外伝1 死神による心身のケアは、甘くて激しい
これは、月下の結婚式からの本編で描かれなかった物語。
あるノクタリアの夜。
寝室の扉には厳重に鍵がかけられ、今夜ばかりは、いかなる急報も、空気の読めない義弟たちの乱入も許されない。
部屋には、私がこの日のために特別に調合した魔香が、月明かりに溶けるように満ちていた。
夜明け前の張り詰めた空気を思わせるフランキンセンスの冷気と、オークモスの深い静寂が溶け合ったような、凛とした清廉な香り。
そこに、彼の昂る神経を優しく解きほぐす、微かなビターの深みを忍ばせている。
ただ甘いだけではない大人の奥深さを持つその香りは、私の体温で温められることで、理性を微睡ませるような蠱惑的な媚薬へと変化していく。
(……あぁ、不思議な感覚)
ベッドの柔らかいシーツに腰を下ろしながら、私は密かに息を吐いた。
これまでも、彼の腕の中で眠りについたことはある。肌を重ねた夜もあった。
けれど、月下で永遠の愛を誓い合ったあの日以来初めてとなる今日が、彼と夫婦として迎える、本当の意味での『初夜』だった。
「……レシア」
ベッドサイドに腰掛けたヴェスペル様が、低く甘い声で私を呼ぶ。
「見せてくれ」
彼の震える指先が、私の髪をそっと払う。月明かりの下、露わになった私の首筋には、あの日ミリアの刃から受けた生々しい傷跡が、まだ薄く残っている。
ヴェスペル様の瞳が、痛ましげに歪んだ。彼はその傷跡をなぞるように、親指の腹で優しく、何度も何度も撫でる。
「……私が至らないばかりに、こんな傷を」
「もう痛くありません、これは、貴方と⋯⋯サーイェ家が私を守ってくれた証です」
「……そう言ってくれると救われる。お前のその強さに、私は惹かれてやまない」
彼は愛おしげに細く目を細めると、甘い吐息と共に言葉を続けた。
「……だが、できればあの夜の記憶ではなく、私が贈るものでその場所を満たしたい」
ヴェスペル様は静かに私の背後に回った。月明かりの下、美しい黒いレースのチョーカーが私の首に添えられ、うなじでそっとリボンが結ばれる。
それはまるで、私をこの世の何者にも渡さないという、彼からの束縛の証。
「美しい。とても……良く似合っている」
耳元に落ちた吐息に、私の肩がわずかに跳ねた。
そっと首元に触れると、繊細なレースの感触が、私が今から完全に『彼のもの』になるのだという事実を突きつけてくる。
喜びに頬が熱くなるのを感じながら、私は込み上げてくる愛おしさを抑えきれずに口を開いた。
「……ええ。まるで、あなたに繋がれた美しい鎖のようですね。……こんなにも、嬉しいだなんて」
震える声で紡がれる本心に、背後の彼が小さく息を呑む気配がした。
背後から抱きすくめられ、首筋のチョーカーのすぐ傍に、熱い口付けが落とされる。
「……っ」
「痛かったか?」
「いえ……。気持ち良かった……のです」
「……そうか。なら、もっと私の痕で、お前の記憶のすべてを上書きしよう」
彼の手が、ドレスの紐を解き、私の素肌へと滑り込んでくる。
その手つきは、硝子細工を扱うように慎重で、どこまでも優しい。
肌が空気に触れるたび、清廉さとほろ苦さが入り混じる香りがふわりと舞い上がり、彼の荒くなり始めた呼吸へと吸い込まれていく。
普段は『死神』に深い安眠をもたらすためのその静かな香りが、今夜は彼の中の獣を刺激しているようだった。
「あの夜の恐怖を……私の手で塗り替えさせてくれ。お前の記憶の全てが、私の熱だけで満たされるように」
