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眠れぬ死神と眠らせの調香師 ――不眠症の辺境伯に拾われた私の甘く危険な夜と、愚者たちに贈る破滅の香り  作者: セキド烏雲


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第20話 純白のドレスに咲いた椿。――崩れ落ちた完璧な世界

【ヴェスペル視点】


 月光が、彼女の純白のドレスを透き通るように照らし出している。


 俺の指先が、彼女の華奢な薬指に指輪を滑らせる。


 その感触は、俺が生涯握ったどの剣よりも重く、そして震えるほどに尊かった。


「……あぁ」


 吐息と共に、言葉にならない幸福が胸に満ちていく。


「死神」と呼ばれ、血と孤独に塗れていた俺の手。

 その手が今、こんなにも暖かく、柔らかな光に触れている。


(これが、幸せというものか)


 目の前で、涙をいっぱいに溜めて微笑むザークレシア。

 その後ろで、騒がしくも温かく見守るルズガーナとエミル。


 庭園に咲き誇る月下美人の甘い香り。

 全てが、俺を肯定してくれている。


 不眠の夜も、戦場の悪夢も、全てはこの瞬間のためにあったのだと。

 俺は彼女の手の甲に、誓いの口づけを落とした。


 永遠に守ろう。この愛しい体温が、この命が尽きるその最期の時まで、決して凍えることがないように――。


 世界は完璧だった。

 そう、その瞬間までは。


 フッ、と。


 鼻腔の奥に、異質な違和感が走った。


「ッ……ダメ!閣下!!息を止めて!!」


 レシアの悲鳴のような警告。

 だが、その時にはもう遅かった。


 ドクンッ。


 心臓が早鐘を打ち、手足の感覚が一瞬で遮断される。

 強烈な痺れ。視界がグラリと揺れ、地面が消失したような浮遊感に襲われる。


「が、ぁ……ッ!?」


 強力な麻痺毒の香だ。


 俺の背後で、ルズガーナとエミルが音もなく崩れ落ちる気配がした。

 目の前のザークレシアも、膝から崩れ落ちそうになりながら、必死に俺に手を伸ばしている。


(なんだ……何が起きた……!?)


 思考が泥沼に沈む中、視界の端で「影」が動いた。

 闇の底から這い出してきたような、薄汚れた小動物。奴から風魔法の残留魔力を感じる。


「あひひぃぃぃ!!死ねぇぇェェェッ!!!!」


 その手には、禍々しい光を放つ短剣。

 切っ先が狙うのは――。動けないザークレシア。


(――させるかッ!!)


 麻痺した神経を、意志の力だけで無理やりねじ伏せ、叩き起こした。

 無理やり動かした身体は、その筋肉が悲鳴を上げ、骨が軋む。


「グウォォォォォ!!」


 俺は獣のような咆哮と共に、その凶刃へと手を伸ばした。


 ガシィッ!!


「なッ!?」


 ミリアが驚愕に目を見開く。

 俺は彼女が振り下ろした短剣の刃を、素手で握り止めていた。


 掌が裂け、鮮血が噴き出す。

 だが、痛みなどどうでもいい。


「……汚物がぁ!!俺の女に、触れるなァァッ!!」


 俺は短剣を強引に奪い取った。

 その瞬間。


『殺せ……殺せ……愛する者を、その手で……』


 頭の中に邪悪な気配が流れ込み、ドス黒い声が響き渡った。

「支配の短剣」の呪い。それは、俺の思考を乗っ取り、強制的に操ろうとするおぞましい強制力。


(……失せろォォォッ!!三流呪具がぁぁ!!!)


 俺はその声を、自らの心の叫びで完膚なきまでに吹き飛ばした。


 この魂は、既にザークレシアで満たされている。

 貴様ごとき薄っぺらい呪いが入り込む隙間など、微塵も残っていないわ!!


『オォォォォッ!!』


 俺のレシアに対する想いの密度に押し出された支配の呪いは、怨嗟の悲鳴を上げて俺の中から霧散していく。


「あ、ありえないッ!!なんで支配されないのよぉッ!?」


 ミリアはその目玉がこぼれ落ちるほどに驚愕し、絶叫した。


「……終わりだ」


 俺が血塗れの短剣を遠くへ投げ捨て、トドメを刺そうと踏み出した、その時。


「嫌ぁぁぁぁッ!!負けない……私は負けないぃぃぃッ!!」


 ミリアは狂乱し、腕を突き出した。

 その手にはなぜか、俺が投げ捨てたばかりの短剣が握られている。


 思考も、理性も、魂さえも削り取られた抜け殻の、最後の悪あがき。

 その切っ先が、麻痺で自由を縛られた俺の横をすり抜け――。


 レシアの首筋へと突き出された。


 ズプッ。


 嫌な音が、月夜に響いた。


「……あ」


 俺の目の前で。

 レシアの身体が、ビクンと跳ねた。


 彼女の白く細い首筋を切り裂く憎悪の刃。


「あ……が……」


 レシアの瞳が見開かれ、俺を見つめる。


「レ……シア……?」


 時間が、止まった。


 傷口から、鮮やかな赤が流れ出る。


 それは月光を浴びて輝きながら、彼女の純白のドレスを紅く染め上げていく。

 雪原に咲く椿のように。あるいは、残酷な死の宣告のように。


 ドサリ。


 俺の愛しい世界が崩れ落ちた。


「……あ、あぁ……」


 心臓が、鼓動を止めた。

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