第十章 基礎の下
年が明けて、現場は北の区画に移った。
一期の棟はもう立ち上がって、足場の外にシートが掛かっている。掘っているのは、その向こうの二期の側だ。
二月の、日の落ちた時間に、私は黒瀬と現場へ寄った。翌週の引渡しの前検査の段取りを、三田村と三人で確かめるためだ。一期の引渡しは三月で、内覧の日取りが先に決まっている。その日取りに間に合わせるため、二期の掘り方は夜も動いていた。投光器が二基、縁に向けて立ててある。
事務所のプレハブを出て、囲いの内側を歩いていると、後ろから呼ばれた。
「先生。社長」
作業着の男が、両手に何かを抱えて立っていた。四十ぐらいに見える。ヘルメットの縁に、赤いテープが巻いてあった。
「この分、使えません。いったん止めて、確かめてください」
男は抱えていたものを地面に置いた。継ぎ手の金物だ。
「書類は見ました。検収は通っています」
「先生、書類じゃわからない。現物を見てくれ」
私は屈んで、一つ手に取った。表面に粉が浮いて、指の腹に赤く移る。重さは、私にはわからない。
「あなたの名前を」
「杉浦です」
「杉浦さん。搬入の日付と、どの棟の分かを書いてください。明日、取り替えの手配を出します」
嘘ではなかった。書式は私が作ったもので、合格にしない理由は、私がいちばん多く知っている。その場でそう言って、翌日に止めることはできた。
「社長、使ってからじゃ遅い」
杉浦は黒瀬のほうを向いた。
「そうだな」と黒瀬は言った。
黒瀬は杉浦の肩に手を置いて、掘り方の縁まで三歩、一緒に歩いた。それから押した。
下で音がして、止んだ。
三田村が縁に走って、下を覗いて、動かなくなった。
「三田村。あとを頼む」と黒瀬は言った。「足場が濡れてる。気をつけろ」
黒瀬は歩き出した。私も歩いた。囲いの門まで、四十歩ほどある。後ろで三田村が誰かに電話をかけはじめる声が聞こえた。
その夜のうちに現場は片づいた。どう片づいたのかを、私は見ていない。翌朝に私が受け取ったのは、二月分の搬入の控えと、日報が一枚だ。日報の天候の欄に、雨、と書いてあった。前の日は降っていない。
車に乗ってから、私は言った。
「辞めさせれば済んだのでは」
「辞めさせて、それで口を閉じるか」
「一人です」
「ああいうのは一人で終わらん。どこかで誰かに言う。言われた先が、うちの取引先とはかぎらん」
黒瀬は窓のほうを向いた。
「お前が明日、書類を止めたとする。止めた理由は書類に残る。残った紙を、あとから誰が読む」
私は答えなかった。
答えないことで、私は続けることにした。あの晩のうちに、私は三田村に電話をかけている。翌日の午前には、搬入の控えを一組作り直し、継ぎ手の金物の検収を通した日付を、前の週のままにした。取り替えの手配は出していない。
杉浦正志の名は、その月の出面の記録から消えた。消したのは私ではない。消える形になる書類の並べ方を教えたのは、私だ。
*
三月に、一期の引渡しが済んだ。
内覧の日、私は受付の横に立っていた。鍵を受け取った人たちが、玄関の前で写真を撮る。子供が廊下を走って、親に呼び戻された。その建物の足元の土は、去年の秋に均された分だ。私はその日、現場を出るまでに三度、時計を見ている。
六月に、黒瀬から電話があった。
「現場の近くで、人が一人殺された。捕まったのが、杉浦という男だ」
「杉浦」
「下の名前は仁。うちの人間じゃない。二月のあれと、同じ姓だ」
「同じ姓の人は多くいます」
「多くいる。それでも、調べてこい」
接見の申し入れは、前の日に事務所から入れた。受任前であることは、こちらから伝えてある。すでに弁護人がついているかどうかを、私は知らない。
警察署の待合は、二階の階段の脇にあった。