鎖骨、肩、そして背中へ。彼の大きく温かい掌が触れるたびに、冷たい恐怖が溶け出し、甘い痺れへと変わっていく。
「もっと……触れてください。貴方のことしか、考えられないくらいに」
私が振り返り、彼の首に腕を回すと、ヴェスペル様は堪り兼ねたように私をシーツへと押し倒した。
カチリ、と魔石のランプが落とされ、部屋は月明かりだけの世界になる。
「……愛している。ザークレシア」
「私も……です。閣下」
月明りが照らす彼の表情が、一瞬だけ戸惑った。
「『閣下』は……やめろ」
耳元で、低く、不満げな囁き。
「……癖になってしまっているので」
「言い訳は却下だ。……二人きりの時くらい、特別な名で呼んでくれないか?」
彼は私の肩に顎を乗せ、大型犬がすり寄るように、首筋に鼻先を擦り付けた。
ヴェスペル様の体温と匂いに包まれ、自分の体温がジワリと上がっていくのが分かる。
「と、特別な名と言われましても……」
「なんでもいい。お前の口から紡がれる、私だけの名前が欲しい」
甘く、執拗な首筋へのキス。
私は耐えられず小さく息を吐いた。
そして、彼の腕の檻の中でゆっくり反転し、ヴェスペル様の胸に顔を埋めながら、しっかりとその瞳を見据えた。
月明かりに照らされた彼の顔は、普段の冷徹な『死神』の面影など微塵もなく、ただ愛する女からのたった一言を乞う、ひどく切実で、無防備な男の顔だった。
その瞳に宿る熱情に射抜かれ、私の胸の奥がキュンと鳴る。
ドクン、ドクンと早鐘を打つ心臓の音を悟られないよう、私は彼の胸着を小さな手でギュッと掴んだ。
「……ねぇ。……ヴェス」
ヴェスペル様の甘くすり寄っていた灰色の瞳が、一瞬にして捕食者のような、血走った獣の色へと反転する。
「……ッ!!」
「ひゃっ!?ちょ、ヴェ、ヴェスペル様……ッ!」
「……いまさら戻すな」
ものすごい圧力とともに、私の身体は寝台の奥深くへと押し沈められ、その上に熱い岩のような彼が覆いかぶさってきた。
両手首を頭上で片手で封じられ、完全に逃げ場はない。
そして、私の震える唇が、乱暴に塞がれた。
「んっ……ふぁ……ぁ……っ」
息継ぎすら許されない、濃厚で執拗な口付け。
彼の熱い舌が私の内側に深く絡み合い、甘い痺れが頭の中を白く染め上げていく。
◇◇
部屋を満たす夜明け前の冷気のような香りが、彼の強烈な熱気と混ざり合い、甘くほろ苦い媚薬となって私の全身を粟立たせていた。
私の思考は、彼の圧倒的な雄の匂いと熱に当てられ、あっという間にドロドロに溶かされてしまった。ただもっと、この人にめちゃくちゃにされたいという、甘い本能だけが残る。
「……はぁ、はぁ……っ、ヴェス……もう……」
「……朝まで、何度でも言わせるぞ」
彼の熱を帯びた手が、私の滑らかな肌を這い、無防備な素肌を甘く愛撫する。
ただ触れるだけではない。わざと焦らすように輪郭に沿ってなぞり、甘い痺れを指先から直接流し込んでくる。
「ひっ……ぁ、あ……だめ、そんな風に触れられたら……っ」
「だめじゃない。もっと俺を感じろ」
的確で情熱的な愛撫に、私の身体は弓なりに反り、熱い吐息を零して彼を受け入れる準備を整えていく。
「レシア……俺の、美しい妻……っ」
「ヴェス……っ、きて、ください……早く……っ」
月明かりの下、彼という絶対的な熱が私を完全に包み込み、ゆっくりと、けれど確かな所有欲を伴って重なり合った。
「あぁっ……!」
身も心も溶け合うような充足感と、雷に打たれたような快楽。
