第九章 倉庫の外
「わかった」と私は言った。
兄がこちらを向いた。握っていたシートベルトから手が離れる。
「わかったって、出すのか」
「一度に五千万は動かせません。用意する順番があります」
「いつだ」
「今日と明日で組みます」
兄は背もたれに体を戻して、前を見た。それから二度、手のひらを膝でこすった。汗を拭いたのだと思う。
「悪く思うなよ。俺だって、こんなこと言いたかない」
兄は五千万と言ったが、受け取る方法を言わなかった。口座も、現金の渡し方も、いつまでにという線も出てこない。条件を出す側は、たいていそこまで考えていない。
私は車を出して、二百メートルほど先の空き地に寄せた。
「電話を一本します。降りてください」
「ここでか」
「金の話です。あなたの前ではしません」
空き地の端に自動販売機が二台並んでいた。
片方は灯りが消えている。釣銭口のまわりの塗りが擦れて、下の金属が楕円に出ていた。指を入れて確かめる癖のついた人間が、何年か通った跡だ。私はそこにもたれて、番号を押した。
「榎本さん。人を一人、今日中に預かってほしい。現場の倉庫で」
「一人なら、二人で足ります。何時ですか」
「これから連れていきます。場所を一つ、聞き出してください。山の名と、位置です。本人は言いたがりません」
受話口の向こうで、車の鍵を取る音がした。
「先生。それは、会社の話ですか」
「私の話です」
榎本は、わかりました、とだけ言って切った。倉庫まで車で十五分、日没まで一時間と少しある。
私は販売機で缶の茶を一本買った。釣銭は出てこない。楕円の擦れの下に指を入れて、探って、それきりにした。
車に戻ると、兄が助手席の窓を下ろして待っていた。
「話はついたか」
「倉庫まで乗ってください。人と会ってもらいます」
*
倉庫は、旧い工場の宿舎に隣り合って建っている。
私が着いたときには、榎本の車がすでに壁際に停まっていた。私は少し離れたところに停めて、エンジンを切った。日が落ちかけて、囲いの向こうのクレーンの腕が黒くなっている。現場の人間は、夕方のうちに全員が出ていた。
三時間ほど、私は運転席にいた。
そのあいだにできたことは、いくつかある。五千万は、事務所の敷金と車と、黒瀬に立て替えてもらう分を足せば、形にならないこともない。九年前の件を自分のほうから届け出る道も、まだ閉じてはいない。閉じていないことは、その三時間、ずっとわかっていた。
九年前の台所でも、私は同じ種類の紙を頭の中に並べている。違うのは、あのとき私は包丁を先に掴んでいて、今日は何も掴んでいないことだ。何も掴まないまま、私は座席を倒さずに座り、扉を見ていた。
途中で一度、事務所から電話が来た。明日の期日の確認だ。私は明日の時間と、持っていく書類の名を答えて切った。声の高さは動かなかった。
扉が開いて、榎本が出てきた。歩いてきて、窓の横に立つ。
「場所は聞いた。まだ行ってない」
「聞いてきます」
「自分で聞いたほうがいい。俺が言うと、一遍、言葉が減る」
私は降りた。
倉庫の中は、外より暗かった。
合板と、油と、湿った紙の匂いがする。奥の棚に番線の束が積んであり、その手前の床だけ、人の動いた分だけ埃が薄い。天井近くの窓から入る光が、その帯の上で切れていた。
兄は床に座らされていて、手首が前で縛られている。上着はない。口の端が切れて、顎に乾いた筋がついていた。床に吐いた跡があり、その上に段ボールが一枚かぶせてある。男が二人、少し離れて立っていた。
私を見ると、兄は膝で二十センチほど前に出た。
「直人。直人、悪かった。金はいらない。いらないから」
「場所を」
「山の上だ。うちの、祖母さんの墓の脇。北向きの斜面の、松の切り株があるところ。そこから三歩だ。三メートル掘った」
「間違いないですか」
「間違いない。俺が掘ったんだ。あのとき俺が運ばなかったら、いまの暮らしはなかっただろ」
私は兄の顔を見ていた。
「場所は言った。もう帰してくれよ」
返事をしなかった。兄の目の動きが三度変わった。私を探す動き、私の後ろの男たちを探す動き、それから、どこも探さなくなる動き。
