11話 運命的な再会
北への道は、血の河のように諸勢力の争いが流れる危険な行程だった。
【バルムスの大街衝】へと続く街道には、鉄錆と硝煙の匂いが朝靄のように立ち込め、死者たちの囁きが風に混じっている。ドムラピエトー要塞の遥か上空を見上げれば、人族たちの営みが蠢く【ドンレッド蛮王国】の影が揺らめいていた。大都市の喧騒に身を潜め、宿と酒場を転々とした。
耳を澄ませば、酔いどれた傭兵たちの戯言から、この地の真実が浮かび上がってくる。
「北東に【蟲迷宮都市ハンブレイン】がある」
薄暗い酒場の片隅で、老いた情報屋が囁いた。
「東のゼルビア山脈に沿って、【竜と蜘蛛の毒森】が広がっている。冒険者どもの墓場さ」
山脈一帯を支配する【ゼルビア皇国】。
その名は、血と鉄の歴史に刻まれた恐怖の象徴だった。
情報を買い集めた。【魔術総武会】の大魔術師ケンダーヴァル――その名を聞くたび、覇王のシックルが憎悪に震える。大商人フクロラウド、吸血鬼ハンターの一団、教皇庁中央神聖教会の影、【闇の枢軸会議】と呼ばれる組織、闇ギルドの【闇の八巨星】、そして魔界王子テーバロンテを崇める邪教【テーバロンテの償い】。
すべてが俺たちを狩る者たちの名だった。
独立都市ヘルキオスへ戻る道すがら、己の変化を実感していた。
【バルムスの大街衝】との間に横たわるエイハブラ平原の道も、地下に広がる大動脈層の洞窟網も、今や掌を指でなぞるように把握している。
次はゼルビア山脈の地下通路か、それともゴルディーバ大砂漠か――次なる行き先を思案した。
大砂漠には豊富にモンスターが生息するという。血の補給には事欠かないだろう。
他の吸血鬼には奇異に映るだろうが、俺は無知な人族を襲うことを厭うようになっていた。
独立都市ヘルキオスと北の大都市を行き交うように過ごすと、今までの時の感覚に変化が起きた。
今までは、砂時計の砂のように指の間から零れ落ち、百年は十年に、十年は一年に圧縮されていた。
永遠という牢獄の中で、人族の一生など蝋燭の炎が風に揺らめく一瞬に過ぎないと、時間感覚は、壊れた時計の針のように意味を失っていたが、不思議なことに、二つの都市を行き来する日々は時間の流れを変えた。
一日が十年のように濃密で、朝市の喧騒も、夕暮れの鐘の音も、
永遠の中で失われていた「生」の実感を取り戻させてくれた。
ミレイ、サルジン、スゥンも、このように過ごしてくれていると嬉しいのだが。
生きているか、死んでいるか、愛した女性と仲間たちの死を考えると、諦念が、鉛のように重く胸を圧迫した。
……ゼルビア山脈の地下通路も覚えるかな。
否、今度は地上のゴルディーバ大砂漠にでも行ってみるか?