私の内に、彼という存在が隙間なく満ちていく。
ヴェスペル様は私の首筋に深く顔を埋め、私の匂いを肺の奥深くまで吸い込みながら、獣のように貪欲に、ひたすらに愛を刻みつけ始めた。
「あっ、はぁっ、あ……っ!ヴェス、激し……っ、あぁっ!」
「お前が、悪い……。お前がこんなにも、俺を狂わせるんだ」
ベッドが軋む音と、乱れた吐息が、静寂の夜に淫らに響き渡る。
彼に熱く抱きしめられるたびに、私の奥から火花のような快感が弾け、全身の神経が歓喜の悲鳴を上げた。
まるで彼という熱い海に溺れていくような、抗えない波。
息継ぎすらままならない。
私の汗と彼の汗の匂いが混ざり合い、この世で最も甘美な劇薬となって二人を底なしの熱へ酔わせていく。
「レシア、愛している。お前の全てが俺のものだ……っ」
「あぁっ、んっ……!私も、ヴェス……っ!!」
快楽の波が、ついに限界の頂へと達する。夜空の星々が弾け飛ぶような、目の前が真っ白になるほどの絶頂。
彼もまた、低く野性的な唸り声を上げながら、私を限界まで強く抱きしめ、その熱く濃密な愛のすべてを注ぎ込んだ。
長く、深い余韻の中で。
「……はぁっ、はぁ……っ」
私は限界を迎えた身体を休めようと、荒い息を吐きながら彼の熱い胸板に倒れ込んだ。
これで、ようやく彼も眠りについてくれる。そう安堵しかけた――次の瞬間。
「……っ、ヴェス……?まさか、もう……っ」
私を包み込んでいた彼の腕に再び強い力がこもり、その瞳に消えゆくことのない熱情が宿っているのを感じて、私はひっ、と短い悲鳴を上げた。
『死神』のスタミナと独占欲を、私は甘く見ていたらしい。
ヴェスペル様は私の震える背中を優しく撫で上げながら、耳の裏の最も敏感な場所に、吸い付くようなキスを落とす。
「……まさか、これで終わりだと思っていたのか?」
「あ、ぁ……っ、でも、私、もう……」
「言ったはずだ。朝まで、何度でも言わせるとな」
私の言葉を塞ぐように、再び深く、熱い口付けが降ってくる。
彼は私の身体をふわりと反転させると、今度は完全に私を組み敷き、逃げ場のない体勢で再び深く口付けを落とした。
「ひゃっ……あぁっ!ヴェス、……っ」
先ほどよりもさらに熱く、私のすべてを奪い尽くすような激しい愛撫。
「レシア……もっと鳴いてくれ。お前のその声も、熱も、匂いも、すべて俺に焼き付けたい」
月明かりに照らされた彼の灰色の瞳は、完全に理性を手放した『飢えた獣』の色をしていた。
「あ、あぁっ……ヴェス……っ、おかしく、なっちゃう……っ!」
「かまわない。狂ってしまえ」
私が安眠のために調合した清廉な魔香は、もはや彼を眠らせるどころか、終わりなき情熱の炎に油を注ぐ媚薬と化していた。
「あ……っ、いやっ、だめ……また、いく……っ!」
「いいぞ、もっと狂え……俺だけで頭の中をいっぱいにしろ」
何度も、何度も。甘い絶頂へと連れ去られ、頭の中が快楽で白く塗り潰されていく。
限界などとっくに超えているのに、彼の腕の檻から逃れることなど到底できない。
互いの体温と鼓動を溶かし合わせるように、私たちは何度もきつく抱きしめ合い、二度と解けない永遠の絆を、その夜、月明かりの下で幾度となく刻み込んだのだった。
◇◇
チュン、チュン……。
窓の外から聞こえてくる小鳥のさえずりと、カーテンの隙間から差し込む朝の柔らかな光で、私はゆっくりと意識を浮上させた。
(……あ、れ……?私、生きてる……?)
