外伝2 そして、エンディングへと繋がる
辺境伯邸の一角にある、私専用の調合室。
数多の希少な薬草と、蒸留器が並ぶその部屋で、私は新作の魔香の配合表とにらめっこをしていた。
ヴェスペル様の安眠のために、新たに調合したラベンダーと月下香をベースにした自信作。
抽出したばかりの精油の小瓶を開け、香りのバランスを確かめようと鼻を近づけた――その瞬間だった。
「……っ!?」
唐突に、胃の底からせり上がってくるような強烈な吐き気に襲われた。私は慌てて小瓶に蓋をし、口元を両手で覆う。
(どうしたの……?完璧な調合のはずなのに。匂いが、ひどく鼻について……気持ち悪い)
今まで何千回と嗅いできたはずの香りが、突然、不快な異臭に感じられたのだ。
乱れた呼吸を整えながら、私は自身の身体に起きている『異変』を冷静に分析し始めた。
(……最近、そういえば少しだけ体温が高い。それに、月の使者も遅れている)
そして、特定の香料に対する、本能的な防衛反応。
体内に別の命を宿し、それを守るために身体が急激に作り変えられようとしている、紛れもない証拠。
(まさか……私、ヴェス様の……)
お腹にそっと手を当てた瞬間。
「レシア、もう夕食の時間ッ……どうした!、顔色が悪いぞ!?」
バンッ!と勢いよく扉が開かれ、執務を終えたヴェスペル様が血相を変えて飛び込んできた。
私が口元を押さえてしゃがみ込んでいるのを見て、彼は風のような速さで駆け寄り、私を抱きとめる。
「どこか痛むのか!?……おい、誰か医者を呼べ!!」
「ま、待ってください、閣下。……病気ではありません」
パニックを起こして館の執事を呼ぼうとする彼を引き留め、私はふるふると首を横に振った。
「病気じゃない?だが、お前はひどく辛そうに……まさか、その素材に毒でも混ざっていたのか?」
「違います。……私の身体が、この香りを本能的に拒絶しているんです」
「拒絶……?」
彼の灰色の瞳が、困惑に瞬いた。
私は自分の手首に当てていた指を離し、代わりに、私を抱きしめている彼の大きく温かい手を引いて、自分のまだ平らなお腹の上へとそっと導いた。
「私の身体は今、自分以外の『大切なもの』を育むために、必死に準備を始めているみたいで」
「…………」
「閣下。……私のお腹の中に、貴方との子供が……命が、宿っています」
しん、と。調香室の時が止まった。
ヴェスペル様は、私のお腹に手を当てた体勢のまま、石像のように完全にフリーズしていた。
瞬きすらしていない。
呼吸が止まっているのではないかと心配になるほど、ピクリとも動かない。
「……閣下?」
「…………」
「あの、ヴェスペル様……?」
「……おれの、こども」
ぽつり、と。かつて『死神』と恐れられた冷徹な辺境伯の口から、ひらがなのような間抜けな声が漏れた。
「俺とお前の、子供……?ここに……?お前と、俺の……?」
「ふふっ、はい。まだ豆粒のような大きさだとは思いますが……間違いありません」
私が微笑んで頷いた瞬間。
ヴェスペル様は「あぁっ……!」と顔を歪ませ、そのまま私のお腹に縋り付くようにして、床に崩れ落ちた。
「っ、ヴェス!?大丈夫ですか!?」
私のお腹に顔を埋めた彼の肩が、小刻みに震えている。
「ありがとう……っ、レシア、ありがとう……!俺の人生に、こんな奇跡が起きるなんて……っ」
「私も、すごく嬉しいです」
彼の大げさな喜びように、私の涙腺が緩んでしまう。
ヴェスペル様は私のお腹に何度も何度も羽のようなキスを落とすと、立ち上がり、壊れ物を扱うようにそっと私を抱きしめた。
「俺は誓う。この命に代えても、お前とこの子を絶対に守り抜く。だから……」
「だから?」
「お前はもう、今日から歩くな」
「……はい?」
感動の涙で潤んでいた私の瞳が、スッと乾いた。
