか。

 永遠にも似た焦燥に焼かれていた、その時だった。


『オギャアァァッ!オギャアァァッ!』


 扉の向こうから、元気な、そして何よりも力強い、命の産声が響き渡った。


「っ!!」

「姉さんっ!!」


 ルズガーナとエミルが顔を見合わせて歓喜の声を上げる。

 ガチャリ、と重い扉が開かれ、汗だくの産婆が顔を出した。


「閣下、おめでとうございま――」

「レシア!!」


 産婆の言葉を最後まで聞く余裕などなかった。

 俺は矢のように部屋へ飛び込むと、血とお湯の匂いが立ち込める室内を一直線に進み、ベッドの脇に膝を突いた。


「ハァ、ハァ……っ」


 そこには、汗で髪をシーツに張り付かせ、荒い息を吐きながら横たわるザークレシアの姿があった。


 俺は、部屋の隅の揺り籠で泣いている赤ん坊には目もくれず、真っ白になった彼女の手を、両手で包み込むように握りしめた。


「レシア……っ!レシア、よく……よく頑張ってくれた」

「……ヴェス……」

「すまない。俺のせいで、こんな痛い思いを……っ。⋯⋯大切な⋯⋯お前をこんな目に……ッ」


 声が、情けないほどに震えていた。

 視界がぼやけ、俺の目からボロボロと大粒の涙がこぼれ落ち、彼女の手の甲を濡らす。


「泣かないで、ください……。貴方に似た、元気な……」

「俺はいい!お前が無事なら、それだけで……っ」

「ふふ……。馬鹿な人。……私たちの子供を、見てあげて……?」


 疲労困憊の限界だろうに、彼女は世界で一番美しい、聖母のような笑みを浮かべて俺を促した。


「……旦那様。元気な、男の子ですよ」


 産婆が、柔らかい布に包まれた小さな塊を、俺の腕の中にそっと乗せた。


「あ……」


 俺の、大きくて、これまで奪うことしか知らなかった血塗られた腕。

 そこに今、驚くほど軽くて、温かい『命』が収まっている。


 銀色の、ふんわりとした柔らかい産毛。

 まだ猿のようにシワシワの顔だが、そっと開かれた小さな瞳は、レシアと同じ、透き通るような琥珀色をしていた。


「……あぁ」


 かつて、全てを理不尽に奪われた。

 もう二度と、俺の人生に『家族』という光が灯ることはないと思っていた。


 それなのに、俺は今、愛する妻が命懸けで繋いでくれた、俺たちの新しい家族を抱きしめている。


「……ありがとう。俺の全てを懸けて、お前たちを守り抜く」


 俺が涙声でそう誓い、赤ん坊の額にそっと唇を落とした、その時だった。


「……ふぎゃっ、ふにゃぁ……」


 俺の腕の中でモゾモゾと動いた赤ん坊が、小さな手を伸ばし、あろうことかザークレシアの胸元おっぱいの方へと身を乗り出そうとしたのだ。


(……なっ!?)


 瞬間。俺の中で、得体の知れない『独占欲』がチリッと首をもたげた。


(この小僧……。生まれて数分の分際で、俺の妻の胸を堂々と要求するとは……生意気な)


「……ヴェス?どうかしましたか?」

「いや……。なんでもない。……立派な跡継ぎだ」


 俺はジト目で我が子を見つめながら、ザークレシアの額に深く口付けを落とす。


「俺の領土……。貴様に半分貸してやろう……。今だけはな」

「もう、喧嘩しないでください!」


 呆れたように笑う妻と、元気な産声を上げる我が子。

 祝福に満ちたこの部屋で、俺は、生涯で一番幸せな涙を拭った。

 最後までお読みいただきありがとうございます。

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 また、同じ世界観におけるほかの物語も展開しておりますので、そちらも合わせてご覧いただけましたら幸いです。

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