ぼんやりとした頭で身じろぎしようとした瞬間、ピキッ、と腰から背中にかけて走った強烈な痛みに、思わず「痛っ」と小さな声が漏れる。
無理もない。昨夜の私の言葉が、彼の中の猛獣を呼び覚ますスイッチとなってしまい……文字通り、窓の外が白み始めるまで、私は彼の波に飲まれ続けていたのだ。
「……おはよう。私の美しい妻」
頭上から降ってきた、機嫌の良い、艶やかな低音。
見上げると、そこには乱れた黒髪の間から、蕩けるような灰色の瞳で私を見つめるヴェスペル様の姿があった。
その目の下には彼のトレードマークである隈が刻まれている。
「……っ、ヴェス、様……」
「『様』はいらないと言ったはずだが?」
「……ヴェス。……おはよう、ございます」
私が恥じらいながら言い直すと、彼は満足そうに目を細め、私の額、鼻先、そして唇へと、小鳥がついばむような優しいキスを何度も落とした。
「よく眠れたか?」
「……誰かのせいで、ほとんど眠れませんでした」
私が恨みがましく睨みつけると、かつて『死神』と恐れられた辺境の支配者は、まったく悪びれる様子もなく、ふっと嬉しそうに微笑んだ。
「すまない。お前が私の名前を呼ぶ声が、あまりにも可愛かったから……理性が吹き飛んでしまったんだ」
「っ〜〜!もう、忘れてください!」
真っ赤になって両手で顔を覆うと、彼から低い笑い声が漏れた。
彼は私の手首をそっと掴んで退けると、シーツの下で私の腰を引き寄せ、再び大きな身体で私をすっぽりと包み込んだ。
「痛むか?撫でてやろう」
「だ、大丈夫です……。それより、少し離れて……」
「却下だ」
即答だった。彼は私の首筋――昨夜彼が結んでくれた、黒いレースのチョーカーのすぐ傍に顔を埋め、すーっと深く息を吸い込んだ。
「……いい匂いだ。お前の甘い香りと、私の匂いが混ざり合っている」
「……っ、変態」
「レシア限定の、だ」
彼の大きく温かい掌が、労わるように私の腰を優しく撫でる。
その心地よさと、彼から伝わってくる底なしの愛情に、身体の痛みがゆっくりと甘く溶かされていくのを感じた。
「……ヴェスは、元気ですね。一睡もしていないはずなのに」
「当然だ。元不眠症を舐めるなよ。寝ずとも体力はある程度回復するのだ」
「……それ。誇らしくありませんから」
呆れてため息をつくと、彼は私の髪を愛おしげに梳きながら、耳元で悪戯っぽく囁いた。
「ふふ、ではその体力、もう一度証明して見せよう。まだ朝の執務まで時間がある」
「……ッ!?だ、だめです!本当に壊れてしまいます!」
私が慌てて彼の胸板を押し返そうとすると、彼はまた低く笑い、私をきつく抱きしめ直した。
「冗談……ではあながち無かったのだが。……今日はお前をベッドから一歩も降ろすつもりはない。執務はルズガーナとエミルに丸投げする」
「そ、そんな職権乱用……二人に怒られますよ」
「構うものか。私の最優先事項は、妻の心身のケアだ」
彼はそう言い切ると、今度は私の唇に、深く、甘い口付けを落とした。
(ケアにしては激しすぎるのだけど……)
チュン、チュン……。窓の外の小鳥のさえずりが、ひどく遠くに聞こえる。
「……愛している、レシア」
「……私も。愛しています、ヴェス」
新しい朝の光と、昨夜の微かな魔香の残り香に包まれながら。私は、世界で一番過保護で甘い檻の中で、もう一度、幸せな微睡みの中へと落ちていった。
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