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眠れぬ死神と眠らせの調香師 ――不眠症の辺境伯に拾われた私の甘く危険な夜と、愚者たちに贈る破滅の香り  作者: セキド烏雲


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第16話 捨てた女はあまりに美しく、支配した男はあまりに空っぽだった

 ザクッ……ザクッ……。


 硬く凍りついた土を、錆びついたスコップで掘り起こす音が響く。

 額から滴る汗は、動きを止めれば即座に凍りつき、肌を刺すような痛みに変わる。


 複数の魔族領に接する、人間と魔族の境界を守るエルフ族の国。スクーティア王国。


 巨人族の侵攻に備えるため、果てしなく続く塹壕を掘り続ける私――アデル・フォン・ディケムの視界には、かつての華やかな大公宮の面影など、1ミリも存在していなかった。


「おい!!遅えぞ!!ちんたらやってんじゃねぇ!!」


 バシィンッ!!

 鈍い音と共に、少し離れた場所で作業をしていた男が、現場監督の鞭を浴びて泥の中に転がった。


「ひぃっ!す、すみません……!」

「口答えするな!巨人に踏み潰されたくなきゃ、とっとと手を動かせ!」


 現場監督の容赦ない怒号が、冷たい空気を震わせる。

 私はその光景を横目で見ながら、ただ黙々と土を掘り続けた。


 同情などない。私もあの男のように鞭で打たれ、泥水をすすらされている。

 ここにきて僅か二十日。

 だというのに「元大公世子という肩書きなど、クソの役にも立たない」という現実を、この身体に徹底的に刻み込まれた。


 いつまた、巨人族が地響きを立てて襲撃してくるか分からない。

 その絶望的な緊張感と、この過酷な労働環境は、確実に私の寿命を削り取っていた。


 だが、地獄は昼間だけではない。

 ここに送られてくる者たちは、訳ありの犯罪者やならず者ばかりだ。

 私のような、かつて高貴な家柄にいた「ひ弱でプライドばかり高い男」は、夜になれば慰めの対象となる。


 現場監督からの、暴力に満ちた男色。

 逆らえば殺されるか、最前線の囮にされる。

 あの屈辱と痛みを味わって以来、私は夜に熟睡することすらできなくなった。


(……どうして、こうなってしまった)


 泥にまみれた自分の手を見つめ、ギリッと奥歯を噛み締める。


 後悔。

 ただひたすらに、重く苦しい後悔。


 あの時、あの女――ザークレシアと婚約破棄をしてからだ。

 私の人生が、音を立てて崩壊し始めたのは。


 あの女は、無意識のうちに、私の横領を訂正していた。

 その時、私が自分の愚かさに気づき、改心していれば?あの有能な彼女に嫉妬などせず、手を取り合っていれば?


 今ごろは、次期大公として、温かい玉座でふんぞり返っていたかもしれない。


(……ミリア。あの性悪女に、私はしてやられたのだ)


 今ごろあの女は、持ち前の若さと身体を使って、どこかの権力者にでも寄生しているのだろうか。

 彼女が権力しか見ていないハリボテの女だということくらい、私だって知っていた。

 馬鹿で扱いやすいから、私が「利用してやっている」つもりだったのに。


 その浅はかなプライドのせいで、あの有能で、私を支えてくれていたザークレシアを捨ててしまった。


(……今思えば、ザークレシアの方が、圧倒的に美しかった)


