外伝4 氷の魔術師、推し人から愛し人へ
【ルズガーナ視点】
深夜。月明かりすら届かない、カビと埃の匂いが立ち込める廃屋の屋根裏。
「ルズ……大丈夫かな」
床板の隙間から階下を覗き込む私の隣で、エミルがビクビクと肩を震わせて囁いた。
「しっ!」
なぜ私が、エミルと共にこんな場所で息を潜めているのか。
事の発端は、親友であるザークレシアの懐妊だ。それ自体は心から喜ばしいことなのだが、問題はあの過保護な『死神』ヴェスペル様にある。
彼が妻にべったりと張り付くようになった結果、彼の「外仕事(裏稼業)」がすべて私に回ってきてしまったのだ。
一応言っておくが、私の館での主な契約は『書類仕事』である。私は魔術師であって、暗殺者ではない。
まぁ、初めから契約なんて破綻していたし、じっとしているよりは性に合っているからいいのだけれど。だが、シアのつわりが収まるまで領地の汚れ仕事を一人で引き受けるのだ。絶対にお給料は上げてもらう。
閑話休題。
どうせ夜の仕事(散歩)に出るならと、ささやかな悪戯心でエミルを道連れにしたのは、少しばかり判断の誤りだったかもしれない。
普段は生意気な口を叩くくせに。
姉のためなら死神にだって立ち向かうくせに。
それ以外の場面では、この美少年は完全にヘタレなのだ。
(だが、それがいい)
私は暗い屋根裏で、エミルから漂う微かな緊張の香りを吸い込みながら、密かに心臓を高鳴らせていた。
これから仕事を執行する高揚感か。それとも、密着する彼に対する緊張か。
もはや自分でも、何が何だか分からなくなっていた。床板の隙間から、階下の標的が見える。
逃げ足の速さだけで裏社会を渡り歩いてきたその男は、女専門の人身売買のバイヤーだ。
しかも、仕入れた『商品』に対して筆舌に尽くしがたい凶行に及ぶ、ただ殺すだけでは到底許されない外道。
男はカンテラの薄暗い灯りの中、一人で琥珀酒を煽りながら、永遠に来ることのない取引相手を待っている。
(最短距離で、一瞬で氷結させる)
私は剣を握り直し、魔力を練り上げた。
男が立ち上がり、追加の酒を取ろうと、ちょうど私たちの潜む天井の真下へと差し掛かった、その時――。
男の足が、ピタリと止まった。
「よお」
不気味なほど楽しげな声。
男は不敵な笑みを浮かべ、真上――私たちの潜む天井を、正確に見上げた。
床板の隙間越しに、目と目が合う。
ゾクり……ッ。
背筋を、強烈な悪寒が駆け上がった。
尋常じゃない殺気。人間のそれではない、濃密で、圧倒的な『死』の気配。
(ヤバイ……!)
私は慌てて、事前詠唱しておいた氷魔法を真下へ
向けて解き放った。
獲った。そう確信した瞬間。
「ルズ!!」
エミルの叫び声と共に、私の身体は横へと激しく突き飛ばされた。
直後、轟音。
真下の床板が爆発したかのように吹き飛び、凄まじい速度で『何か』が屋根裏へ突き抜けてきたのだ。
攻撃は完全に躱された。エミルが突き飛ばしてくれなければ、私は今頃あの衝撃をまともに受けていた。
舞い散る粉塵と暗闇の中、そいつがゆっくりと立ち上がる。
闇の中で、二つの瞳が血走った赤色に発光していた。ニタリと笑う口元から覗く、鋭く尖った犬歯。
「吸血種……!?」
絶望的な単語が口をついて出た。
吸血種。この大陸における最強クラスの厄災。都市伝説として効いたことがある。深い闇に潜む、連合王国の真の支配者だと。
ただの悪党のバイヤーが、なぜ……!?
心臓の鼓動が、痛いほど跳ね上がる。
こんな奴が出てくるなんて、閣下すら想定していなかっただろう。
そして、私一人で倒せる相手じゃない。
私は咄嗟に立ち上がり、吸血種の前に立ちはだかってエミルを背中に庇った。
「エミル!下がっ――」
ドゴッ!!
