第17話 勝利の香りに酔いしれる陰で、狂女は「最悪のシナリオ」を書き換える
【ザークレシア視点】
ノクタリア領を繋ぐ生命線である街道の関所が、突如として閉ざされた。
ゲルハルト財務総監の署名が入った「緊急物資統制令」。
何の前触れもなく発されたその令状について、裏稼業の部下を使って調査を行っていたヴェスペル様は、執務室の机に広げられた地図を忌々しげに指でなぞった。
「表向きは隣国との緊張による安全保障を謳っているが……あまりに杜撰だな」
氷のように冷たい声が、室内の空気を凍らせる。
「ゲルハルト……。『暗い噂のある男だが頭は切れる』、そう評価していたが、奴の頭は急に狂ったのか」
その瞳には、焦りよりも、国の中枢にいながら愚かな判断を下す貴族への、疑念と侮蔑が宿っていた。
ノクタリアの窮地。
しかし、アウルス陛下から届いた密信には、迂回ルートでの支援物資搬送の報があった。それが唯一の希望の光になるはずだった。
バンッ!
荒々しく扉が開き、伝令の騎士が転がり込んでくる。
「大変です!!アウルス陛下からの物資搬送部隊が、傭兵団らしき者から襲撃を受けています!!」
「……ハエ共め。私が出る!魔術師が必要だ。ルズガーナを境界防衛から戻させろ!」
ヴェスペル様が即座に立ち上がり、騎士に指示を飛ばすとともに、漆黒のマントを翻す。
私もまた、反射的に席を立った。
「私も行きます」
「駄目だ。お前はここにいろ」
鋭い眼光が私を制する。けれど、ここで引き下がるわけにはいかない。
「嫌です。閣下の治めるこの地の窮地。黙って見ているなんて、私にはできません」
「……相手はゴブリンでもトロールでもない。人間だ。殺し合いの場なのだぞ」
「覚悟は、出来ています。……それに、私を受け入れてくれたこの地を守るため、閣下と共に立ち、あなたの背中を、私は守りたいのです!!」
私が真っ直ぐに見つめ返すと、彼は数秒の沈黙の後、諦めたように息を吐いた。
「……分かった。ただし、絶対に離れるな」
◇◇
フロースフォンスとノクタリア間の荒れた街道。
かつては主要交易路として整備されていたが、隔てる大河に新しい橋梁が建造されたことで、今ではならず者以外は通らない、死に絶えたルートとなっていた。
だが今、その道には血の匂いが充満している。
迂回ルートを使い、アウルス大公から送られようとした支援物資。
その搬送部隊を執拗に包囲し、なぶり殺しにしようとしている集団がいた。その腕には、忌まわしい『三本傷』のタトゥーが刻まれている。
「……ムジナの頭目が、自ら現れるとはな。ガルド」
馬を降りたヴェスペル様が、低く唸った。
犯罪組織『ムジナの爪』。
連合王国の闇に巣食う者たちであり、アデルが裏金で囲っていた無法者集団をも束ねる、地下世界の元締め的な闇ギルドだ。
「ひひっ、餌に釣られて出てきたなぁ。それもたった二人で」
名を呼ばれ、街道の影から無数の殺気を引き連れて、一人の大男が姿を現した。
ムジナの首魁。その手には、血の滴る曲刀が握られている。
「よくも俺たちの大切な『同業者』を刈り取ってくれたな。お前が死ねば、この国は随分と仕事がしやすくなるんだ」
対するヴェスペル様は、つまらなそうにため息をついた。
「……喋るなら、遺言にしておけ」
圧倒的な強者の余裕と、有無を言わさぬ死の宣告。
その屈辱に、ガルドは顔を真っ赤にして青筋を立てた。
「死ねや、殺せや!!因縁の、ノクタリアの怪物を!!」
ガルドの咆哮に合わせ、木々の影、岩陰、そして輸送馬車の背後から、夥しい数の伏兵が湧き出してきた。