私は背を向けて、扉のほうへ歩いた。後ろで兄が私の名を二度呼んだ。呼んだのは、母がつけたほうの名だ。
*
外に出ると、風が出ていた。
囲いのシートが鳴り、その向こうで信号の色が変わるのが見える。道路のほうから、帰りのバスの音が一度通った。倉庫の扉は、私が出たあと、内側から閉められている。
榎本が扉の横で煙草を消した。私はその前に立って、言った。
「終わりにしてください」
榎本は私の顔を見た。それから、倉庫の壁の高いところにある窓を見た。
「永瀬。社長にはどこまで話してある」
「まだ何も」
「あの人は、あんたの昔を知らないな」
「知りません」
「知らないまま、俺が持つことになる。それでいいか」
「いいです」
榎本は頷いて、煙草の吸殻を携帯の灰入れに落とした。それから扉に手をかける。押し方は、朝に会社の玄関を開けるときと同じだ。
車に戻った。窓を開けた。榎本の部下が倉庫の扉を閉めた。
聞こえたのは、板を平らに叩くような音が二度と、そのあとの、長い何もない時間だ。缶の茶は運転席のドアのポケットに入れたままで、ぬるくなっていた。
*
九時前に、榎本が出てきた。
「終わりました」
「はい」
「置く場所は」
「三田村さんに話します」
私はその場で三田村にかけた。二度目で出た。声に、寝ていた気配はない。
「明日の朝、一期の基礎の件で寄ります。今夜、倉庫の南の側に車が入ります。警備には、資材の追加搬入で通してください」
受話口の向こうで、椅子が動く音がした。それから、何が入るのか、と三田村は訊いた。
「明日、私が話します。三田村さん、今夜は現場に来ないでください」
しばらく間があった。
「わかりました」
*
四日後に、榎本から電話があった。
「行ってきた。二人で、車で往復した。あったよ、あんたの言ったところに」
「はい」
「終わってます。あとに残るものは、こっちで処理した」
「ありがとうございます」
「一つだけ言っておく。俺が知ってるのは、今日行った場所と、倉庫の日だけだ。その前のことは知らん。知らんままにしておく」
電話が切れた。私は受話器を置いて、机の上の書類の山を一つ寄せた。
残ったものが全部消えたわけではない。倉庫の日には、榎本と、その部下が二人いる。山へは二人が車で往復している。三田村は今夜が何の夜だったかを知り、明日から記録を触る。私が一人減らしたのは勒索する人間であって、知っている人間ではない。数は、増えた。
*
翌朝、私は現場の事務所に入った。
現場は昨日と同じ順番で動いている。七時半に人が入り、八時に朝礼があり、八時十五分から重機が動く。南の側の地面には、夜のうちに均された跡があった。均したのが誰かを、私は訊かなかった。
三田村は先に来ていて、机に図面を広げていた。目の下が黒い。私が入ると、立ち上がって、扉を閉めた。
「先生」
「座ってください」
三田村の机には、昨日の朝礼の出席簿がそのまま載っていた。昨日の欄には、倉庫の係の名前も入っている。三田村はそれを見ないようにしていた。見ないようにしていることのほうが、見るよりわかりやすい。
私は鞄から、倉庫の出面の記録と、名札の管理簿と、先月の搬入の控えを出して、机に並べた。
「真壁は、先週で辞めています。退職の日付はここです。社宅の鍵は返却済み。最後の給与は、口座に振り込まないでください。現金の受領で処理します」
「……受け取る人が」
「受領の欄は空けたままで結構です。監査で訊かれたら、本人と連絡がつかないと答えてください」
三田村は並んだ紙を見ていた。手はまだ動かない。
「昨日の夜のことを、誰かに訊かれたら」
「知らないと答えてください。実際、あなたは見ていません」
「見ていません。けど、車は通しました」
「通したのは資材です。伝票はこれから作ります」
私は三枚目の紙を、三田村のほうへ回した。
「三田村さん。あなたがやるのは、記録を合わせることと、人を近づけないことです。それ以外は何もしないでください。訊かれたら、私が言ったことだけを言ってください」
三田村はヘルメットを持ち上げて、また机に戻した。
「……わかりました」




