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眠れぬ死神と眠らせの調香師 ――不眠症の辺境伯に拾われた私の甘く危険な夜と、愚者たちに贈る破滅の香り  作者: セキド烏雲


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第1話 裏切りの夜会で、私は金の輪を捨てた

 その夜会には、甘ったるい香水と、裏切りの匂いが充満していた。


 ガシャン。


 硬質な破壊音が、華やかな夜会の調べを無慈悲に引き裂く。


 床に広がるのは、深紅の染み。


 自ら稼いだ金でようやく仕立てた、無駄な装飾のない純白の夜会服。

 高価なワインが、その裾をゆっくりと緋色に汚していく。


 私の矜持を踏みにじるように。


「また私の成果を奪うのか」


 冷たく嘲るような声に、私は静かに視線を上げた。

 大公世子、アデル・フォン・ディケム殿下。


 豪奢な金髪はシャンデリアの光を吸い、整った顔立ちは憎悪に歪んでいる。

 その腕には、飴色の巻き毛を揺らす少女――ミリアが、怯えたようにしがみついていた。


「奪う、とは?」


 私の声は、驚くほど冷静だった。

 心臓の鼓動一つ、乱れていない。


「私がまとめた関税の協定案の件だ!それを勝手に検閲して勝手に書き換え、自分の手柄にしただろう!」


「あぁ、そのことか」と私は小さくため息をついた。


「手柄ではありません。私は、殿下が間違えられた関税率の数値を『訂正』しただけです。あのまま提出していれば、隣国との協定違反になり、殿下の責任問題になっていましたので」


(そもそも「魔石や香草の取引が絡む協定書だから」と、宮廷魔術師である私に、殿下自身が依頼した案件でしょうに)


 理不尽な吊るし上げに対する矛盾の指摘を、喉の奥へと押し込んだ。


 ざわり、と貴族たちのさざめきが広がる。

 憐れみ、嘲笑、そして好奇の視線。


「……お前はいつもそうだ」


 殿下は吐き捨てるように言った。


「私を立てることを知らない。可愛げのない女だ」


 その言葉を聞いた瞬間、私の心の中で何かがすーっと冷えていった。


(ようやく、本音が出た)


 私に求められていたのは、次期大公妃としての能力でも、共に国を支える知識でもない。

 ただ、彼の自尊心を満たすための「飾り」だったのだ。


「ひどいです、ザークレシア様……」


 ミリア様が大きな瞳に涙を溜め、震える声で訴える。


 相変わらず演技がお上手だ。


 私が書類を訂正していたのを、ミリア様がアデル殿下に耳打ちしたことも、私は知っている。


「殿下はこんなにも、国のために尽くしておられるのに」


 私は悟った。これが、仕組まれた追放の儀式だと。

 そうであるならば、もはや抵抗をする必要はない。


「……すみません」


 私はただひと言、謝罪を口にした。


 ミリア様の口元が、勝ち誇ったように歪む。

 そして、殿下は私の言葉を遮るように首を横に振った。


「もういい」


 先は読める。だけど、この衆目の面前でのその一言が、冷たく私の胸に突き刺さる。


「私は婚約の相手を間違えたようだ。陛下に勧められお前のような下級貴族の出を拾ってやったのに。その恩を全く感じていないな」


「……申し訳――」


「お前の謝罪はもう飽きた。私とお前の婚約は過ちだ。なかったことにしよう」


 国の未来を担う絶対者からの、社会的な死を言い渡すのに等しい宣告。


 そのあまりに無慈悲で、尊厳を踏みにじるような言葉に、会場の空気が凍りつく。


 そして、誰もが私が泣き崩れるか、怒り狂う瞬間を待ち望んでいる。


 そんな視線が孤独な私を滅多刺しにする。


(絶対に泣かない。泣いてやるものか)


