外伝5 都への凱旋、そして彼に抱かれての甘美な退場
「……レシア、本当に大丈夫か?顔色が少し青くないか?やはり今からでも辞退して、宿に戻ろう。な?」
フロースフォンス大公宮、大広間に続く貴賓用控え室。
煌びやかな夜会の喧騒が漏れ聞こえる扉の前で、ヴェスペル様はもう何度目になるか分からない心配の言葉を口にしていた。
(……懐かしい)
私は夫の声を心地よく聞き流しながら、豪奢な調度品を見渡した。
かつてこの場所で、私は元婚約者のアデル・フォン・ディケムに、衆人環視の中で婚約破棄を突きつけられ、嘲笑され、全てを失った。
あの日と同じ、華やかな夜会の空気。
けれど、今の私の隣にいるのは、愚かな元婚約者ではない。
「もう、閣下。心配しすぎです」
私は苦笑しながら、眉間に深いシワを刻んでいる愛しい夫――世界で一番頼もしい「死神」の頬を、そっと撫でてシワを伸ばした。
「つわりも治まりましたし、安定期に入って、お医者様からも『適度な運動なら問題ない』と許可を頂いています。それに……」
私は自分の足元を少し持ち上げて見せた。
「ここまでの旅路、貴方が驚くほどゆったりとした行程を組んでくださったおかげで、疲れなんて全くありません」
そう。辺境のノクタリアから、この大公宮までは、通常なら馬車を飛ばして数日の距離だ。
けれど、この過保護な旦那様は、私の体調を最優先し、なんと通常の倍以上の日数をかけた「超・配慮旅行」を計画したのだ。
道中の石畳は事前に整備させ、馬車には最高級のクッションを完備。
少し進んでは街の宿で一泊し、美味しいものを食べて休む。
そんな、これ以上ないほど優雅な旅だったおかげで、今の私は普段よりも元気なくらいだ。
「……移動の負担は消せても、人が多いのは事実だ。誰かがお前にぶつかりでもしたら、私はその場でそいつを両断してしまうぞ」
「ふふ、そんな物騒なことしないでください。……大丈夫。貴方がこうして、私を支えてくださっているのですから」
彼の大きく温かい手が、私の腰をしっかりと、けれど卵を扱うように優しく支えている。
この手がある限り、私が人混みでバランスを崩すことなんてあり得ない。
「今日の靴は、貴方が特注してくれた『ヒールのないフラットシューズ』ですし、ドレスもお腹を締め付けないデザインです。乾杯も、私は果実水を用意していただいていますし……もし少しでも疲れたら、すぐに休憩室へ戻ると約束します。だから、ね?」
「……はぁ。お前にそう言われると、弱いな」
ヴェスペル様は観念したように息を吐くと、愛おしげに私の額に口付けを落とした。
今回、私たちが大公宮の夜会に参加したのは、単なる社交のためではない。
アデルとの婚約破棄騒動や、ヴェスペル様の「死神」という悪名、そして突然の大公就任辞退――
これらによって囁かれている「不仲説」や「辺境伯夫人は不幸」といった根も葉もない噂を、一掃するため。
そして何より。
これは私の性格の悪いところだけど⋯⋯
かつて私を捨てたこの場所で、今の私がどれほど幸せかを、少しだけ見せつけたかった。
(あの日、涙をこらえてここを去った惨めな私はもういない)
私は心の中で、過去の亡霊たちに別れを告げた。
今ここにいるのは、最愛の夫に愛され、新しい命を育む、ヴェスペル様にふさわしい、誇り高き辺境伯夫人だ。
「よし。……行くぞ、レシア。私の側から片時も離れるなよ」
「はい、旦那様」
ヴェスペル様が合図を送ると、重厚な扉がゆっくりと開かれた。
「――ノクタリア辺境伯、ヴェスペル・フォン・サーイェ閣下!ならびに、辺境伯夫人、ザークレシア様のご入場です!!」
高らかなアナウンスと共に、眩い光と、数百人の貴族たちの視線が一斉に私たちへと注がれる。
そこには、かつて私を嘲笑った貴族たちの顔もあった。
その瞬間。
ヴェスペル様から、ふわりと威圧的な覇気が放たれた。
それは「道を開けろ、俺の妻に指一本でも触れたら殺す」という、無言にして最強の牽制。
ざっ……と音を立てて、密集していた貴族たちが左右へと道を開ける。
誰もが、息を呑んで私たちの姿に釘付けになっていた。
その静まり返った回廊を、私たちは腕を組み、堂々と歩き出した。
かつて泥を塗られたこの場所を、今、最高の輝きで塗り替えるために。
◇◇
「おお、よく来た。ヴェスペル、それにザークレシアよ」
海が割れるように開かれた人垣の最奥。
そこには、このフロースフォンスの最高権力者、アウルス・フォン・ディケム大公が、玉座のような椅子に腰掛け、力強い眼差しで私たちを迎えてくれた。
かつての婚約破棄の夜会では、病に伏せって欠席していた彼。
だが今の顔色は、私の調合した『竜血華』の魔香のおかげで、以前とは比べ物にならないほど血色が良く、精気に満ちている。
「身体はどうだ?無理をしていないか?」
「はい、大公閣下。夫が過保護なほど気遣ってくれますので」
「うむ、それでよい。ヴェスペル、その警戒心、実に良き夫の顔だ」
大公は満足そうに頷くと、パン、と一度手を叩き、会場のざわめきを静めた。
そして、朗々とした声で宣言した。
「皆、聞くがいい!!ここにいる二人こそ、我が領の腐敗を正した英雄である!」