「階段はもちろん、廊下を歩くのも禁止だ。移動はすべて俺が抱いて運ぶ。魔香の調合などもってのほかだ。指先一つ動かさなくていい!」
「いやいや、流石にそれは困ります!まだ初期ですし、適度に動かないと……」
「却下だ。いいか、俺の目の届かないところへ行くのは絶対に許さん。執務室にベッドを運ばせよう。いや、俺がこの部屋で執務をすればいいのか」
ぶつぶつと真顔で恐ろしい計画を立て始める夫を見て、私は深い、深いため息をついた。さっきまでの感動の涙を返してほしい。
(この人……私のことになると、いつもやり過ぎちゃうから)
お腹の小さな命に、「あなたのお父様は、少し愛が重すぎるのよ」と内心で語りかけながら。
私は、世界一過保護な死神の腕の中で、呆れつつも最高に幸せな笑みをこぼしたのだった。
◇◇
そして、数日後。
「レシア……王都から書状だ」
幸せの只中にある俺――ヴェスペル・フォン・サーイェは、アウルス大公陛下から届いた、豪奢な封筒を開封した。
「これって……正式な打診よね?」
隣で覗き込むのは、すっかり傷も癒え、以前よりも血色の良くなった妻、ザークレシア。
その首元には、傷痕を隠すために俺が贈った、黒いレースのチョーカーが巻かれている。白い肌に黒が映え、妖艶な美しさを引き立てていた。
「あぁ。この辺境はルズガーナに任せて、中央へ来いということらしい」
手紙には、こう記されていた。
アデルの悪事、ムジナの爪の壊滅、そしてゲルハルトの不正暴露。それらの功績を称え、俺を次期大公――つまりフロースフォンス全体の統治者として迎え入れたい、と。
アデルは廃嫡され、辺境のさらに奥地へ追放された。
ミリアとゲルハルトは行方不明として処理された。障害はなくなった。俺が首を縦に振れば、ザークレシアは大公妃となる。
「どうするの?」
彼女が不安げに俺を見上げる。俺はニヤリと笑い、ペンを執った。
「返事はこう書くつもりだ。『まだまだお若い大公陛下、生涯現役で励め』とな」
「ふふっ……。不敬ですよ、閣下」
彼女が嬉しそうに笑う。
「私も……しばらくはこのままがいいです。この地で、貴方と、そして……」
彼女は言葉を切り、少しはにかむように頬を染めた。そして俺に身体を預け、慈しむように自身の下腹部をそっと撫でた。
その仕草に、俺の胸が熱くなる。
俺たちの新しい命。かつて家族を奪われた俺が、今、新しい家族を作ろうとしている。
「あぁ。そうだな」
俺は彼女の腰を抱き寄せ、そのお腹に大きな手を重ねた。
「俺たちの家は、ここだ」
部屋の外から、ガタゴトと物音が聞こえる。ルズガーナとエミルが、聞き耳を立てているのだろう。
「隈おじさん、大公になるの?ってことは、姉さんは大公妃!?」
「しっ!エミル、声が大きい!……でも、断る気満々ね、あの夫婦」
エミルは、姉の幸せそうな表情を隙間から見て、悔しそうに、けれど安心したように溜息をついた。そして、隣にいるルズガーナを見つめる。
「……ま、姉さんが幸せならいいや。じゃあ、僕も自分の幸せを探そうかな」
「ん?なによ」
「ルズのこと。責任持って『女の子』扱いしてあげるって言ってるんだよ」
エミルがルズガーナの手を取り、生意気にも指に口付けを落とす。
「なっ……!?なにそれ、小生意気なプロポーズのつもり!?百年早いわよ!」
「えー!?顔赤いよ?」
「赤くない!!それに……『女の子』扱いするのは私だから!」
若い二人のじゃれ合いを聞きながら、俺とザークレシアは顔を見合わせて笑った。
窓の外には、穏やかな陽光と、どこまでも続く青い空。
不眠症の死神はもういない。
ここにあるのは、愛しい妻の香りと、騒がしくも温かい家族の気配だけ。
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