 ミリアの表面だけの安っぽい色気ではない。


 圧倒的な才能と能力に裏付けされた、凛とした美しさ。

 夜着姿で調合をする彼女の横顔や、私を案じてくれていた琥珀色の瞳が、今さらになって鮮明に思い出される。


 あぁ……私は、なんて愚かなのだ。


 極上の宝石を自らどぶに捨て、メッキのガラクタを拾い上げて喜んでいたなんて。


「お前らッ!!今日の作業はここまでだ!!さっさと小屋へ戻れ!」


 ◇◇


 カラン……カラン……。


 ブリキの器が鳴る音。

 配給されたのは、塩分だけが異常に濃く、泥水のように味のしない不味いスープと、石のように硬い黒パン。


 それを無理やり胃の奥へと流し込んだあと、私は這うようにして小屋の隅へと向かった。

 唯一の娯楽。いや、生きていると実感するための、ささやかな逃避。


 ギャンブルだ。


「おい、坊ちゃん。またあんたの勝ちかよ」

「ちっ……今日はついてねぇ」


 私は、知能の低い新入りたちを相手に、イカサマのスゴロクやカードをしていた。

 今まで大公宮の社交界で培ってきた「騙しのテクニック」や「ポーカーフェイス」を使えば、この程度の底辺の連中を丸め込むのは容易い。


 ただし、荒くれ者の古株や、強いやつからは絶対に奪わない。

 一度それでボコボコにされ、殺されかけたからだ。


 狙うのは、右も左も分からない新人や、お人好しの馬鹿だけ。


 だが、そんな姑息な真似をして彼らから巻き上げたところで、得られるのは小汚い数枚の銅貨。

 かつて私が一晩の酒代にしていた金貨の、何千分の一にも満たない、文字通りのはした金だ。


 ふと冷静になった瞬間、強烈な自己嫌悪と惨めさが込み上げ、吐きそうになる。


「おい坊ちゃん、勝ちすぎだろ。イカサマしてんじゃねぇだろうな?」

「いや、そんなことはない。運が良かっただけさ」


 凄む相手に、私は愛想笑いを浮かべて、潔白を示すよう両手を上げてみせる。


「ちくしょう、もう一回だ!もう一回やれば俺は取り返せるはずだ!」

「あぁ、そうだな。お前、今日は『ツキ』があるよ」


 中身のない、下らない下賤な会話。

 小汚い銅貨を賭けて、泥まみれの男たちと作り笑いを浮かべ合う底辺の夜。


 ……もう、分かっているのだ。


 私がいくらこの泥の中で足掻こうが。


 神に許しを乞うて喚こうが。


 今さら彼女の価値に気づき、改心したところで。


 温かく、良い香りのしたあの頃の精彩には――私の人生には、もう二度と、手が届かないのだと。


 消灯の時間。


 薄暗い小屋の外から、巨人のものと思われる地響きが聞こえた。


 私は汚れた毛布を頭から被り、ガタガタと震えながら、ただ絶望の朝が来るのを待つことしかできなかった。


 ◇◇


【ミリア視点】


「……それで?いつになったら動くのよ」


 レクイウム連合王国首都、レギコルディアの王城の奥深く。ゲルハルトの執務室。

 私は苛立ちを隠しきれず、ソファのクッションを叩いた。


『支配の短剣』の従える力は完璧だった。


 ゲルハルトの心は完全に私のものになり、彼は私の言うことなら何でも従う操り人形と化していた。

 王都の最高級のシルクで仕立てられたドレス。異国の珍しい宝飾品。職人が腕によりをかけた極上の化粧品に、希少な花の香水。

 私は彼という「財布」を使い、フロースフォンスでは到底手に入らないような、私という至高の存在を飾るに相応しいすべてのものを手に入れた。


 だが、一つだけ誤算があった。


「ミリア様。……具体的な関税率の引き上げ幅や、凍結する商業ギルドの指定、および法的根拠となる王室法案の起草について、ご指示をいただけますか」


 私の足元で四つん這いになっているゲルハルトが、虚ろな瞳で尋ねてくる。


 そう。この男、心は奪えても、「具体的な指示」を出さないと動かないのだ。


「そんなの、私が知るわけないでしょ!適当に、あの辺境が苦しむようにやりなさいよ!」


 このやり取りが煩わしくて、操り人形の顔をぐりぐりと踏みにじった。


「うぷ……ですから、数値をいただけませんと……」

「ああもうッ!この短剣、欠陥だらけじゃない!!」


 私はゲルハルトを蹴飛ばし、思わず叫んだ。


 経済制裁のやり方なんて、習っていない。専門用語を出されても、興味もなければ理解しようとすら思わない。

 私にあるのは、自分を大公宮から追い出した奴らへの憎悪だけ。


 特にザークレシア。大公宮にいたときから、後輩の癖に優秀ぶって、私のプライドを逆撫でしてばかりいたあのクソ女。

 私の華やかな人生を奪い去ったあいつが、私が味わった以上の屈辱と絶望の中で、無様に死んでくれるなら、細かい指示や手順なんかどうでもいいのだ。


「……仕方ないわね。面倒な手続きはいいわ」


 私は脚を組み、思いつく限りの命令を下した。


「物流よ。フロースフォンスやノクタリアに向かっている、運搬馬車。あれを全部、お前の権限で『強制停止』させなさい」


「……御意。ただちに街道の関所を封鎖させます」


 ゲルハルトは感情のない声で答え立ち上がると、部下へ通達するための書類を書き始めた。


「ふふっ……これでいいわ」


 私は自分の名案に酔いしれた。


 経済の複雑な仕組みなど分からなくても、物理的に「モノ」が届かなくなれば、辺境の領民たちはすぐに飢え、枯れ果てる。


「飢えて、朽ちて、惨めに死になさい。あの女が泥にまみれて死ぬのが楽しみだわ。……あは!もっと壊して。もっと、壊させて……!」


 鏡の中に映る私は、以前のか弱き可憐さを脱ぎ捨て、真実の悦びに輝いている。

 爛々と光るこの瞳こそ、今の私にふさわしい。


 その歓喜に呼応するように、腰の短剣が不吉な色を放ちながら妖しく脈打った気がした。

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