大砂漠には豊富にモンスターがいるようだが、水の争いがあると聞く。
血の補給はモンスターで済むと思うが、それほどまでに、豊富にモンスターがいればいいんだがな。
他の吸血鬼には珍しがられるだろうが、少女から老婆へと変わりゆく人族の一生を見守り、そして、エイハブラ平原で助けたエレイザ、孤児院に預けてからも再会をしている。その繋がりを得てから無知な人族の血は、もはや単なる糧ではなくなっていた。
独立都市ヘルキオスの従者長エイサとモモルたちと別れた数十日後――。
古い遺跡と思しき洞窟で、束の間の休息を取った。
氣まぐれに立ち寄ったに過ぎなかったが、なぜかミレイの顔が脳裏に浮かんだ。焚火の揺らめく光が、洞窟の壁に俺の影を踊らせる。覇王のシックルを傍らに置き、俺は静かに目を閉じた。
瞼の裏に浮かぶのは、やはり失われた同胞たちの顔だった。
洞窟の外から、絹糸のように細い魔力の波動が漂ってきた。
それは剣戟の殺氣でも、狩人の悪意でもない。
むしろ古い記憶の底から立ち昇る香のように、俺の魂の最も柔らかい部分に触れてくる――。
この感覚は――まさか! 心臓が跳ね上がる。
違う、きっと勘違いだ。数百年もの間、何度も幻を追いかけてきた。
今度もそうに違いない。だが、もしも――弾かれたように立ち上がり、覇王のシックルを手に取る。
洞窟の入り口へと駆け寄り、息を殺して外の様子を窺う。
月明かりに照らされた岩陰に一人の人影があった。
幻ではなく、確かな存在感を放っていた。
すると、覇王のシックルが激しく脈動し始めた。
こんな反応は、ハルゼルマ要塞陥落の夜以来だ。刃が勝手に白い光に包まれ、まるで何かを感じ取っているかのように輝きを増していく。白焔が包む闇夜剣へと変化こそしないものの、その勢いは尋常ではなかった。父が遺したこの武器が、俺に何を伝えようとしているのか。
人影はフードを目深にかぶり、旅慣れた様子のマントを纏っている。
腰に下げられた剣――
あの柄だ。黒檀に刻まれた〝愛華〟の紋様。
月光を受けて、かすかに光っている。
間違いない。俺たちの魔剣だ。心臓が激しく脈打った。
「ミレイ?」
声にならない呟きが、唇から零れ落ちた。
夢の中で何度も呼んだ名前。幻を追いかけて失望した無数の夜。
シックルが、彼女の血と共鳴するようにわずかに熱を帯びて震えている。
そして、あの剣からも、わずかにだが、呼応するような波動を感じる……。
人影がゆっくりとこちらを向いた。
フードの奥から覗く瞳が、月光を反射して鋭く光る。その視線が俺を捉えた瞬間、時間が凍りついたかのように感じられた。
「え……?」
掠れた、しかし聞き間違えるはずのない声。
フードがゆっくりと外され、現れた顔。
月光に照らされた面影。
数百年の時を経てなお変わらぬ凛とした佇まい。
そして何より、あの瞳の奥に宿る魂の輝き――それは、数百年という時を経てもなお、俺の記憶の中に鮮やかに焼き付いていた顔だった。かつてハルゼルマ家で共に戦い、愛し合った女性、ミレイ。
その瞳の奥に宿る光は、俺が知るミレイのものだった。
「ミ……レイ?」
掠れた声は己のものとは思えないほど震えていた。
「……本当に、お前なのか?」
数百年分の感情が決壊した堤防のように溢れ出し、俺の中で激流となって渦巻いた。
これは夢なのか、それとも俺の狂氣が見せる幻なのか。
喉の奥で言葉が結晶となって砕け、足は大地に根を下ろした古木のように一歩も動かない。
自然と彼女が腰に下げた剣へと吸い寄せられた。
あの柄だ。黒檀に刻まれた〝愛華〟の紋様が、月光を浴びてかすかに光っている。
双月の下で交わした誓い、あの夜の記憶が鮮明に甦った。
言葉にならない感情が堰を切って溢れ出し、ただ互いを見つめ合う。
幻ではない。信じがたいが、本当にミレイなのだ。
永い時間、痛切に想い続けた末に訪れた夢のような現実に、再会の喜びが熱となって血管を駆け巡る。言葉を失い、ただ互いを見つめ合った。
ここまでに至る、永い時間、痛切に想いを抱き続けた末の、夢のような現実、その再会の喜びが血管を満たすように……言葉にならない感情が沈黙の中を交錯していく。
やがて、ミレイが震える唇を開いた。
「ウタジ……」
ミレイの声が震えている。数百年ぶりに聞く、俺の名前。
彼女の口から出ると、まるで魔法の言葉のように響く。
