第19話 薬指の誓いは銀色に輝き、狂女の刃は闇に潜む
最近、閣下との「夜」がない。
忙しいのは分かっている。ムジナの爪の残党狩りや、ゲルハルトが止めた物流の復旧。
領主としての仕事は山積みだ。
けれど、毎晩ベッドに入ると、彼は私を壊れ物のように抱きしめ、深いキスをするだけで終わってしまう。
『……補給、完了だ』
そう言って、満足げに寝息を立てる閣下。
私は歩くポーションか何かですか?
それとも、もしかして……もう飽きられた?マンネリ期?
不安が黒い霧のように胸を覆う。
昼間、執務室でルズガーナと楽しそうに話していた姿が脳裏をよぎる。
二人は美しい。並んでいると、まるで一枚の絵画のようだ。
私なんかより、ずっと……。
「はぁ……」
ため息をつきながら一日の仕事を終えて執務室を出た、その時だった。
「はい、捕まえた」
背後から伸びてきた手に、視界を奪われた。目隠しだ。
「ル、ルズ!?何するの!?」
「いいからいいから。シアは黙ってついてくること」
目隠しをされたまま、私はルズガーナによって別の部屋へと連れていかれ、手際よく服を脱がされていく。
「え、ちょっと、ルズ……?ここ、更衣室?」
私の問いかけには答えず、彼女は何か新しい布地を私の肌に滑らせた。
ひんやりとして、水のように滑らかな感触。いつもの夜着やワンピースとは明らかに違う、上質な生地だ。
続いて、胸元と腰回りがキュッと締め上げられる感覚があった。
「んっ……く、苦しい、ルズ」
「はいはい、ちょっと我慢してね。ここが大事なんだから」
重い。それにこの滑らかな感触、いつもの服じゃない。
背中がキュッと締め付けられて……まさか、コルセット?足元でシュルシュルと衣擦れの音がする。
「うん、完璧」
ルズガーナの満足げな声が聞こえ、最後にフワリと、何か薄くて軽い布が頭に被せられた気がした。
視界を奪われたまま感じる、いつもとは違う特別な服の重み。
不安と、正体不明の期待で、私の心臓は早鐘を打った。そのままルズガーナに手を引かれ、夜風の吹く屋外へと連れ出された。
◇◇
コツ、コツ、と石畳を歩く音。
鼻先をくすぐるのは、夜露に濡れた草花と、どこか懐かしい「冬の夜明け」のような清廉な香り。
「ねぇ、ルズ」
私は不安に押しつぶされそうで、震える声で尋ねた。
「閣下と……何かあるの?最近、よそよそしいし……」
「え?どういうこと?」
「だって、閣下の執務室で、ルズと閣下が二人きりで……」
「ぶっ」
ルズガーナが噴き出す気配がした。
「あはは!シアってば、そんなこと考えてたの?」
「だ、だって……そうとしか、思えないから」
「馬鹿ねぇ。そんなわけないじゃん。閣下はずっと、シアしか見てないんだから。これまでも、これからも」
彼女の手が、私の背中を優しく押した。
「ほら、着いたよ。……目を開けて」
スルリと、目隠しが解かれる。
閉じていた瞼を、恐る恐る持ち上げた瞬間。世界が、銀色に輝いた。
「……あ……」
そこは、館の裏にある庭園。
満開の月下美人が咲き乱れ、頭上には手を伸ばせば届きそうなほどの満月が浮かんでいる。
そして、その月光を背負って立っていたのは――。
「……待たせたな、レシア」
漆黒の燕尾服に身を包んだ、ヴェスペル様だった。
普段の着こなしとは違う、正装姿。
闇に溶けるような黒衣が、彼の銀髪と、陶器のように白い肌を際立たせている。
その立ち姿は、息が止まるほど美しく、そして神々しかった。
「閣下……?」
私は自分の姿を見下ろした。
月光を反射して煌めく、純白のドレス。
繊細なレースが幾重にも重なり、私の身体を優しく包み込んでいる。
(……あの時の。「触診」)
熱っぽい手で腰を撫で、執拗なまでに確かめていたあの感触。「マンドラゴラの魔力」だなんて、苦し紛れの嘘をついて。
あれは、私の身体を隅々まで愛し、このドレスを完璧にあつらえるためだった。
点と点が線になり、その先にあった深すぎる愛に気づいた瞬間――。
堰を切ったように熱いものが込み上げ、視界が一気に滲んだ。喉の奥が震えて、声にならない嗚咽が漏れる。
「綺麗だ……レシア。言葉にならないほどに」
ヴェスペル様が歩み寄ってくる。
その瞳は、熱情で揺らめいていた。
閣下は私の前に跪き、そっと手を取った。その瞳は、熱情で揺らめいている。
「ただ、月と星、そして我々の絆を知る者だけがいればいい。……他の有象無象に、今夜の美しいお前を見せたくはない」
そう。派手なパーティも、外交的な挨拶も、形式ばった儀式もいらない。
私が欲しかったのは、ただ、この人からの絶対の愛だけだったから。
視界の端で、ルズガーナとエミルが微笑んでいるのが見えた。
「レシア。……私は、お前なしでは存在しえない」
