第18話 チェックメイトは香りと共に。――女装した少年と、氷漬けの操り人形
【ルズガーナ視点】
「……なるほど。ゲルハルト大公が狂った理由は、あのリス女か」
執務室の重厚な机。
私――ルズガーナ・フォン・グレイスの前に座ったヴェスペル様は、ゲルハルト大公とミリア・エル・バーベナの繋がりを示唆した報告書を指先で弾いた。
その横には、ザークレシアが夫婦のように寄り添っている。
「そして、都で大騒ぎになっている『大公家の宝物庫から消えた支配の短剣』。……十中八九、ミリア様が持ち出したものでしょうね」
ザークレシアが眉をひそめて補足する。
ヴェスペル様はふん、と鼻を鳴らすと、自然な仕草で彼女の腰に腕を回し、自分の椅子の方へと引き寄せた。
「『支配の短剣』。持ち主の寿命を喰らい、奪い取ろうとすれば、その相手を操り人形に変えるという、悪趣味な代物」
「ええ。ミリア様は、アデル殿下から宝物庫の鍵を盗んでいたのでしょうね。閣下は絶対に掴んではいけませんよ」
「お前が側にいるなら、私の精神が揺るぐことはあり得ない」
ヴェスペル様はザークレシアの手を取り、深く香りを吸い込んでいる。真剣な会議中だというのに、この空間ときたら。
(……はいはい、甘い甘い)
私は呆れ半分、安堵半分で溜息をついた。
かつて「死神」と呼ばれ、不眠症に苦しみ、孤独を纏っていた男はもういない。今の彼は、ザークレシアという精神安定剤を得て、無敵の辺境伯様になっている。
(私の大好きなシアが、こんなに愛されて幸せそうで……正直、ちょっとだけ妬けるけど、悪い気はしない)
そこへ、一通の書状が届いた。
私たちはその手紙をのぞき込んだ。
差出人は、財務総監ゲルハルト大公。
『事態の収拾を図りたく、秘密裏に会談を申し入れる。ただし、場所は中立地帯の廃教会。交渉のテーブルには、ヴェスペル・フォン・サーイェ伯爵一人で来るように。――ザークレシア・フォン・サーイェ伯爵夫人については、同伴は許可するが入り口までとする』
執務室で書状を読み上げたシアの声が止まる。そして、その最後の一文を読んだ瞬間、室内に奇妙な沈黙が落ちた。
「……ええと、閣下」
ザークレシアは羊皮紙を指差し、困惑気味に首を傾げた。
「私が、なぜか既に閣下と結婚したことになっています。『伯爵夫人』だそうです」
「……な、なんだと……?」
ヴェスペル様がバッと書状を奪い取る。その目が一点を凝視し――みるみる内に、顔色が蒼白になっていった。
ガタッ!
彼がよろめき、執務机に手をつく。まるで致死性の猛毒を受けたかのような、絶望的な表情だ。
「か、閣下!?大丈夫ですか!?」
「……やられた……。不覚だ……!」
ザークレシアが心配そうに駆け寄る。
「不覚?罠の内容にですか?」
「違う!!先取りだ!!」
ヴェスペル様は血を吐くような思いで、書状を握りしめた。
「計画が台なしだ!!指輪の交換も、誓いのキスもまだだというのに……!まさか敵に『夫婦認定』を先越されるとは……ッ!!」
彼はガックリと項垂れた。その背中には、哀愁すら漂っている。
「あの不快なリスめ、私の最大の楽しみを奪いやがって……許さん……!」
(……そっち?)
私は思わず天を仰いだ。
まさか敵からの脅迫状で、夫婦の既成事実を作られることにダメージを受けるとは。
確かに、敵に塩を送られるどころか、敵に婚姻届を勝手に代筆されたようなものだけど。
「……まぁ、予行演習だと思ってくださいよ、閣下」
私が呆れつつフォローを入れると、彼は子供のように唇を尖らせた。
「……ぐぬぬ。式では百倍にして言い直してやる」
彼は気を取り直すように咳払いをする。瞬時に、その瞳から甘さが消え、剣呑な「死神」の光が宿る。
「……しかし、あからさまだな。あのリスは本当に馬鹿なのか」
彼は書状を指先で弾いた。
「『ザークレシアは入り口まで』か。いちいちレシアに言及するあたり、連れてこいと言っているようなものだ。加えて、私たちを引き離し、各個撃破を狙っていることまで見え透いている」
「ええ。ミリア様が考えそうなことです……。私を誘い出し、その短剣で操るか、あるいは……」
シアの言葉に、ヴェスペル様は冷ややかに目を細めた。
そして、同じ部屋にいながら、空気と化していた人物へと、その切っ先のような視線を向けた。
「おい、お前。三食飯付きで飼ってやってるんだ。役に立て」
「えっ!?……ぼ、僕!?」
ビクゥッ!と肩を跳ねさせたのは、すっかり風邪が治ったザークレシアの弟、エミルだった。
まだあどけなさが残る美少年の彼は、姉に助けを求めるような視線を送る。
けれど、ザークレシアは「頑張れ」と言わんばかりに、そっと目を逸らした。
絶望したエミルが、縋るように私の方を見る。
ウルウルと潤んだ瞳。子犬のような……いや、守ってあげたくなるような、はかなげな視線。
(……っ!?)