「生きていたのね……」
その瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。
俺の持つ覇王のシックルに氣付くと、微笑んだ。
一歩、また一歩とミレイに近づき、震える手でミレイの頬に触れた。
「あぁ、生きていたさ、ハハ、そして、お前も……な。その魔剣も……あの時のままだ」
「うん……」
ミレイは俺の指に己の頬を摺り寄せるように頭部を寄せた。
昔を思い出す……ミレイ……。
そして、ミレイは自らの剣の柄にそっと手を触れた。
「この子だけが、ずっと……あの時間、あの日々を繋ぎとめてくれていた……〝血ノ旭影〟……あなたが、名付けてくれた」
その名を口にした刹那――。
〝血ノ旭影〟の刀身が淡く光り、夜明けのような淡い紅と金に輝く。
覚えていてくれたのか血ノ旭影、魔剣は、俺たちの絆を、ずっと……。
ミレイとの間に流れる<血魔力>がわずかに共鳴する。
数百年ぶりの再会――。
それはあまりにも長く、そして過酷な孤独の果てに訪れた、まさに奇跡のような瞬間だった。
近くの廃墟に身を寄せ、互いの空白の時間を語り合った。
「あの夜から、ずっと……」
ミレイの声は掠れていた。
俺と同じように、彼女も長い孤独を生きてきた。
互いの空白の時間を語り合う。
数百年分の痛み、絶望、そして諦めかけた希望。
言葉にならない理解が、ミレイとの間を流れていく。
ミレイは、ハルゼルマ家壊滅後、俺が死んだものと思い込み、絶望の中で放浪を続けていた、互いの傷を語り合う。
「ウタジが死んだと思って、何度も死のうとした」
ミレイの告白に胸が詰まる。
俺だけじゃなかった。彼女も同じ絶望を味わっていた。
二人で支え合っていれば、もっと楽だったのに。
追っ手から逃れ、時には魔傭兵、冒険者として糊口をしのぎ、孤独に力を求めたこともあった。彼女もまた壮絶な年月を生きてきた。
そのミレイに、最も聞きたかったことを、
「サルジンとスゥンのことは?」
「うん、数十年ほど前になるかしら。地下都市ゴレアで噂を幾つか聞いた」
ゴレア――ダークエルフの都市。
行ったことはないが、比較的自由な場所だと聞く。
「地下都市ゴレアか、ダークエルフの魔導貴族が支配する……」
「そう、【第十位魔導貴族ビカマイセン家】は、結構自由なのよ、人族も殺されずにいるし、ドワーフ、ノーム、キュイズナーも受け入れている」
「それは驚きだ」
「うん、そこで、赤髪の吸血鬼に、頭が禿げた吸血鬼たちを含めた墓掘り人たちがソレグレン派の遺跡を知る元ダークエルフの吸血鬼の下で活動している噂を聞いたの」
心臓が跳ね上がった。
生きていた、赤髪といえばサルジン、禿頭といえばスゥン。間違いない。
「本当に? 確かな情報なのか?」
「うん、わたしも最初はただの噂だと思ったけど、その後、地上で言うと、南マハハイム地方に移動したという噂も聞いたの」
……生きていた、胸に熱いものが込み上げる。
サルジン、スゥン――あの二人が、この過酷な世界で生き延びている。
メイラスの最後の言葉は嘘じゃなかった。
よかった……本当に……サルジンの笑い声は今も記憶の奥で反響している――太陽のような、あの快活な響き。
そして禿げ頭のスゥン。月光のような輝きを放つ額に、冷静だが、内に正義の炎を宿していた。
人族の血を厭い、同胞からは異端視されながらも、その哲学を曲げなかった。
切れ者の眼光は、俺の詭弁さえも見透かしていた。
二人の顔が鮮明に蘇る。あの頃は、毎日が騒がしくて楽しかった。
強い奴らだ、簡単に死ぬわけないとは思っていた。
また四人で語り合える日が来るのだろうか。
強い安堵感を得た。
「南マハハイム地方か。たしか、サルジンの故郷、オッペーハイマンだったな。吸血鬼ハンターに追われていたとか、何回か話には聞いていた地上の名だ。実は、そこを目指した時があった」
ミレイは静かに頷いた。
「でも、たぶんだけど、もう、彼らは私たちが死んだと思っている。そして、墓掘り人って名前もあるように、新しい仲間と生きる場所を見つけている」
その声には、安堵と、そして一抹の寂しさが滲んでいた。
「……生きていた、それだけでも良かったよ、この広大な地上と地下だからな」
安堵と喜びで声が詰まる。
ミレイはそんな俺の手をそっと握った。
「うん……だから、私たちも……」