ヴェスペル様が、懐から小さな小箱を取り出した。
パカリ、と開かれた中には、月光を吸って輝く、深い紅色の宝石が嵌め込まれた指輪。
「あの夜。お前が私の闇を晴らしてくれた瞬間から、私の魂は、お前のものとなったのだ」
彼は私の左手を持ち上げると、薬指にゆっくりと指輪を通した。
冷たい金属の感触。
けれど、それは驚くほど滑らかに、私の指の根元へと収まった。
あの日。ハンドクリームを塗りながら、彼が執拗に撫で回していた薬指。
『美しい手だ』と言ってくれて、キスをした場所。
(全部……全部、このためだったんだ)
悔しい。
こんなに素敵な彼が、今、目の前にいるのに。溢れ出す幸福が涙となって、彼の姿を銀色の光の中に溶かして、ぼやけさせてしまう。
拭っても拭っても溢れてくる涙がもどかしい。
けれど、その滲んだ視界の奥で優しく微笑む彼は、どんな宝石よりも眩しく、美しかった。
「……愛している。ザークレシア」
彼は立ち上がると、私の腰を引き寄せた。
月光の下、彼の顔が近づく。
「私の妻になってくれ。……死が二人を分かったとしても、魂が朽ち果てたとしても、俺はお前を離さない」
なんて、重くて、甘美な誓い。
私は涙でぐしゃぐしゃになった顔で、何度も頷いた。
「はい……っ!喜んで……!!」
重なる唇。
花の香り。夜風の冷たさ。彼の体温。
五感のすべてが、この幸福な瞬間を記憶しようと震えている。
「おめでとう!姉さん!」
「お幸せに!……シアを悲しませたら、承知しませんからね、閣下!」
エミルとルズガーナの声が、遠くで聞こえる。
世界が祝福してくれている。
風に揺れる月下美人も、静かに見守る月も。
(あぁ……幸せすぎて、怖い)
あの日、夜会で婚約を破棄され、実家を飛び出して全てを失ったあの時。
それが今、こんなにも愛されて、こぼれるほどに喜びが溢れている。
想像すらできなかった、最上級の幸福。
私は強く彼にしがみつき、月光よりも眩しい愛の温もりの中に、深く、甘く、沈んでいった。
◇◇
僅かに時間は遡り――ノクタリア辺境伯の館の地下牢。
「……出せ。ここから出しなさいよッ!!」
鉄格子の冷たい床で、ミリアは爪が剥がれるほど壁を掻きむしっていた。
煌びやかだったドレスは汚れ、髪は振り乱れ、化粧は不気味に溶け、剥がれ落ちている。
「無駄だ。お前の罪は重い。処刑されるのを待つんだな」
見回りの騎士が、冷淡に告げる。
「嘘よ……私は被害者なの。全部あの女が……!」
鉄格子にすがりつくミリア。その目には、どす黒い呪いの色が宿っている。なぜなら彼女の手には、没収されたはずの『短剣』が握られているからだ。
『支配の短剣』の呪いは所有者の魂を喰らう。一度所有者と短剣が認識した者は、その命が尽きるまで、その呪いは纏わりつく。
故に、物理的に奪われたとしても、いずれ。所有者が強く念じれば、即座に手元に戻ってくるのだ。
「……ねぇ、騎士様ぁ。お願い……私、ここから出たいの」
さっきまで叫んでいたミリアは、一転して媚びるような声色を作り、ドレスをはだけさせて胸を強調し、裾を引き上げて脚を露出させた。
だが、ヴェスペルの部下の騎士は見向きもしない。彼女の「作られた魅力」は、厳格なノクタリアの騎士たちには不快にしか映らないからだ。
「もういいわ。……死んでやる!」
色香が効かないと悟ったミリアは再び逆上。支配の短剣を逆手に持って、自分の細い首筋に切っ先を当てた。
「おい、やめろ!」
騎士が慌てて牢へと駆け寄る。
自殺を止めるため、彼は鉄格子越しに手を伸ばし――ミリアの手首を掴もうとした。
「掛った!」とばかりに口角を上げるミリア。騎士の伸ばしたその手に、短剣の「柄」を掴ませた、瞬間。
ドクンッ!!
「……が、あ……ッ!?」
騎士の瞳から、光が消えた。
「うぅ……ヴぉえぇっ!!……はぁ……はぁ。ははははは!!」
ミリアは支配の呪いの反動で、吐瀉物を冷たい石床にぶちまけた。しかし、全く気にするようにもなく、歓喜のあまりゲラゲラと嗤う。
彼女の命は、ごっそりと削り取られた。しかし、復讐に狂った彼女は、それに気づきもしない。
「あはっ……あはははは!チョロい!」
ミリアは看守から鍵を奪い取ると、悠々と牢を出た。
「待っててね、ザークレシア」
ミリアは闇に溶け込むように、地下からの階段を駆け上がっていく。
「あんたが一番幸せな瞬間に……その首、掻き切ってやる」
月光の下、甘い誓いを交わす二人の背後。そこへ、狂気に染まった女の刃が、音もなく忍び寄っていた。
ザークレシアから掠め取り、あろうことか『自らの体内の奥深く』に隠し持っていた、あの麻痺毒の小瓶とともに――。
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