第14話 大公の夜は、狂気によって塗り潰される
レグヌム・クィンクェ・ウニトルム連合王国(通称、レクイウム連合王国)、首都レギコルディア。
フロースフォンスを含む、旧諸王国を包括する大国の夜会は、今夜も煌びやかな熱気に包まれていた。
だが、財務総監を務める大公、ゲルハルトにとって、その喧騒は頭痛の種でしかなかった。
(……ええい、酒が足りん)
彼はグラスを煽り、バトラーからボトルをひったくると、ふらつく足取りで輝きを放つその場から逃げ出した。
夜道を一人歩く彼。
冷たい夜風が、火照った頬を刺す。だが、その胸に空いた穴までは埋めてくれない。
カトリーナ。
先日までその温もりが感じられた、愛人の名が彼の脳裏をよぎる。
美しかった。
あれほどの女、この王都であってもそうそうは居ない。そんな彼女は私の元から去ってしまった。
いずれそうなる。心の中ではそう割り切っていたはずなのに、いざ独りになると、骨身に染みる寂しさがあった。
国の財を預かる権力者であっても、この孤独は埋まらない。
酔いが回っているせいか、浅ましいことばかり考えてしまう。
その時。
熟れすぎた桃のような、キツめのバニラのような香りが鼻をくすぐった。
「……お一人ですかぁ?閣下」
不意に、鈴を転がすような可憐な声がかけられた。
振り返ると、裏路地の影から、夜闇を欺くように煌めく、真珠を思わせる白金のドレスを纏った女が現れた。
華奢で、折れそうなほど細い身体つき。壊れてしまいそうな儚げな風情。
だが、ゲルハルトの老獪な目は、その本質を見抜いていた。
ドレスの裾は埃で汚れ、その爪は欠け、若さにかまけた化粧はところどころ剥がれ落ちてい。さらにらには、下品な香水にすえたような匂いが混じっている。
「誰だ貴様」
軽蔑の視線。それはミリアにとって耐え難い侮蔑の眼差しだった。しかし⋯⋯
「私はぁ、ミリア・エル・バーベナ。東の領地、フロースフォンスのぉ……バーベナ公爵家の次女ですわぁ」
ミリアは媚びるような笑みを浮かべ、距離を詰めようとする。
だが、ゲルハルトは鼻で笑い、冷徹に吐き捨てた。
「近寄るな。腐った果実の匂いがする」
「ッ……!?」
ミリアの笑顔が凍りつく。
「追放されたと噂のバーベナ家の娘だな?噂は中央にも届いている。貴族の皮を被った売女め。貴様のような女が、私の視界に入るなど不愉快だ。失せろ」
酔っていても、腐っても王家の遠縁。プライドの高いゲルハルトにとって、堕ちた彼女など、近寄らせることすら論外だった。
ミリアは唇を噛み締め、屈辱に震える。
だが、ここで引くわけにはいかない。彼女にはもう、後がないのだ。
「……ええ、そうですわ。私は汚れた女……」
彼女は声色を変え、プライドをかなぐり捨てて石畳の上に膝をついた。
そして、すがりつくようにゲルハルトの足に自身の華奢な身体を押し付け、潤んだ瞳で見上げる。
「ですが……寂しい夜には、私のような安い女の方が、都合が良いのではなくて?……どうか、今夜だけ。慈悲をお与えください!何でも、何でもいたしますわ!」
それは、かつての彼女なら、死んでも選ばない道。
復讐を果たすための、なりふり構わぬ捨て身の色仕掛け。
ゲルハルトは蔑みの目で見下ろしていたが、足に伝わる彼女の体温と、必死な形相に、ふと嗜虐的な欲求が湧き上がった。
(カトリーナより随分と劣るが……)
孤独を埋めるための、使い捨ての道具。それならば悪くない。
「……ふん。安いプライドを捨てて、犬のように媚びるか。……いいだろう。その惨めな姿、少しは余興になりそうだ」
◇◇
財務総監の私邸。
ゲルハルトは乱れたベッドの端に腰掛け、シーツで自らの身体を拭いながら、グラスのワインを喉に流し込んでいた。
ミリアを抱いたことなど、既に記憶から消去しているような、無関心な態度。
「……それで?金が欲しいのか?それともパトロンになってほしいのか?」
