外伝3 氷の魔術師、崩壊するアイデンティティ
【ルズガーナ視点】
夕方。茜色に染まるノクタリアの練兵場にて。
「魔力の練り込みが甘い!剣術だけやってればいいってもんじゃ無いよ!!」
私――ルズガーナ・フォン・グレイスの怒号が、砂埃の舞う訓練場に響き渡る。
『鬼教官』と陰で呼ばれているのは知っているが、ゴツくてむさ苦しい男たちをビシバシと指導してへたり込ませるのは、控えめに言ってかなり快感だった。
それにしても、現在のノクタリアの軍事力は、いくら魔物の脅威が多い辺境とはいえ、過剰としか言いようがない。
……いや、分かっている。これは全て、閣下のザークレシアに対する「絶対に妻を守り抜く」という感情の重さが形になったものだ。
二人の愛を牽制するつもりなど、今となっては無い。
ただ、それだけ愛し、愛されている私の親友が、ほんの少しだけ羨ましいのだ。
だからこそ、余計に教官としての気合が入ってしまう。
「ひぃっ……!ル、ルズガーナ教官、厳しすぎますって……!」
「でも、あの冷たい目で見下ろされるの、ちょっとご褒美だよな……」
「わかる。美人に罵られるなら本望というか……いてっ!」
「そこっ!!無駄口叩かない!!息が余ってるなら素振り百回追加!」
私が容赦なく木剣で床を叩くと、騎士たちはヒィヒィ言いながら再び訓練に戻っていく。
全く、男達は気を抜くとすぐにくだらないことを言う。
◇◇
やがて時間となり、訓練終了の合図を送る。
限界に達した騎士たちが、次々と地面にへたり込んだ。
「明日は西の洞窟方面の魔物退治を兼ねた実戦訓練ね!夜も気絶するまで、しっかりとイメージトレーニングを行うこと!」
私は倒れ伏すむさ苦しい騎士たちの間を歩きながら、声をかけて回った。
汗臭く、泥にまみれた野郎どもの間を抜けていく。それはまるで、荒れ果てた庭で無心になって雑草をむしり続けているような、単調で色気のない時間――。
はずだった。
「ハァ、ハァ……。どうですかぁ?少しは、マシになりましたか……?」
不意に、視界の下から声がした。
まるで、むさ苦しい雑草をかき分けた先に、ふと、手入れの行き届いた『極上の薔薇』に手をかけてしまったかのような、鮮烈な錯覚。
「……ッ」
私は、息を呑んで足を止めた。
そこにいたのは、地面にへたり込み、乱れた息を吐き出すエミルだった。
夕陽を透かしてルビーのように輝く赤髪が、汗で束になって白い額に張り付いている。
熱を帯びてほんのりと桜色に染まった頬。
そして、私を見上げる琥珀色の瞳は、疲労で潤み、まるで群れからはぐれた小鹿のように無防備で――あまりにも、官能的だった。
開いた胸元から、汗の雫がツーッと滑り落ち、華奢だが意外なほどしっかりとした鎖骨の窪みへと消えていく。
ドキッ。
不覚にも、尊すぎるその画角を、私の脳が最高の解像度で焼き付けてしまった。
普段は小生意気な彼が、今は荒い息を繰り返し、その暴力的なまでの美貌で、汗をしたたらせながら私を見上げている。
その破壊力は、私の鼻の血管を崩壊させるのに十分すぎた。
ブシュゥ!!
「えっ!?きょ、教官?!」
「……大丈夫。美しさに興奮しただけだから」
「正直すぎんか?!」
背後でへばっていた騎士たちから、総ツッコミが入る。
私は真顔のまま、懐からハンカチを取り出し、鼻から垂れた赤い液体を素早く押さえた。
エミル。顔が可愛いだけじゃない。
魔術学院に通っていただけあって筋はかなり良く、姉であるザークレシア譲りの精緻な魔力操作も得意だ。打てば響くその才能は、教官として「自分が育てている」という圧倒的な充足感を与えてくれる。
「まぁ……順調に育ってるよね」
私はハンカチで鼻を押さえたまま、直視を避けてそっぽを向いた。
見れば見るほど、色々と危ない。私の理性が。
「ふふふ……訓練が終われば、オフだよね。ルズ?」
耳元で、甘く、けれど芯のある低い声が囁かれた。
ハッとして振り返ると、さっきまで体力を使い果たして小鹿のようにへたり込んでいたはずのエミルが、いつの間にか立ち上がり、私のすぐ横に顔を寄せていた。
オフになった瞬間、見事に「生意気なオス」の顔に切り替えてきやがった。
「皆の前でやめて。貧血で倒れちゃうから!」
「ちょっと、教官を休ませてきます」
私が後ずさろうとしたのを遮るように、エミルは周囲の騎士たちにそう告げると、生意気にも強引に私の腕を引き、自身の肩へと乗せた。
「ちょっ……」
戸惑いながらも、その肩を借りる形になる。
(……っ!?ちょっと待って!!)
密着した瞬間、私の身体がビクンと跳ねた。
私は男は嫌いだ。男の身体なんて、ただの岩か丸太。繊細さが感じられないから。
そんなんだから、今まで男になんて微塵も興味が湧かなかったし、今もその確固たる自覚はある。
だけど……。
エミルは違った。
私の好きなシアに似た、顔や線の細さが感じられるというのもある。
だけど、中身は完全に男。いや、男の中でもかなり下衆の部類に入る。
なのに……。
(なんで!?なんでこの小僧だけ、私の絶対防御をこうもあっさりとすり抜けてくるのよ!!)
鼻腔をくすぐる、鉄と砂埃の匂い。そして、若い男特有の、熱を帯びた汗の匂い。
不快なはずなのに。それがなぜか、私の頭の芯を強制的に痺れさせる。
触れ合った身体から、ドクン、ドクンと、彼の力強い心臓の鼓動が伝わってくる。
(ダメ、これ以上嗅いだら……私の中のアイデンティティが崩壊する……っ!)
どうしようもないほどの困惑が全身を駆け巡り、心臓が爆発しそうになる。
「ほら、今日も『女の子扱い』、してあげてるでしょ?」
私の耳元で、下衆小僧が悪戯っぽく囁いた。その吐息が耳にかかり、背筋にゾクゾクと甘い痺れが走る。
「はぁ?!あんた足フラフラでしょ?むしろ私がエミルを女の子扱いして支えてあげてるの!」
「素直じゃないなぁ」
「どっちが?!」
私は自分のアイデンティティを死守するため、必死に声を張り上げて言い返したが、声は裏返り、顔が沸騰しそうなほどに熱を持っていた。
頭では全力で拒否しているのに。
そんな私たちがいがみ合いながら歩き去る背中を、訓練場に残された騎士たちが生温かい目で見送っていた。
「……完全に出来上がってんのに」
「なんで教官は、あんなに頑ななんだろうな」
「美少年の汗だくの鎖骨見て、鼻血吹いてたからな……」
背後で呆れたように囁かれている彼らの声は、彼に密着されてアイデンティティの危機に陥っている私の耳には、全く入っていなかった。
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