「ぐうっ……!!」
視界がブレた。
防御魔法を展開するより早く、腹部に巨岩を叩きつけられたような衝撃。私の身体は小石のように宙を舞い、廃屋の太い柱に激突して床に転がった。
「かはっ……、ぁ……」
肺から空気が搾り出され、鉄の味が口に広がる。
暗闇で視界が悪い中、奴の動きがまったく見えない。スピードの次元が違いすぎる。
「ひははっ……俺好みの極上の女だぁ……。その腹を割って……腸を引きずり出して……ひっしっし」
ねっとりとした声が、暗闇のあちこちから反響して聞こえる。
(追撃が来たら、死ぬ……っ)
立ち上がろうとしたが、足に力が入らない。今の衝撃で、両脚の神経が麻痺してしまっていた。
闇の中から、赤い瞳がゆっくりと近づいてくる。
殺される。圧倒的な暴力の前に、生まれて初めて、歯の根が合わないほどの激しい恐怖が全身を支配した。
その時、私の身体がふわりと淡い光に包まれた。補助魔法だ。
「こ、こっちにも獲物がいるわよ!!わ、私の血は旨いのよ!?」
エミルだ。
彼は私と自分自身に何らかの補助魔法をかけると、ガタガタと震える声色を変え、女言葉を使って私の囮になろうとしていた。
「ほぉ。これはなかなか。……今日は大漁日のようだぁ」
赤い瞳が私から外れ、エミルへと向く。
(馬鹿ッ、エミル!)
私はその一瞬の隙を突き、瞬時に口の中で呪文を紡ぎ、氷槍を放った。
しかし――。
ヒュンと風を切る音だけを残し、氷槍は空を切った。
躱された。敵の動きが速すぎる。
「くくく……小賢しい女だ。やはりまずはその舌を引き抜いてやるか」
「ルズ!!床を凍らせてッ!!」
エミルが叫ぶ。
動きの速い敵の機動力を削ぐには、足場を奪うのが定石だ。
私は脚の激痛を堪えながら、床全体に向けて氷魔法を放った。パキパキと音を立てて、屋根裏の床一面が分厚い氷で覆われる。
「はは、無駄な足掻きを!!」
だが、吸血種は氷の上など意に介する様子もなく、逃げられない獲物をじわじわと追い詰めるように、ゆっくりと歩を進めてきた。
滑る気配すらない。
まるで、私が絶望に染まっていくのを楽しんでいるかのように。
背後で、エミルが再び呪文を唱え、私と彼自身に補助魔法を重ね掛けした。
だが、奴の凶悪な魔力を前にしては、焼け石に水のような微弱な魔力しか感じられない。
(どうすれば……っ)
ドゴッ!!
「あッ……が……!」
再び、腹部に容赦のない蹴りが叩き込まれた。
前屈みに倒れ込んだ私の髪を、冷たい手が乱暴に鷲掴みにし、無理やり顔を上げさせる。
「へへっ、さぁ……二度と呪文など唱えられなくしてやろう」
「んっ……ぐ、ぅ……ッ!」
男の万力のような指が私の頬を強く押し潰し、強制的に口をこじ開けてくる。
恐怖。
死ぬ。
本当に、舌を引き抜かれる。
魔法使いにとって、それは死以上の絶望だ。
震える舌先に、男の冷たく不潔な指が伸びてきた、その時。
ガシッ!!
「今だっ!!ルズ!!僕達ごと凍らせろっ!!」
エミルが、男の背後からその身体にしがみついた。
「なんだ?僕だぁ?お前……男だったのか!?クソがっ!!」
バキイッ!!
鈍い音と共に、男の強烈な肘打ちがエミルの顔面を捉えた。
血飛沫が舞う。
そして肩、脇腹と続けて複数回の強烈な殴打。
だが、エミルは絶対に男の身体を離さない。
そしてついに、私の頬を掴んでいた男の手が離れた。
「早くっ!!」
エミルが、血に染まった顔で私に向かって叫ぶ。
この距離で私の全力の氷魔法を使えば、吸血種だけでなく、私とエミルまで間違いなく氷漬けになってしまう。だけど――
(やるしかない)
このままなぶり殺されるより、一緒に死ぬほうがまだマシだ。
こんなところで、舌を抜かれて凌辱される姿をエミルに見られるくらいなら!!
私は覚悟を決め、残るすべての魔力を剣に込めた。
剣の先から、青白い冷気が爆発的に膨れ上がる。
「――氷魔法『氷葬の棺』ッ!!」
刹那、世界の色が奪われた。
絶対零度の冷気が床から這い上がり、暴風となって荒れ狂う。屋根裏の全てを凍てつかせながら、標的である吸血種へと殺到した。
「馬鹿な……!?自爆だとぉ!?」
「凍るのはお前だけだ!!」
エミルが叫んだ瞬間、私とエミルの身体の表面に、薄い光の膜が展開した。
氷魔法へのアンチ(耐性)魔法。
彼がさっきから何度も何度も、非力ながらに重ね掛けし続けていたのは、吸血種を防ぐ盾ではなく、私の全力の魔法から身を守るための『氷耐性』だったのだ。
「ぐぉぉあぁぁッ!!」
薄い光の膜――アンチ魔法に守られた私たちの鼻先数センチの場所で、吸血種の断末魔が凍りついた。
足元から這い上がった分厚い氷が、彼を逃げ場のない『棺』となって閉じ込めたのだ。
ピキィンッ……ガシャァァン!!