その言葉にミレイを見つめ返す。
ミレイの手の温もりは、永劫の冬を越えて咲いた一輪の花のようだった。
失われたと思っていた絆という名の糸が、見えない織機で再び紡がれ始める。
ミレイと語り合い、寄り添い、かつての恋人同士としての時間。互いの傷を舐めあい、孤独を癒し、時には、月明かりの下で〝血ノ旭影〟を手に取り、あの夜明け前に交わした誓いの言葉――。
『魔剣には、俺とミレイの血と魂が入った。更に、夜明けの旭日のように未来を照らす希望の光も……その輝きと、決して消えることのない絆の影を宿す魔剣だ。この魔剣がお前を守り、俺たちの未来を切り開く、その誓いの証しとして……』
その言葉を俺が語り、ミレイが静かに涙ぐむこともあった。
〝血ノ旭影〟から光の花弁が舞い散る。
過去の記憶――共に戦った日々、交わした約束、失った時間。
そして未来への希望――四人で暮らす夢、平和な日々への憧れ。
魔剣が、俺たちの絆そのものだったんだ。
――何度も抱き合い、逢瀬を重ねる。
失われた時間を取り戻すように。俺たちの<血魔力>が共鳴し、心が一つになっていく。
この幸せが永遠に続けばいいのに。だが、そんな甘い夢は見られない。
俺たちの悲しみと吸血鬼としての矜持と<血魔力>が合わさって様々に共鳴が起きていた。
月明かりが二人の影を優しく包む中、ささやきが夜気に溶けていく。
「今度こそ、四人で――」
「小さな家でいい。窓から月が見えれば」
「毎晩、琵琶を。あの頃のように」
ささやかな夢。だが、それが一番の贅沢に思えた。
サルジンたちとの再会、ハルゼルマ家の再興、そしてケンダーヴァルへの復讐……。
――逃亡から300年目――
人族なら十五世代。帝国が滅び、新しい王朝が生まれている。
俺が愛したミレイの記憶だけが、変わらずここにある。
時間は俺の敵か、味方か。
数百年ぶりに、心に確かな光が灯った。
絶望に慣れきった心が、希望という感情を思い出そうとしている。
ミレイの温もり、失われた絆の重み――それらが俺の中で蘇り、血を熱くしていく。
ミレイが音を耳にして、寝台から上半身を起こす。
地上の明るさが差す穴を見ながら――。
〝血魂の琵琶〟の四本の弦は『血』『影』『月』『魂』の四相に調律をしていく。
覇王のシックルの撥で、音を確認する。撥は血魔力とシックルから生成したフィラメント状の金属――まるで運命の糸を紡ぐ蜘蛛の糸のように細く、しかし断ち切れぬほど強靭だ。
そして、ミレイは氣付いた。そのミレイに、
「すまん、起こしたか」
振り向くと、ミレイは体を震わせ、「あん、あ――ううん、大丈夫、それより、また聴かせて」と、言いながら、乱れた衣を慌てて引き寄せた。閨の後の気怠い空気が、彼女の吐息を甘くしていた。それに気づかぬふりをした。
「あぁ、では――」
と、右手の爪を『月』の弦に深く食い込ませた。
低く響く振動は即座に『魂』の弦へと伝わり、琵琶全体を震わせる。覇王のシックルの撥で『月』の弦を連続で弾きながら、左手で『魂』の弦を緩やかに揺らす。続けて『月』の弦を、指先で転がすように繊細に爪弾く。それに合わせ、左手で『魂』の弦を細やかに心の震えを映すかのように揺らした。
琵琶の音色は、月光が水面に落として作る波紋のように広がった。
それは耳で聴くものではなく、魂が直接呑み込む甘美な毒のように俺たちの内なる傷口に沁みていく。
『月魂の調べ』――魂に直接語りかける音色。
ミレイの瞳が潤む。数百年ぶりに、この旋律を、この想いを分かち合える相手がいる。孤独な演奏ばかりだった日々を思うと胸の奥が熱くなった。
彼女は〝血魂の琵琶〟の音色に心を委ねるように、静かに目を閉じて聴き入っていた。
音楽とは、やはり誰かと分かち合うためにあるのだ。孤独な演奏ばかりだった日々を思うと、胸が詰まる。
言葉は不要だった。
二つの影が一つに溶け合い、失われた時間を埋めるように魂と魂が絡み合う。
廃墟の壁に映る影絵は、まるで一対の蝶が舞うようだった。
そして夜明けが近づく頃、ようやく未来を語る言葉を取り戻した。
数百年の孤独という名の海を漂流し、ようやく辿り着いた小さな島。
明日にはまた波に呑まれるかもしれない。
それでも――いや、だからこそ――この瞬間に永遠を見出したかった。
朝露のように儚く、けれど確かにここにある、この奇跡を。




