第八章 母の鍵
兄はソファに座らず、壁ぎわの本棚の前に立って、背表紙を端から見ていった。
「立派だな」
私は机の向こうに座った。机の隅に卓上の暦が立ててある。台紙が反って、十月の面が少し斜めを向いていた。
「母さんは」
兄は本棚から手を離した。顔の動き方が三段あった。笑いかけたところで止まり、頬が下がり、口が開いたまま塞がらなくなる。
「……七年前だ」
「七年前」
「秋のはじめだ。俺が仕事に出てて、家に一人でいて、上から落ちた」
私は机の端に手を置いた。手のひらの下に、届いたままの封筒が一つある。指が封の折り目を撫でていた。撫でていることに気がついて、手を膝に下ろした。
「お前が死んだって、俺が言ったからだ」と兄は言った。「言ってから、母さんは泣いてばっかりで、そのうち痩せて、起きられない日が増えた。医者は歳だって言ってた。落ちたのは、それからだ」
窓の外で、ビルの給水の音が始まって、止まった。
私はその三つを、兄の言った順に並べ直した。私が消えたこと、母が信じたこと、落ちたこと。三つのあいだにある線は、兄が引いたものだ。私は引き直す材料を持っていない。
内線が鳴った。四時からの相談の確認だ。私は受話器を取り、十五分だけ遅らせてほしいと伝えて、置いた。声の高さは、いつもの仕事の高さから動いていない。
母の顔を最後に見たのは、九年前の秋だ。玄関で靴を履いている私の背中に、母は、次はいつ帰るの、と訊いた。答えた日付を、私はその年のうちに守らなかった。手紙も、電話も、出していない。書類の上で死んでいない人間が、あの家の中では死んでいる。その長さを、兄はいま七年と言った。私の側から数えれば九年になる。
兄は布の手提げを膝に載せ、中をかき回して、小さなものを出した。
「これ、持ってきた」
鍵が一本。頭の部分の塗りが剥げて、地の金が出ている。輪も紐もついていない。
十二年前に封筒で寮へ届いたものと、頭の形が同じだ。あのときは新しくて、指でつまむと角が立っていた。角はもうない。
「家のは、次の年に銀行に取られた。競売だ。出るときに、母さんの使ってたのだけ抜いてきた」
兄はそれを机に置いた。私は取らない。鍵は暦の台の横に、少し斜めになって残った。
「どうやってここを」
「昔いた場所の人に頼んで、戸田修って名前を調べてもらった。この市にいるって出た」
「誰に」
「名前は言えない。そういう人だ」
兄は言ってから、私の顔を見て、少し体を引いた。
「それで来てみて、駅裏の古いほうの店で訊いたら、あの人なら会社に入ったって言われて、栄都の名前が出た。栄都で訊いたら、弁護士の先生だって。あとは、そこの紙だ」
兄は事務所の案内を布の手提げから出した。表に私の写真がある。角が折れて、雨に濡れた跡があった。
「ほかに、この紙を見せた相手は」
「いない」
「調べてもらった人には」
「名前は出してない。戸田修を探してるって言っただけだ」
私は暦の台紙の反りを指で押した。押すと平らになり、離すとまた戻る。
四時十五分から、私は予定どおり相談を受けた。相手は隣町の工務店の人で、下請けに出した分の請求が三か月止まっているという話だ。私は日付と金額を聞き取り、請求書の控えを次回までに揃えてくださいと伝えた。話しているあいだ、鍵は暦の台の横にあった。兄は事務所の下のうどん屋で待っている。
*
その週のうちに、私は総務へ人を一人増やす紙を回した。
現場の倉庫で、資材の受け渡しの記録を取る名目。月に二十五万。別に生活の分を渡し、住むところは会社が借りている古い社宅の一室にした。名札は総務が作る。透明の札に紙を差し込む型で、紙には倉庫と、真壁と、番号が印刷してあった。私はそれを封筒に入れて兄に渡した。
仕事の中身がないことは、三田村が最初の週に気づいたはずだ。三田村は何も言わずに、名札の番号を自分の名簿に書き足した。
私がそうしたのは、兄をどこに置けば毎日誰かの目に入るかを考えたからだ。目の届く場所に置き、金は私の側から出す。出所を一つにしておけば、止めたときに効く。