会場が静まり返る中、大公の声が響き渡る。
「我が愚息・アデルの長年にわたる横領と不正を暴き、断罪したのはヴェスペルだ。そして、それを水際で食い止め、我が家の財政破綻を防いでいたのは、ザークレシアの類稀なる内助の功であった!」
貴族たちの間から、驚きの声が漏れる。
だが、大公の言葉は止まらない。
「さらに!王都を震撼させた犯罪組織『ムジナの爪』を壊滅させ、我が家に伝わる『支配の短剣』を取り戻したのも彼らだ。そして何より……死の淵にあった私を、宮廷魔術師ですら匙を投げたこの身を救ったのは、ザークレシアが調合した奇跡の魔香である!!」
――どよめきが、波のように広がった。
「あのアデル様の不正を?」
「組織の壊滅まで?」
「大公閣下の病を治したのが、あの追放された令嬢だと……?」
そこへ、大公の隣に控えていた初老の男性が、ゆっくりと歩み出た。
威厳ある髭を蓄え、圧倒的な覇気を纏うその人物に、会場中の貴族が一斉に平伏する。
レクイウム連合王国、国王陛下その人だ。
「ヴェスペルよ。そしてザークレシアよ。……大義であった」
国王陛下は、侍従から受け取った豪奢な箱を開き、そこにある『王国の守護者』を示す勲章を、直々に私たちへと授与してくださった。
「ヴェスペル。その働き、もはや一地方の領主には惜しい器だ。アウルスには怒られるかもしれぬが……余は、いずれお主を所望するぞ?この国の真の浄化には、お主のような鋭い剣が必要なのだ」
「……過分なお言葉、光栄に存じます」
国王陛下はニカリと笑うと、次に私へと視線を向けた。
「そしてザークレシア。お主の夫を支える才覚、そして万病を癒やすその魔香の能力は、まさに国宝級だ。おらねば、この不眠症の男は今頃、過労で墓の中であったろう?そなたの存在こそが、この男を『人間』にしたのだ。……元気な世継ぎを産むのだぞ。国の宝よ」
「も、勿体なきお言葉……!」
私が恐縮して頭を下げると、横からアウルス大公が慌てたように口を挟んだ。
「王よ、冗談でもそのようなことを!彼は次期大公世子心得のようなもの。渡しませんぞ!そしてザークレシアもだ。儂の目が至らぬばかりに、彼女を一度は手放してしまいましたが……そもそも彼女の才能を見出したのは、この儂ですぞ!」
「ふん。だが、その女神を不肖の息子に宛がい、泥を塗ったのもお主の罪であろうが?」
「ぐっ……そ、それは……痛いところを突かれましたな」
「わっはっは、まぁよい。結果的に、最高のかたちとなって収まったのだ」
「違いありませんな」
王の強烈な皮肉に、大公も吹き出し、二人の権力者は豪快に笑い合った。
その光景を見ながら、私は胸の奥にあった黒い澱が、完全に消え去っていくのを感じた。
(……あぁ、もういいんだ)
本当は少しだけ、思っていた。
かつて私を嘲笑った貴族たちに、私の正しさを証明したいと。
見返してやりたいと。
けれど、そんな必要はもうどこにもなかった。
私が声を張り上げるまでもなく、この国の頂点に立つお二人が、全てを代弁し、肯定してくださったのだから。
ちらり、と周囲を見る。
私を見る目に、かつてのような侮蔑の色は欠片もない。
あるのは、王に認められた英雄夫婦への、圧倒的な羨望と、畏敬の念だけ。
「……有象無象にお前を見せつけたくは無かったのだが、……これはこれで、気分がいいな」
「ふふ。はい。……少し褒められすぎな気もしますが」
ヴェスペル様が、腰に回した手に力を込め、私の耳元で甘く囁いた。
人前だというのに、彼は私の髪に口付けんばかりの距離で独占欲を露わにする。
その親密な様子に、周囲の貴婦人たちから悲鳴に似た溜息が漏れた。
「見て、あの死神卿が……あんなに甘い顔を」
「奥様を見る目が熱すぎて、こちらが溶けそうよ」
「結局、あの賢女の才に嫉妬して悪口を言っていたのは、見る目のない無能と、心の貧しい者たちだけだったということだな……」
かつて私を馬鹿にしていた者たちが、今は顔を青くして縮こまっているのが見えた。
最高の気分。
「……しかし、長話が過ぎましたな」
ヴェスペル様が、ふと真顔に戻り、国王陛下と大公に一礼した。
「妻の身体が心配ですので、これにて失礼いたします。妊婦に夜更かしは毒ですので」
「おお、そうであったな!すまぬすまぬ、引き止めた」
「よいよい、早く連れて帰って休ませてやれ!」
二人の許可が出た、次の瞬間。
「きゃっ!?」
私の視界が、ふわりと高くなった。
ヴェスペル様が、何の前触れもなく、衆人環視の中で私を『お姫様抱っこ』したのだ。
「ヴェ、ヴェスペル様!?恥ずかしいです!」
「足元がおぼつかないだろう。それに、お前と子供を守るのが私の最優先任務だ」
彼は平然と言い放つと、真っ赤になる私を腕の中に抱えたまま、堂々と出口へと歩き出した。
「きゃぁぁーっ!素敵!!」
「なんて過保護なの!まるで物語の王子様だわ!」
割れんばかりの黄色い歓声と、拍手が背中に降り注ぐ。
数百人の貴族たちの視線を独り占めにして、私たちはかつて惨めに去った会場を、これ以上ないほど劇的に、そして幸福に満ちた姿で後にしたのだった。
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