第2話 「おやすみなさい」の一言が、孤独な死神の鎖を解く
【ヴェスペル視点】
頭蓋の裏側に、錆びたナイフを突き立てられているような鈍痛。
それが、俺の日常だった。
この辺境を任された俺を、貴族どもが『死神』と呼ぶのは、あながち間違いではない。
俺に与えられた役割は二つ。
一つは、辺境ノクタリアの統治だ。
国境を跋扈する魔物や野盗が、アウルス大公の平穏な領地へと侵攻せぬよう、防波堤となること。ここはフロースフォンス領の「防衛線」であり、俺はその監視者兼執行者だ。
これが表の役割。
そして二つ目は、領の体制に仇なす反逆者たちを闇に葬ること。
いかなる手段を使っても。
俺はこの汚れ仕事により、数えきれないほどの命を奪ってきた。
肌に染み付いた返り血の臭いと、耳底にこびりつく断末魔。それらは呪いとなって俺の影に潜み、唯一の安息であるはずの「睡眠」を、執拗に食い荒らしていた。
(……クッ、頭が割れそうだ)
廊下を歩くだけで、視界が泥のように歪む。
明日夜には、隣国と通ずる悪徳貴族を排除する任務に発たねばならない。
万全の状態でなければ、死ぬのは俺だ。今夜こそ、少しでも眠らなければならない。
だが、焦れば焦るほど神経は逆撫でされ、殺気だけが空回りする。
これまで、名だたる医者や魔術師に診せてきたが、誰もが厄介な俺の病と瞳に宿る「死」に怯え、匙を投げた。
魔法戦力として採用した、あの不敵なルズガーナでさえも。
『私の魔術は「奪う」ものです。閣下の眠りを「守る」術は持ち合わせておりません』
そう言った彼女が連れてきたのが、あの「婚約破棄された女」だ。
初めから期待などしていない。
無能なら即刻追い出す。今まで、そうしてきたように。
俺は重い足取りで、寝室の扉に手をかけた。
その瞬間。
「……?」
扉の隙間から、不思議な香りが漂ってきた。
花のような甘ったるい媚ではない。
もっと静かで、深く、冷たい……。
そう、フランキンセンスの冷気と、オークモスの深い静寂が溶け合ったような、冬の夜明け前の張り詰めた空気を思わせる清廉な香りだ。
ズキズキと脈打っていたこめかみの熱が、凪いでいくのを感じた。
扉を開けると、揺らめくキャンドルの光の中に、彼女はいた。
ザークレシア、と言ったか。
俺が支給した濃紺のジャケットと銀糸のシャツを、彼女は自身の白いレースの襟と組み合わせ、凛々しく着こなしていた。
闇に沈むガーネットのように、艶やかで深みのある紅の髪。セミロングの毛先がしなやかに揺れる。
琥珀色のその瞳は、俺の殺気に怯えることも、女の武器で媚びることもなく、ただ静かな知性だけを宿して俺を射抜いていた。
一分の隙もない佇まい。己の職能に絶対の自負を持つ者の顔だ。
「準備はできております、閣下」
サイドテーブルには、銀の香炉、暗青色の薬液が満ちた小さな硝子瓶、そして繊細な装飾のピンセットが整然と並べられていた。
「……それが、魔香とやらか」
「はい。閣下の体内に渦巻く魔力の乱れを解きほぐすよう、この香りに特殊な魔力を織り込んであります。どうぞ、横に」
俺は静かにベッドへ腰を下ろす。
体が鉛のように重い。限界だった。
「失礼します」
俺がベッドに横たわると、彼女はためらいもなく俺の顔を覗き込んだ。
長い睫毛。雪のように白い肌。
これから何をされるのかと、反射的に身構えた瞬間、彼女の細い指先が、俺のまぶたに触れようとした。
「――っ」
バシッ!!
反射的に、彼女の手を振り払っていた。
この身に染み付いた防衛本能。それに悪意がなくても、反応してしまう。
ザークレシアは一瞬目を丸くし、そして――
「じっと……なさってください」
囁くような、柔らかい口調の中に、俺の病に向き合う強い意志を感じる。そんな言葉だった。
「あぁ……たのむ」
俺は腕を下げ、ゆっくりと息を吐く。
再び彼女の指が、俺のまぶたへ。
全身の筋肉が鋼のように強張る。
ピクッと、俺の身体は、彼女の柔らかい指先が触れると同時に反応した
その指から流れ込んでくる魔力は、暴力的な俺のそれとは正反対のもの。
柔らかく、緻密で、圧倒的に慈悲深い。
「力を抜いてください。香りの導入を助けるため、眼窩の緊張を解いています」
彼女の声は、雷鳴が鳴り響く俺の脳内から、黒い雲を一枚ずつ剥ぎ取っていくような清涼な息吹だった。
「深く、息を吸って……この香りを、肺の奥まで満たしてください」
「……あぁ」
「吐いて。体の中の淀みを、すべて吐き出すように」
言われるがままに呼吸をする。
吸い込むたびに、清廉な香りが血管の隅々まで洗い流していく。
吐き出すたびに、身体を縛り付けていた呪いの鎖が、音を立てて解けていく。
彼女の細い指が、こめかみから頭頂部へ、一定のリズムを刻んで動く。
その指使いは、絡まり合い、固く結ばれた魔力の糸を、一本一本丁寧に解きほぐしていく神業のようだった。
(なんだ、これは……)
針の穴を通すような繊細さ。
死ななければ治らないと、そう諦めていたこの病を、この呪いを――
彼女の魔力が、悪夢の輪郭を優しく塗り替えていく。
心地いい。
泥の中に沈んでいくような、抗いがたい脱力感。
そして。
俺は今、この女に対し、完全に無防備となっていた。
誰の助けも借りず、ただ孤独に刃を振るってきた俺が。
喉笛をさらけ出し、命を預ける。
本能が警鐘を鳴らす。他人を信じるな、鎧を脱ぐなと。
その情けない恐怖が、せっかく訪れた安眠の予兆を、再び覚醒へと引き戻そうとする。
気づけば俺は、震えていた。
その時だ。
「大丈夫です」
すぐ側で、彼女の声がした。
「私が、ここにいますから」
なぜ、分かるのか。俺の心の中が。
今日会ったばかりの、この華奢な魔術師に。
誰も、自分すらも覗きたくないような、俺の深淵を見透かされている。
胸の奥が、痛い。
熱くて、苦しくて、それでいて、どうしようもなく甘美だ。
こんな感情、知らない。
任務を完遂した達成感でも、敵を討ち取る快感でもない。
もっと本能的な、飢えにも似た渇望。
(俺は、ようやく……見つけたのか)
そう確信した瞬間。
身体の震えは止まっていた。
「おやすみなさい……ヴェスペル閣下」
彼女の囁きが、鼓膜を優しく揺らす。
ふっと。
俺の意識は遠のき、生まれて初めての、温かな静寂へと落ちていった。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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