電話が来たのは六週目だ。
「先生。先月の精算に、按摩の領収書が二十枚あります。金額が揃いすぎていて、経理が止めました」
「私のほうで処理します」
「それと」
三田村は少し間を置いた。
「先生、あの人を現場から外せませんか。作業が止まっています」
「止まるというのは」
「昼のあと、五、六人つれて出ていきます。戻るのは三時過ぎで、それから二時間は使いものになりません。今日は、自分が止めたら、弟が社長みたいなもんだから口を出すな、と」
「弟」
「……そう言っています」
「私に兄はいません」
受話口の向こうが静かになった。
「四時に行きます。それまで見ていてください」
「わかりました」
*
着いたのは四時を少し回ったころだ。
現場は前の年より広くなっている。囲いの内側で土の色が二種類に分かれ、手前の区画では基礎の型枠が組み上がり、奥の区画はまだ掘っている途中だった。ダンプが出るたびに、門の前の道に土が薄く残る。
門のところで、兄が七、八人を後ろに従えて立っていた。三田村が正面に立ち、手を広げて道を塞いでいる。兄の声が門の外まで届いていた。
「おい、どけよ。俺は永瀬先生の兄貴だぞ。お前、俺を止めて明日から飯が食えると思ってんのか」
私は車を降りて、まっすぐ歩いた。兄が私を見て、後ろに半歩下がった。
私は兄の上着の肘の上を掴んだ。それから、集まっている顔のほうを向いた。
「真壁さん。名札は今日で返してください」
兄の口が動いた。何も出てこない。
「この方は倉庫の記録係で、それ以上のものではありません。私の身内ではない。私に身内はいません」
誰も何も言わなかった。私は三田村を見た。
「今日までの出面は、全部つけてください。明日からの手配は、こちらで組み直します」
「はい」
工事の音は止まっていない。奥の区画で掘削機の腕が上がって下がり、鉄の板の上をダンプが渡るたびに、地面が短く鳴る。囲いの内側の音は、門の前の話にいっさい反応しなかった。
私は兄の肘を掴んだまま、車まで歩いた。門のところで一度だけ、後ろで誰かが低く笑う。誰かはわからない。
*
車は、現場から幹線に出て、信号を四つ越えた。
この人が台所の床を拭いたのは九年前だ。雑巾を絞る手つきに迷いがなかったことを、私は憶えている。いま助手席にいるのは、爪に土の入った四十前の男で、上着の肩が片方だけ汚れている。社宅の布団を一度も干していないのだろうと思った。
兄は、はじめのうち前を見ていた。それから、窓の外を見るようにして話しはじめた。
「あいつらが疲れてたんだよ。息抜きさせただけだ。だいたい、俺を外したら、あの倉庫は誰が見るんだ」
私は答えなかった。
「なあ。現場が嫌なら、別のとこでいい。事務所の下働きでもいい。おい、聞いてるか」
信号が赤になった。私はブレーキを踏んだ。
「直人」
その呼び方が、助手席から来た。
「お前、いい車に乗ってるな。事務所もでかい。さっきの若いのも、みんなお前の言うことを聞く」
信号が変わった。私は発進させた。
「あのとき俺が運ばなかったら、いまの暮らしはなかっただろ」
私はウィンカーを出して、左の車線に移った。
「はっきり言うぞ。五千万くれ。もらったら、俺は消える。どこにも出ない」
「五千万」
「戸田が地面のどこに入ってるか、知ってるのは俺だけだ。俺が警察に行けば、警察は掘る。掘って出れば、七年前も九年前も、全部お前だ。いくら偉くなっても、そこは変わらない」
兄はシートベルトを両手で握っていた。握ったまま、体をこちらへ向けている。
兄が言っているのは脅しの条件であって、金額の根拠ではない。私の手元に五千万があるかどうかを、兄は知らない。事務所も、車も、借りている物と借りた金でできている。それでも条件は条件として成り立つ。払える相手かどうかを決めるのは、この場合、払えと言う側だ。
私は路肩に寄せて、停めた。ハザードのスイッチを押す。後ろから来た車が一台、避けて過ぎていった。