心臓が、トクンと跳ねた。
(あぁもう。男は嫌いなのに!なんでアイツに反応しちゃうのよ!)
シアに顔が似ているから?華奢で綺麗な、あの体つきがいいから?違う。もっとこう、放っておけないような……母性本能?いや、私にそんなもの欠片もないはず。
けれど、彼が危険な目に遭うと想像しただけで、胸がざわついた。
(彼を助けてあげられるのは、私だけ……)
思考より先に、身体が動いていた。
私はヴェスペル様とエミルの間に割り入った。
「ちょっと!閣下!私のエミルを……いえ、この子を危険に晒す気ですか!?一般人ですよ!?」
「なぜお前が必死になっている」
ヴェスペル様が怪訝な顔をする。
ザークレシアもまた、ニヤニヤと楽しげな笑みを浮かべて私を見ていた。
「いや、必死とかじゃなくて……ほら、戦力にならないし!」
「ふん。適任なのだ。背格好、顔立ち。シアの代わりになれるのは、血の繋がったコイツしかいない」
「代わりって……まさか」
ヴェスペル様はエミルを見下ろし、口角を吊り上げた。
「女装しろ。ザークレシアになりすまし、囮となれ」
「は?」
エミルはフリーズし……
「ええええええええ!??」
絶叫が響く。
私は抗議しようとしたが、ザークレシアが私の肩に手を置き、耳元で囁いた。
「ルズ。エミルの女装……見たくない?」
(……見たい)
即落ちだった。
「ふん。ルズガーナ、心配ならお前もついて来ればいい。護衛の騎士役にでも化けておけ」
「……分かりました。この子には、傷一つ付けさせませんよ」
私は拳を握りしめた。
◇◇
【ミリア視点】
霧が立ち込める廃教会のバルコニー。
私――ミリア・エル・バーベナは崩れかけた石柱の陰から、眼下の「舞台」を見下ろしていた。
背後には、虚ろな目をした操り人形――ゲルハルトを従えて。
「……来たわね。哀れな主役たちが」
霧を割って現れたのは、憎き「死神伯」ヴェスペル。
そして、彼から遠く離れた入り口付近には、護衛の騎士と――不安げに身を縮こまらせるザークレシアの姿があった。
「ふふ、あははは!なんて馬鹿な男なの!」
笑いが込み上げて止まらない。
『交渉の場には一人で来い。ザークレシアは入り口まで』。そんな私の要求を、奴は律儀に守ったのだ。
私のシナリオは完璧だ。
私がこの短剣でヴェスペルの注意を引きつけている間に、ゲルハルトを影に紛れさせ、ザークレシアの背後へ回り込ませる。
そして、ヴェスペルが私に気を取られた瞬間、愛しい妻の首を掻き切らせるのだ。
もし死神がこの短剣を握ったならば、奴にザークレシアを殺させてもいい。二段構えの完成された作戦だ。
「ゲルハルト、行きなさい。……私の合図で、あそこの女を殺して」
「……御意」
闇に溶けるように消えるゲルハルトを見送り、私は口角を吊り上げた。
さあ、ショーの幕開けよ。
私は新調したドレスの裾を翻し、優雅に階段を降りていく。
「ごきげんよう、ヴェスペル様ぁ」
私の声に、ヴェスペルが顔を上げる。その表情は険しい。
「……約束通り、武器は置いた。関所の封鎖を解け」
「あら、そんなに殺気立たないでくださいましぃ。……封鎖を解いてほしければぁ、まずは『和解の握手』といきましょう?」
私は艶然と微笑み、ゆらりと彼に近づく。
視線を集めるのよ。私に。この私だけに。
「過去の水に流しましょう。……この、友好の証を受け取ってくださればね」
懐から取り出したのは、煌びやかな装飾が施された『支配の短剣』。
あえて鞘に収め、恭しく彼に差し出す。
「大公家に伝わる、由緒ある短剣ですわ。さあ、受け取って?」
ヴェスペルの視線が短剣に吸い寄せられる。
よし、釘付けだ。
私の計算通り、ゲルハルトはすでに入り口のザークレシアの背後、死角に到達している。
あと数センチ。
彼がこの短剣に触れれば、呪いが発動して私の僕に。
もし拒絶しても、その瞬間に愛妻が血祭りにあげられる。
どちらに転んでも、私の勝ち――!