長椅子が二つ。壁の掲示板に、交通安全の紙と相談窓口の紙が留めてある。その下に、落とし物の一覧。画鋲は白がほとんどで、一つだけ緑が混じっていた。紙の角が一枚、外れて垂れている。
接見の部屋は三つあり、二つが使われていた。板の下の隙間は、手帳が一冊通るくらいの高さだ。
二十分待って、番が来た。
仕切りの向こうに座った男は、私より少し若く見えた。髪が短く刈られて、右の耳の下に古い傷がある。私は名刺を板の下の隙間から入れた。男は受け取らずに、板の向こうに置いたままにした。
「永瀬と申します。弁護人を、お引き受けできればと思って参りました」
「誰に頼まれて来た」
「ご家族からご相談があったわけではありません。事件のことを知って、こちらから伺いました」
「俺は頼んでない」
「一度、事件の中身だけでも伺えれば」
男は板の向こうで、両手を膝に置いた。
「あんた、どこの事務所だ」
「中正法律事務所です」
男は名刺を一度だけ見た。見て、それきり見なかった。
「引き受けなくていい。帰ってくれ」
「お話しになりたくなければ、それで結構です。ただ、取調べで署名をする前に、一度は弁護人に会ってください。誰でもかまいません」
「断った。もう話はない」
男は立ち上がって、係の人のほうを向いた。
私は名刺を回収しなかった。仕切りの向こうの板の上に、白いまま残った。
署を出て、車の中から黒瀬にかけ、断られたことだけを言った。その先の事件の中身は、地域の紙面と、三田村から来る話と、黒瀬がどこかから聞いてくる話しかない。私は弁護人ではないので、記録を読む立場にない。読めないまま、私はその男の名前を毎日探すことになった。
*
七月に、三田村が事務所へ来た。
約束の時間より四十分早く来て、受付の椅子に座っていた。応接に入ると、扉を自分で閉めた。
「先生。昨日、警察から連絡がありました。話を聞きたいと」
「何についてですか」
「杉浦という人が……勾留されている人のほうです。あの人が、私が金を払って人を殺させた、と言っているそうです」
三田村は膝の上で手を組み、組み直した。
「私は誰にも頼んでいません」
「頼んでいませんね」
「それと、もう一つ。その人は、現場の下に人が入っている、と言っているそうです。場所まで言ったかどうかは、教えてもらえませんでした」
応接の椅子が鳴った。三田村が座り直したからだ。
「先生。二月のことは、私が片づけました。片づけましたが、殺したのは私じゃありません」
「わかっています」
「去年の秋のことも、私は車を通しただけです」
私は水を注いで、三田村の前に置いた。
三田村が言っているのは、二月の杉浦正志と、去年の秋の倉庫の夜だ。現場の下に入っているのも、その二人になる。勾留されている男の事件の被害者は、その二人とは別にいる。別にいるのに、その男は現場の下の話をしている。どこから知ったのかを、私は知らない。
「三田村さん。次に警察から連絡が来たら、日時だけ聞いて、私に電話をください。行く前に、一度お会いします」
「……先生が、ついてくださるんですか」
「つきます」
三田村は水を飲んだ。飲んで、コップを両手で持ったまま、机を見ていた。
三田村が帰ったあと、私は応接の椅子を元の位置に戻した。右の後ろ脚が鳴る。
三田村が並べた二つのうち、一つは私が指示したことで、もう一つは黒瀬がやったことだ。どちらも、片づけたのは三田村の手だ。片づけた人間の名前だけが、いま外で呼ばれはじめている。
その晩、社長室に呼ばれた。
黒瀬は立ったまま、窓の外の現場の灯りを見ていた。振り向かずに言った。
「二つとも、あの下だ」
「はい」
「警察が掘るとして、出てくるのは二人だ。掘る理由は、あの若いのが言った一言だけでいい」
「掘るまでには、手続がいります」
「その手続を、うちから離れた場所で決められると困る」
黒瀬は振り向いた。
「三田村は、お前が見ろ」