 指先が白くなるほど握りしめた。


 視界が滲むが、瞬きを強くして押し戻す。

 喉の奥までせり上がる熱を、冷たい水で押し流すように沈めた。そして――


 私は震える指で左手の薬指から、金の輪を抜き取る。

 冷たい金属が銀盆の上で踊り、乾いた音を立てた。


「承知いたしました。では、私はこれで」


 感情の波が悟られないよう、冷静を装う。

 それが私にできる、唯一の抵抗。

 あまりにあっけない幕切れに、周囲の空気が戸惑いに揺れる。


 殿下もまた、私の反応が予想外だったのか、わずかに眉を寄せた。

 私が泣き崩れたところを、足蹴にするような言葉を用意していたのだろう。


「ま、待て!……。逃げるのか?!……お、お前は、父上の、大公陛下の香薬を担当していただろう」


 アデル殿下の動揺の言葉に、周囲の貴族たちがざわめいた。


 陛下の香薬。


 魔力を香に織り込み、嗅覚を通じて脳の深層に働きかける、魔香薬。


 陛下のご病気に効能のある魔香薬を作れるのは、この大公宮に仕える宮廷魔術師の中で私とミリア様を含めて三人だけ。


 その問いに、私は睫毛を伏せる。


「調合手順書は、私の執務室に置いてありますが――」


 私は常に持ち歩いている羊皮紙のメモを懐から取り出し、殿下に手渡した。


「う……んん?」


 その声音に滲む、かすかな不安。

 そのメモは、殿下からミリア様に、ミリア様からほかの宮廷魔術師へと渡る。


 ざわざわと、ミリア様や宮廷魔術師達が囁き合う。


「その記述のとおりに履行すれば、何も問題はございません。それで、陛下の御身は守られます」


「できそうか?」


 殿下がミリア様に確認を取る。


「こ、この程度なら、問題ありませんわ」


 その言葉を聞いて安心した。


 この大公宮で、唯一の恩人であるアウルス陛下にだけは、ご迷惑をおかけしたくなかったから。


 そのレシピが、私からの最後の手向けだった。


「……失礼いたします」


 今度こそ、私は振り返らない。


 背筋を伸ばし、ドレスの裾を翻して歩き出す。

 背後で、ミリア様や夜会に参加した貴族の囁きが聞こえた。


「仕事を押し付けて逃げるなんて⋯⋯無責任な女ね」

「有能ぶって、アデル様に責任を擦り付けようとしてたの?没落貴族の身分で?」

「陛下に取り入ってアデル殿下との婚約を勝ち取った女よ?ろくな育ち方してないわよ」


 背中に侮蔑の視線と嘲笑を浴びる。


 本当なら、今すぐ両手で顔を覆って、一秒でも早くこの場から逃げ出したかった。


 惨めさに震えそうになる膝を、ありったけの力で叱咤する。


 私がここで俯けば、これまでの私まで嘘になる。煤にまみれて魔術を磨いた日々も、指先を荒らして香りを調合し、陛下と国に尽くした眠れぬ夜も。


 今の私を形作る、仕事への『誇り』だけは、誰にも、一滴たりとも奪わせない。


 私は悲鳴を上げそうな心を氷で閉ざし、一切振り返ることなく、凛と胸を張ってその場を歩み去った。


 ◇◇


 それから一週間。


 私は実家に戻り、最低限の荷物をまとめていた。

 古びた館の中は嵐のようだった。


「大公世子との婚約を破棄されるなど、末代までの恥!お前は何を考えている!」

「高い教育費を払ってきたのよ?!すべて無駄になったじゃない!!」

「跡継ぎは弟だ。お前の部屋は今日から地下室だ!二度と世間にその顔を見せるな!!」


 父の怒声が響き、母はヒステリックに泣き叫ぶ。

 彼らが惜しんでいるのは娘の幸せではない。成り上がりの夢が潰えたことだ。


(私の稼ぎを、酒や賭博で溶かしておいて、よく言う)