「――断る」
冷徹な声と共に、私の手は乱暴に払いのけられた。
「貴様の薄汚い友好など、ドブ川の悪臭よりも鼻につく」
「ッ……!?」
カラン、と乾いた音を立てて、短剣が石畳に転がる。
見下ろすヴェスペルの瞳にあるのは、侮蔑と絶対的な拒絶。
(……この男、どこまでも私をコケに……)
プライドが焼けるような屈辱。だけど、この反応は想定の範囲内。
愚かな判断をしてしまったことへの絶望に、顔を歪めればいい!
私は顔を上げ、勝利の狂気に満ちた叫び声を上げた。
「やれ!ゲルハルト!!殺してしまえ!!そのクソ女を!!」
ヴェスペルが即座に振り返る。
その視線の先、ザークレシアの背後から、凶刃を構えたゲルハルトが躍り出た。
距離はゼロ。誰も間に合わない。
(死ね!死ね!ヴェスペルの目の前で、絶望に染まって死ねばいい!!)
鮮血が舞う幻覚に、私は恍惚とした笑みを浮かべる。
――だが。
ゲルハルトのナイフは、ザークレシアではなく、隣にいた「護衛の騎士」に向けられていた。
「ちょ!!そっちじゃ――」
ガギィンッ!!ミシミシ……
その騎士は剣を抜き、ゲルハルトの凶刃を受け止める。
そして、空気が凍りつく音が響いた。
「は……?」
目の前の光景に、私の思考が停止する。
騎士は、兜の隙間から青い瞳を光らせ――ゲルハルトを一瞬で氷漬けにしていたのだ。
「な……何やってるのよゲルハルトォォ!!」
なんで!?なんで無防備なザークレシアじゃなくて、強そうな騎士を狙うのよ!?馬鹿なの!?
「使えないジジイ!!もういい!出てきなさいお前たち!!」
私は梁の上、柱の陰に向かって絶叫した。
ゲルハルトの金とコネを使って雇った手練れの暗殺者たち。一斉射撃で、このふざけた状況を終わらせる!!
「全員、皆殺しよ!!放てぇぇぇーーッ!!」
……。
…………シーン。
矢は飛んでこない。
誰も、降りてこない。
ただ、冷たい風が廃教会を吹き抜けるだけ。
「は……?」
静寂。耳が痛くなるほどの静寂。
背筋に、冷たい汗が伝う。
何が起きているの?暗殺者は?私の完璧な計画は?
パニックで呼吸が荒くなる私の耳に、ヴェスペルの底冷えする嘲笑が届いた。
「……ククッ。全く、貴様はどこまでも姑息で、そして救いようのない馬鹿だな」
彼は一歩も動いていない。焦りすらしていない。
まるで、こうなることが最初から分かっていたかのように。
「な、なんで……なんで誰も出てこないのよ!!」
「お前の薄っぺらい脚本など、私の『軍師』が全て看破しているからだ」
ヴェスペルが指を鳴らす。
すると、あろうことか「誰もいないはずの物陰」から――もう一人のザークレシアが姿を現した。
「ごきげんよう、ミリア様」
「えッ!?」
彼女の手には、空になった香水の小瓶が握られている。
「あなたが伏せていた暗殺者の方々なら、もう夢の中ですわ。私の『麻痺香』をたっぷりと吸っていただきましたから」
「は……あ!?じゃ、じゃあ、あそこにいるザークレシアは!?」
私は入り口にいる「ザークレシア」を指差して喚いた。
すると、「彼女」は鬱陶しそうにカツラを剥ぎ取った。
「姉さんに似てるって、よく言われるけど。まさか本当に騙されるなんてね」
現れたのは、ザークレシアによく似た美少年。
「……兜の下で鼻血を堪えるのに必死だったわ」
その隣でゲルハルトを氷漬けにした騎士が兜を脱ぐと、ふわりとコバルトブルーの髪が広がった。
「男で……女……?」
その瞬間、私の脳内で全てが繋がった。
ゲルハルトへの命令は『そのクソ女を殺せ』。
入り口にいたペアは、「女装した少年」と「鎧を着た女」。
呪いの短剣に操られた人形は、外見の偽装など意味をなさない。生命としての『雌雄』を本能で嗅ぎ分け、正確にその場の『女』を狙ったのだ
「あ……あぁ……」
私の命令が、自分の首を絞めた?
私が、馬鹿だったから?操り人形に、「ザークレシア」と正確に命令しなかったから?
ガクガクと膝が震え、その場にへたり込んだ。
手駒は全滅。奥の手も不発。
残ったのは、圧倒的な殺気を放つ「死神」と、全てを見透かしていた「軍師」。
ザークレシアが、憐れむような、けれど氷点下の瞳で私を見下ろす。
「ミリア様。……チェックメイトです」
彼女の冷徹な宣告が、私の終わりを告げる鐘のように響いた。
最後までお読みいただきありがとうございます。
「スカッとした!」「ざまぁ展開が最高!」と思っていただけた方は、 ぜひ★の評価をお願いいたします!
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