これは、ヴェスペル様を誘い出し、ノクタリアを陥落させるための、輸送路封鎖に合わせた仕組まれた策略だ。
だが、ヴェスペル様は顔色一つ変えなかった。ただ一言。
「……下らん」
彼が一歩前に出る。
その瞬間、彼から溢れ出る空気が一変した。領主としての威厳が消え、肌を焼くような殺気だけが膨れ上がる。
「害獣の分際で、二度と穴倉へは戻れんぞ」
冷徹な宣告。彼は腰の大剣に手をかけ、振り返ることなく私に告げた。
「レシア」
「はい」
「私の背中から絶対に離れるな。……お前に傷がつこうものなら、残忍な私が目覚めてしまう」
低く、甘く、そして深い闇を含んだ囁き。背筋がゾクリと震える。
それは恐怖ではなく、絶対的な守護者に守られているという、抗いがたい高揚感だった。
直後、私を背後に庇うように立つヴェスペル様の漆黒の大剣が、禍々しい赤黒い魔力を纏って唸りを上げた。
一振り。二振り。
ただそれだけで、向かってくる賊達が、文字通り薙ぎ倒されていく。まるで巨大な鎌が、無造作に雑草を刈り取っているかのように。
敵は決して弱くない。
一人ひとりが、正規の騎士に匹敵する動きをしている。けれど――ヴェスペル様の前では、彼らは「敵」ですらなかった。
(……これが、本気の『死神』……)
速い。目で追うことすら困難な剣速。
そこにあるのは、圧倒的な暴力と、芸術的なまでの殺戮。
敵の剣が彼に届くことはなく、彼の赤黒い剣閃だけが確実に命を刈り取っていく。私を守るその背中は、誰をも寄せ付けない、絶対的な死の領域。
だが、敵も数に物を言わせる手練れ。こちらの隙を狙おうと、四方から波状攻撃を仕掛けてくる。私は感傷を振り払い、戦場を俯瞰した。
(ただ守られているだけは嫌だ。私は、彼の隣に立っているのだから)
「閣下、甘い香りには注意してください!」
敵の突撃の出鼻を挫く。腰に下げた魔香薬入りの薬瓶の蓋を開け、しずくを風に乗せる。
――風魔法「囁く霧・スタシス」
風向きを計算に加え、敵の密集地帯へ拡散させる。手足の自由を奪い、思考を泥のように濁らせる「麻痺の毒香」。
「な、なんだこの甘い匂いは……!?」「腕が……上がらねぇ……!?」
前衛の敵が次々と膝をつく。
「クソッ、麻痺毒か!?あの後ろの魔術師を狙え!!」
ガルドの怒号と共に、遠距離から無数の弓矢が私へ向けて放たれた。だが、その矢が私に届くことはない。
「――火球」
私の指先から放たれた灼熱の火球が、空中の矢を焼き払いながら敵の射手部隊へ着弾し、爆発を起こす。
(今!)
私はもう一つの薬瓶から垂らした雫を、風魔法とともにヴェスペル様に吹きかけた。
――風魔法「囁く霧・ヴァルハラ」
私たちの周りにだけ、凛とした、けれど陶酔を誘うような芳香――「戦神の覚醒香」が広がる。
「……ほう」
ヴェスペル様が深くその香りを吸い込んだ瞬間、彼の灰色の瞳が鮮血のように赤く輝いた。
「私の闘争本能を、さらに煽るか。……いい香りだ、レシア」
彼が獰猛な笑みを浮かべる。
私の支援を受けた彼の動きは、もはや人外の領域に達していた。
大剣を一閃するたびに暴風が巻き起こり、敵の陣形が紙屑のように吹き飛んでいく。
私が毒香で動きを止め、火球で退路を断ち、彼が確実に仕留める。私たちは言葉を交わすことなく、阿吽の呼吸で戦場を支配していった。
その時。
「よそ見してんじゃねぇぞ、アマァ!!」
私達の連携の僅かな死角から、地面を這うようにしてガルドが飛びかかってきた。
毒香を躱し、味方を盾にして距離を詰めたのだ。私の隙をつく、鋭い凶刃。
(しまっ……!)