ゲルハルトが背中越しに尋ねる。
彼の背後から、ギシ、とベッドが軋む音がした。
「いいえ、ゲルハルト様。……ただ、これを見ていただきたくて」
床に剥ぎ取られたドレスが散乱する中、ミリアはシーツを引き寄せることもせず、身を隠すもの一つ纏わないまま、音もなく彼の背後へと這い寄った。
白かったはずの肌には大小無数の赤い痕が残り、その細い首筋には、生々しい紫色の指の痕がくっきりと残され、全身に脂汗が張り付いていた。
だが、彼女は自分の体がどう扱われ、今どう晒されていようと、恥じらう素振りすら一切見せない。
大きく見開かれた瞳孔。ひきつったように吊り上がった口角。
もはや人としての羞恥心も尊厳も欠落した異常な姿で、彼女は氷のように冷たい一本の短剣を両手で握りしめていた。
それは、彼女が大公宮の宝物庫から盗み出した禁断の呪具、『支配の短剣』。
「……なんだ、それは」
「大公家の宝物庫に眠っていた、特別な短剣ですわ。……ゲルハルト様。この冷たい刃で、私の奥深くまで突き刺して……グチャグチャに壊してくださらない?殺してしまっても構わないわ」
ミリアは自らの無防備な肌に鞘を這わせながら、熱に浮かされたような、常軌を逸した甘い声で懇願する。
「何!?ふはは、貴様、とんでもない狂女だな。そのような情戯、嫌いではないぞ」
全裸の女が刃物を差し出してくるという異様な状況。
しかし、ゲルハルトの中で、消えかけていたミリアへの興味が、その猟奇的なオーダーで、歓喜する程に一気に湧き上がった。
「これで、どこを刺してほしいのだ?変態女。腹か?目玉か?それとも……ククク」
嗜虐的な歪んだ笑みを浮かべ、その奇妙な光沢を放つ短剣へと、無警戒に手を伸ばし――
彼はその「柄」を握った。
その瞬間。
ドクン!!
「……が、ぁ……!?」
ゲルハルトの眼球が上を向き、白目を剥いた。
その思考は白く塗りつぶされていく。
カトリーナの顔も、財務の数字も、己の名前さえも。
全てが溶けて、甘い蜜のような「服従」の悦びへと変わっていく。
同時に。
「……ッ、がはッ……!?」
ミリアはその場に崩れ落ち、乱れたシーツの上に胃液をぶちまけた。
心臓を直接鷲掴みにされ、握り潰されるような激痛。魂そのものを啜り上げられるような、おぞましい悪寒。
彼女は床の上で痙攣しながら荒い息を吐き、額から噴き出す冷や汗を、震える腕で乱暴に拭った。
呪具を使用する強烈な代償が、確実に彼女の命を削り取っていた。
だが、ミリアは自分の吐瀉物を見つめた後、ゆっくりと顔を上げた。
床に四つん這いになったゲルハルトの姿を見て、彼女の口元が裂けるように歪む。
「……いかがですかぁ、鬼畜で変態なゲルハルト様ぁ!」
ミリアは剥き出しの身体のまま、ゲルハルトに足蹴りを食らわす。
「……美しい……」
ゲルハルトは全く動じる様子もなく、恍惚な表情を浮かべてミリアを見あげた。
ミリアはベッドに腰掛け、脚を組み、哀れな男を見下ろす。
「……美しい……我が、女王……」
国の財を握る老獪な大公は、もはやよだれを垂らしながらミリアの足元に平伏するだけの、従順な操り人形でしかなくなった。
「ふふっ……あははははッ!そうよ、私が女王!私がすべてを支配するのよ!」
狂ったように高笑いしたミリアは、床に額を擦り付ける空虚な男の頭を、躊躇いなく踏みつけた。
「さあ、馬車馬のように働いてもらうわよ。お前の権力で、あの忌まわしいノクタリアの辺境を経済的に干上がらせてやりなさい!そして全部、あのクソ女、ザークレシアに罪を被せて、私の目の前で処刑してやるのよ!!」
「……御意の、ままに……」
己の命が削り取られていることすら悦びへと変換し、憎悪に狂う女の哄笑が、王都の薄汚れた夜にいつまでも響き渡っていた。
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