 もはや、両親の期待に応えるつもりはない。

 私は夜明け前、書き置き一つを残して家を出た。


 ◇ ◇


 冷たい朝霧の中、私は自由だった。


 行き先は、最果ての辺境。


 魔術学院時代の親友、ルズガーナが以前から誘ってくれていた場所だ。


『シア。こっちに来なよ。うちの雇い主、変人だけど悪い人じゃないから』


 手紙の文面を思い出し、私は空を見上げた。


 大公宮での仕事に、未練がなかったわけではない。

 けれど、自分の魂を削ってまでしがみつく価値は、あそこにはなかった。


 私は、私のために生きよう。

 新しい人生を掴むために。


 辺境への馬車に揺られること、五日間。

 窓の外の景色は、劇的に色を変えていった。


 都市の洗練された街並みは遠ざかり、代わりに広がるのは荒涼とした大地や原生林。


 その先の穏やかな草原を抜けて辿り着いた先は、辺境伯領ノクタリア――通称『死神の領地』。


 この領を治めるのは、ヴェスペル・フォン・サーイェ伯爵。


 その素性の多くは語られていない。


 しかし、「実質の死刑」とまで言われる魔王領へ遠征軍を生き残った男として知られるほか、中央の貴族達からは『死神伯』と呼ばれ、恐れられている。


 そんな男が、なぜ魔術師を探しているのか。

 その理由は分からない。


 ただ、ルズガーナが勧めるくらいだから、そこは地獄の底ではないはずだ。


 ◇◇


 到着した辺境伯の館は、予想以上に禁欲的だった。


 華美な装飾を削ぎ落とし、ただ実用と堅牢さだけを追求した石造りの要塞。

 しかし、その静寂には不思議な品格があった。


 私が馬車を降りると、すぐに一陣の風が駆け寄ってきた。


「シア!!」


 弾むような声と共に、ローズマリーと白樺が混ざる凛々しい香りが私を抱きしめる。


 親友のルズガーナだ。


 コバルトブルーのショートヘアが目を引く彼女は、軍服風のジャケットに銀糸を編み込んだインナーを合わせ、タイトなシルエットを見事に着こなしている。


「ルズ、久しぶり。また格好良くなった」

「もう、手紙を読んだときは心臓が止まるかと思ったよ」


 彼女は私の両肩を掴んだ。深い青の瞳が、じっと私を見つめる。


「まさか、優等生のシアが婚約破棄だなんて。大丈夫だった?泣いてない?落ち込んでない?」


 その言葉に、胸の奥が熱くなる。


「……うん。大丈夫」

「詳しくは後でたっぷり聞かせて」


 ルズガーナは私の手を取り、館の中へと歩き出した。


 石畳を踏む音が、静かに響く。

 その道すがら、彼女はふと、独り言のように呟いた。


「……あの婚約者、シアの『涼しい顔』しか見てなかったんでしょ」

「え?」

「シアは学院時代からそう」


 ルズガーナの声が、少しだけ低くなった。


「誰も観てないところで……必死に足掻く、負けず嫌いの努力の虫。上辺だけしか見られない奴が、『私のシア』の隣に立つ資格なんてない」

「ちょっと!いきなり重いから!」


 久しぶり。この安堵感。

 やっぱりルズガーナは私を見てくれてる。


 私が朝早くから魔術学院の図書館に通っていたこと。

 放課後の調合室で、何度も何度も失敗を重ねていたこと。

「才能がある」と言われる度に悲しくなり、隠れて努力してきたこと。


 張り詰めていた糸が、音を立てて切れた。

 じわり、と視界が熱くなる。


「……っ」


 私は慌てて目元をぬぐった。

 ルズガーナは見て見ぬふりをした。


「ルズもそうじゃん。学院には天才がゴロゴロいたから」

「そうだね。だから私たち、馬鹿みたいに頑張った」


 彼女は笑った。

 その笑顔が、温かい。


 彼女の手の温かさが、私の冷え切った指先にゆっくりと染み込んでいく。


 そう。私は一人じゃない。


 ◇◇


 重厚な黒檀の扉の前で、ルズガーナは足を止めた。

 彼女の表情から、ふと笑みが消える。


「シア」


 真剣な声音。


「一つだけ忠告。閣下、最近すごく機嫌悪いから」

「……機嫌が悪い?」

「不眠症。ずーーっと悩まされてて。ここ最近はすごく酷いの。三日間で一睡もできてないみたい。幻覚も見えはじめてて、かなりヤバいよ」


 三日間。


 頭に蓄積する疲労の澱。魔力の乱れ、そして神経を乱している?


「覚悟しておいてね」

「覚悟って……ちょっと!」


 そう言い捨てると、彼女はノックもそこそこに扉を開け放ち、私の背中を押した。


 その時。


 ヒュンッ!


 空気を裂く音。

 一筋の銀光が、私の視界を横切った。


 ガン!