甲高い音が響き、氷の彫像と化した吸血種は、内側からの圧力に耐えきれず、粉々に砕け散った。
静寂。
キラキラとダイヤモンドダストのように舞い散る氷の粉だけが、崩壊した屋根から漏れる月明かりを反射している。
「た、倒した……?」
私が呆然と呟くと、背後でドサリと崩れ落ちる音がした。
「……どう?少しは……男の僕も、見てくれた?」
振り返ると、エミルが額から血を流し、荒い息を吐きながら、床に座り込んで私に手を差し伸べていた。
いつもは小生意気で、女装が似合うほど可愛らしい顔は、今は血と埃で汚れ、酷い有様だ。
「……うん」
私はその手をしっかりと握りしめた。
「さ、寒っ……。やっぱり、僕の魔法程度じゃ、ルズの全力魔法は防ぎきれないね……」
強がって笑う彼の手は、ひどく冷たかった。
だけど、怯えていたはずなのに、自分の身を挺して、私の命と尊厳を守り抜いてくれた、紛れもない『男』の手だった。
「……ううん」
言葉が出なかった。
普段なら、「百年早いわよ」とか、「バカエミル、死ぬかと思ったじゃない!」とか、下らない憎まれ口ならいくらでも叩けるのに。
彼の血まみれの顔を見た瞬間、張り詰めていた糸がプツリと切れ、目から大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちた。
私の語彙力で言葉にすると、今、胸の中で激しく渦巻いているこの感情が、途端に安っぽく、ちっぽけなものになってしまう気がして。
だから私は、ただ声にならずに泣きながら、彼の冷たい手を自分の頬に押し当てた。
「えっ、ちょ、ルズ……?泣いてるの……?」
慌てる彼の声すら愛おしくて、私はただ首を横に振り、彼の温もりを確かめるように、その手に強く、強くすり寄った。
◇◇
館の裏口からこっそりと潜入し、私たちは誰もいない客室へと滑り込んだ。
「……んっ、もう降ろしてよ」
エミルに『お姫様抱っこ』をされたまま、私は彼の胸板を弱々しく押した。
普段なら「生意気!」と蹴り飛ばしているところだが、今の私にはそんな気力も、そして彼を拒絶する意思も残っていなかった。
「……暴れないで。傷が開くよ」
エミルは痛むはずの脇腹を庇いながら、私をそっとソファへと下ろした。
カチリと魔石のランプが灯る。
薄暗い光の中に浮かび上がったのは、血と泥に汚れ、それでも損なわれることのない彼の美貌。
そして、私を真っ直ぐに見つめる、熱を帯びた琥珀色の瞳だった。
「……ひどい顔。あーあ、私の『推し』が台無し」
私は精一杯の軽口を叩きながら、震える手で救急箱のポーションを取り出した。
ガーゼに薬液を染み込ませ、彼の頬の傷へと伸ばす。
(……近すぎる)
吐息が触れ合う距離。
彼の身体から漂う、鉄と汗の匂い。
それは、私が今まで「見て楽しむだけの観賞用(推し)」として線を引いていたエミルを、生々しい「異性」として意識させるには十分すぎた。
(勘違いしちゃダメだ、私!)