避けられない。そう思った瞬間。
ズバン!!
重い衝撃音と共に、私の目の前でガルドの剣が――いや、巨漢の首魁そのものが、真っ二つに両断されていた。血飛沫が舞う中、返り血一つ浴びていないヴェスペル様が、私の前に立ちはだかっていた。
「――私の女に、近寄るな」
地獄の底から響くような声と共に、残った敵たちが恐怖で武器を取り落とす。
戦いは、終わった。
ヴェスペル様は、救援に来た騎士団に負傷者の救護を指揮した。
「レシア、お前は腕の立つ魔術師だと知っていたが……」
ヴェスペル様は全てを見届けた後、鋭い眼光を私に向けた。
「まさか、私の魂をこれほど奮わせる、軍師の素質もあったとはな」
強引に腰を引き寄せられ、彼の熱い胸板に背中がぶつかる。
戦場の真っ只中、足元には敵が転がっているというのに、彼の瞳には私への独占欲と、隠しきれない情熱が渦巻いていた。
「……我慢の……限界だ」
声が、低く、獣のように掠れた。
血と興奮、そして私の調合した香りに支配された彼の瞳から、理性の色が薄れていく。
「閣下……人が見て……んっ!?」
制止の声は、熱い唇に飲み込まれた。
泥や血に汚れることもいとわず、彼は私を強く抱きしめる。
「お前の香りで、私の内側を上書きさせてくれ……レシア」
はだけた鎖骨に、熱い吐息と、噛み付くような深い口付けが刻まれる。ヴェスペル様の荒い鼓動が、肌を通して私の心臓にまで響いてくる。
騎士たちが、目のやり場に困って背を向けているのが気配で分かる。けれど、死線を越えた高揚感と、戦場での抱擁という背徳感が私の頭を麻痺させ、彼を拒むことなどできなかった。
◇◇
数日後。レギコルディア王城内、ゲルハルト大公の執務室。
「……バカな。あり得ん、こんなことが……!」
常に冷静沈着、王国の頭脳と謳われたゲルハルト大公は、報告を受け、顔を蒼白にさせていた。
それは、彼が囲い餌付けしていた、一国の師団にも相当する手練れたちの「壊滅」という現実。
「地下世界の支配者。それが……たった二人……。たった二人に、壊滅させられたというのか!?」
「うるさいわね、ゲルハルト!何が地下世界の支配者よ?使えないゴミ共だわ!」
ソファに深く沈み、爪の手入れをしていたミリアが金切り声を上げた。
その表情は、かつての愛らしさが嘘のように歪んでいる。
「ミリア様、落ち着いてください。物流を完全に止めた以上、時間は我々の味方――」
「黙りなさいと言っているのよ!!」
ミリアが叫んだ瞬間、彼女の腰に帯びた短剣が、ドクン、と大きく脈打った。
闇から這い出してきたような赤黒い光が、彼女の瞳に伝播するように明滅する。
(……ああ。殺したい。殺したい、殺したい殺したい!!)
呪いの短剣が、彼女の内に渦巻く劣等感と嫉妬を養分にして、どろりとした負の感情を増幅させていく。
ミリアの脳裏には、ヴェスペルの腕の中で誇らしげに微笑むザークレシアの姿が、鮮明な「憎悪の標的」として焼き付いていた。
「あの女ッ。許さない……絶対に、許さないんだから……」
もはや彼女の瞳には、経済制裁も政治的勝利も映っていない。
「もういいわ。アンタなんか」
彼女はゲルハルトを一瞥し、クスクスと不気味に笑い始めた。
「あの男に、自分の手でザークレシアを殺させましょう。一番愛している者に、一番無残な方法で……あはは!そうよ、それこそが、あのお似合いの二人にふさわしい結末だわ!分かりきってたじゃない!!」
ミリアの背後に広がる影が、一瞬、巨大な顎を開けた獣のように見えた。
呪いの短剣に魅入られた令嬢は、自らの魂が削られていることにも気づかず、最愛の男に最愛の女を殺させるという、地獄のシナリオに酔いしれていた。
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