 硬質な音が背後で弾ける。

 耳元数ミリをかすめ、背後の柱に銀のナイフが深々と突き刺さっていた。


 風圧で髪が揺れる。

 私は瞬き一つせず、前を見た。

「……刺客、じゃないのか」

 執務机の奥、影の中にその男はいた。

 窓から差し込む光が、その姿を照らし出す。


 漆黒の髪。白い肌。

 そして、凍てつくような灰色の瞳。


 目の下に刻まれた濃い隈が、彼の退廃的な美貌をさらに際立たせている。


 シャツのボタンは無造作に開けられ、浮き出た鎖骨に影が落ちる。


 その窪みで、一粒の深紅の宝石が、まるで凝固した血のように妖しく光を放っていた。


 死神伯、ヴェスペル・フォン・サーイェ。


 彼は気だるげに、長い睫毛を持ち上げた。

 その瞳には、殺気と極限の疲労が混ざり合っている。


 数秒の沈黙。そして――


「ルズガーナが話していた……魔術師か」


 値踏みするような視線が、私の肌を刺す。


 私は静かに頷くと、背筋を伸ばしたまま、視線を逸らさなかった。


 ここで怯めば、食い殺される。そう思えた。


 するとやがて、彼の唇が皮肉げに歪んだ。


「……採用だ」

「……はい?」


「悲鳴を上げぬ魔術師は貴重だ」


 低く、甘く、掠れた声。鼓膜ではなく、頭に直接響くような声だった。


「ただし、使えぬと判断すれば切り捨てる。それだけだ」


 彼は手元の書類へ視線を戻す。

 私は一歩、前へ踏み出した。


 肌が粟立つ。

 空気が重い。


 魔術師として培った感覚が、彼から溢れ出る呪いにも似た異常な魔力を感知する。


 沈香の奥に微かなムスクと鉄を潜ませた深く危険な香り。

 暴れる獣を鎖で縛り付けたような、危うさ。


「閣下」


 私は静かに口を開いた。


「不躾ながら……。陛下は不眠症にお困りだ。そうルズガーナから伺いました」


 ペンを走らせる手が止まった。


「その原因。魔力波長の乱調ではありませんか」


 灰色の瞳が、ゆっくりと私を捉える。

 部屋の空気が、一気に重くなった。


「……続けろ」

「閣下の体内に蓄積した『魔力の澱』が、過剰に神経を刺激している状態です。真っ先に催眠魔法を試されたかと思いますが、まったく効果がなかったはずです」


 一呼吸置いて、言葉を続けた。


「乱れた魔力を強制的に放出する荒療治もあります。ですが、閣下のように澱となってこびりついた魔力は、すでに身体の一部と化しています。そこへ外部から魔法をかければ、身体がそれを『攻撃』とみなして激しい拒絶反応を起こしてしまうのです」

「では、どうする」

「鎮静作用のある薬草の香りに、乱調を相殺する魔力を巧妙に織り込むのです。そうすれば、身体は攻撃とみなさず受け入れ、ゆっくりと乱調が整っていくでしょう」

「……香に、魔力を織り込む?」


 彼の眉がわずかに動く。


「はい」


 私はゆっくりと、懐から小さな香袋を取り出した。

 乾燥させた薬草が、布の中で微かに揺れる音がする。


「香りを媒介に、魔力を脳の深部まで届けます。嗅覚は、脳の――感情や記憶、そして睡眠を司る部位に直結していますから」


 沈黙。


 張り詰めた緊張感の中、私は彼の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。

 やがて彼は、ふっと力を抜いて革張りの椅子に背を預けた。


「面白い」


 薄い唇が弧を描く。


「三日……眠れていない。失敗すれば、お前の首を飛ばしてやってもいい」

「……自信はあります」


 強がりなどではない。なぜなら、高名な医者や魔術師たちがこぞって匙を投げたアウルス陛下のご病気も、私の調香と魔術を組み合わせた技術で快方へ導いた実績があるのだから。


 だが、今回対処すべきは、目の前にいる危険極まりない男。死神伯。


 しかし、怖くはない。

 あるのは、高揚感。


 この、壊れかけた人の――


 魔力の乱れ、神経の疲弊、すべてが「眠りたい」と悲鳴を上げているこの人の病に、私なら応えられるかもしれないから。


 私はもう、大公宮で誰かの顔色を伺う必要はない。

 誰かの仕事の後始末をする必要も、笑いたくもないのに笑う必要もない。


 実力勝負。


 こういうスリルは嫌いじゃない。


「では、今夜」


 私は静かに微笑んだ。


「はい。準備して、お待ちしております」


 この美しき死神は、私が眠らせてみせる。

理不尽な婚約破棄を突きつけられたザークレシア。ここから彼女の新しい人生(と、不器用な死神伯との出会い)が始まります!


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