私は心の中で、必死に警報を鳴らす。
さっきの戦いで、彼は命懸けで私を守ってくれた。
「男として見てくれた?」なんて、甘い言葉も囁いてくれた。
……でも。
(どうせ、からかってるだけ)
この少年は、息をするように甘い言葉を吐くし、姉の友人である私を「女の子扱い」とか言って、楽しんでいるだけ。
本気にするな。期待するな。
こんなキラキラした年下の男の子と私が、釣り合うわけがない。
私は、傷つくのが怖くて、分厚い「心の壁」を築いていた。
「推し」として愛でる分には傷つかない。
でも、「パートナー」として望んでしまえば、拒絶された時に立ち直れないから。
「……はい、手当終わり。ありがとね、エミル。やっぱりあんたは、頼りになる『弟くん』だわ」
私はわざと明るく振る舞い、彼の頬から手を離そうとした。
「弟」という言葉で、彼を遠ざけようとした。
――その時。
ガシッ。
私の手首が、強い力で掴まれた。
「……っ、エミル?」
「……弟?」
低い声。
いつも私の前で見せる、ふにゃりとした子犬のような笑顔はどこにもなかった。
エミルは私の手首を掴んだまま、逃げ場を塞ぐようにソファに身を乗り出し、私を押し倒すような体勢で覆いかぶさってきた。
「ちょ、ちょっと……近っ……」
「いつまで『壁』を作ってるの、ルズ」
心臓が跳ね上がった。
図星を突かれた動揺で、視線が泳ぐ。
「か、壁なんて……何のこと……」
「誤魔化さないで。僕が冗談で君を口説いてると思ってるんでしょ。姉さんの友人だから、優しくしてるだけだって」
彼の琥珀色の瞳が、私の奥底にある臆病な本音を射抜く。
「違うの……?」
震える声で問い返すと、エミルは痛ましげに眉を寄せ、そして――私の首筋に、熱い額を押し付けた。
「……あんな死にかけの状況で、冗談なんて言うわけないだろ」
耳元で、彼の切実な吐息が響く。
「怖かったんだ。ルズが死ぬかもしれないと思ったら……身体が勝手に動いてた。自分の顔が潰れようが、腕が折れようが、どうでもよかった」
「エミル……」
「君を守れないなら、僕に価値なんてない。……それくらい、僕は君に夢中なんだよ」
エミルが顔を上げ、私の目をじっと見つめた。
そこにあるのは、からかいでも、弟としての甘えでもない。
一人の男としての、混じりけのない情熱。
「ルズ。……僕は君の『推し』じゃなくて、君と並んで立つ『男』になりたいんだ」
ガシャン……。
私の中で、最後の防波堤が音を立てて砕け散った。
「……バカ。……年下のくせに、生意気」
視界が涙で滲む。
期待していいんだ。この手を、握り返してもいいんだ。
「……許可、するわ。私の隣に……並んで立つこと」
私が涙声で、いつものように少し強がって呟くと、彼は花が咲くように破顔した。
「……本当?後になって、やっぱりただの『推し』や『弟』に戻すなんて言っても、もう遅いよ?」
「……言わないし。私だって……本当はずっと、そう望んでたんだから」
臆病な心を捨てて、私が素直な本音をこぼした瞬間。
彼の琥珀色の瞳が、獲物を捕らえた肉食獣のように細められた。
「……そっか。やっと捕まえた」
そう言って、エミルは私の頬を伝う涙を、親指でそっと拭った。
少し荒れた指先の、火傷しそうなほどの熱が、私の肌を震わせる。
「……もう、絶対に逃がさないから」
彼は私の手首を掴んでいた手を離し、今度は壊れ物を扱うように、両手で私の顔をそっと包み込んだ。
まっすぐに見つめてくる熱を帯びた琥珀色の瞳から、私はもう目を逸らさなかった。
今まで「推し」として安全な距離から見ていた彼が、今はすぐ目の前で、私だけを欲しがっている。
エミルの顔が、ゆっくりと近づいてくる。甘い吐息が鼻先を撫で、長い睫毛が触れ合いそうな距離。
私はぎゅっと目を閉じて逃げるのをやめた。
自分から少しだけ顎を上げ――一人の男としての彼の熱を、正面から迎え入れた。
そっと、重なる唇。
血の味と、汗の匂い。そして、彼が流した涙の塩辛さ。
今まで知らなかった、生々しくて、どうしようもなく愛おしい「パートナー」の味がした。屋敷の静寂の中、私たちは互いの傷を舐め合うように、深く、長く口付けを交わした。
◇◇
翌朝。
「……おい。ルズガーナ。帰っているのか?」
コンコン、と扉を叩く音で、私は目を覚ました。
重いまぶたを開けると、目の前にはスヤスヤと眠るエミルの顔があった。
「……っ!?」
状況を理解するのに数秒。
昨夜、手当の後にそのままキスをして、安心感からか二人してソファで眠り込んでしまったのだ。
しかも、がっつりと抱き合ったまま。
ガチャリ。
「居ないのか。入るぞ……って、うおっ」
扉が開かれ、入ってきたのはヴェスペル様だった。その後ろから、大きなお腹を抱えたザークレシアも顔を出す。
「わっ……ルズ?!」
二人は、ソファで絡み合って眠る私たちを見て、目を丸くし――そして、ニヤニヤと楽しげな笑みを浮かべた。
「……ふむ。小僧も、ようやく男を見せたようだな」
「あんなに幸せそうな寝顔……」
「っ〜〜〜〜!!!」
私は顔から火が出るほどの羞恥と共に、飛び起きた。
隣でエミルが「んぅ……姉さん?」と目をこすりながら起き上がる。
「み、見ないでーーッ!!」
私の絶叫が、爽やかなノクタリアの朝に響き渡った。
けれど、握りしめられたエミルの手だけは、もう二度と離すつもりはなかった。
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