終章 真空に生きる
三田村が逮捕されたのは、八月の終わりだった。
容疑は、最初は別のことだった。現場の記録の一部を作り直したという、書類の話だ。二週目に、捜索が現場に入った。
私は弁護人になった。
本来なら、私はこの事件の弁護人になれない。なってはいけない理由を、私は条文の番号で言える。言えるだけで、選任届は出した。三田村の側から見れば、私は現場の事情を全部知っていて、社長と直接話せる唯一の弁護士だった。
選任の話を持ってきたのは黒瀬だ。三田村の奥さんが会社に電話をかけてきて、弁護士を頼みたいが費用がない、と言ったらしい。黒瀬は費用をうちで持つと答え、その場で私の名を出した。私は断らなかった。断れば、三田村には私の知らない弁護人がつく。
事務所では、修習で同じ班だった男が一度だけ訊いてきた。会社の関係者が被疑者で、費用も会社が出す事件を、うちで受けていいのか、と。私は、本件に利益の対立する当事者はいない、と答えた。答えを紙にはしなかった。紙にすれば、あとから読む人間が出る。
接見の待合は、床の色が変わるところまで長椅子が並んでいた。
壁の掲示板に、面会の順番の案内と、差入れの一覧が留めてある。画鋲は白と、一つだけ色の違うものが混じっていた。前に見たのは別の建物の別の板で、同じではない。
番号を呼ばれて、私は五番の部屋に入った。
「三田村さん。体調は」
「眠れていません」
差入れの本は届いていると、三田村は言った。どこまで読んだかは訊かなかった。
三田村はアクリルの板の向こうで、両手を膝に置いていた。爪が短く切られている。留置場に入る前に、自分で切ったのだろう。
「何を訊かれていますか」
「記録のことばかりです。日報の天候の欄と、出面と、搬入の日付。あとは、去年の秋の夜のことを」
「答えたことを、順に教えてください」
三田村は話した。私は手帳に書き取る。書き取りながら、どの答えが誰を守り、どの答えが誰を指すかを、その場で分けていった。
「三田村さん。これから先、こちらから何も言わないでください。調書は読み上げられたら、違うところを一つずつ直して、直しきらないうちは署名しないでください」
「……はい」
「社長が保ちます。私もつきます」
「保つ、というのは」
「あなたと、ご家族の生活が止まらないようにする、ということです」
三田村は頷いた。それから、一度だけ私の顔を正面から見た。
「先生。あの夜の車を通したのは、私です。二月に片づけたのも私です。けれど、それだけです」
「わかっています」
*
その秋も、事務所は普通に動いていた。法律扶助の相談は週に十件前後あり、私は前と同じように受けている。未払いの賃金が戻り、明け渡しの期限が延び、廊下で礼を言われた。その同じ秋に、私は三田村の接見へ十回以上通っている。二つの仕事に使う頭は、同じ一つだ。
九月に、現場の一部が掘られた。
掘られたのは二か所だ。倉庫の南側の地面と、二期の掘り方の一部。重機が入る前に、それぞれシートの囲いが立った。囲いの外に人が集まる。近所の人と、記者と、名札を下げていない人間が何人か。私はその日、現場へ行っていない。行かない理由を、黒瀬にも三田村にも言わなかった。
二人が出た。新聞の地域の欄では、二人としか書かれていない。名前が出たのは、そのあとだ。片方は去年の秋にいなくなった倉庫の記録係で、もう片方は二月に現場からいなくなった日雇いの作業員だった。
勾留されている男の事件の被害者は、そのどちらでもない。その男が現場の下の話をどこで知ったのかを、まだ誰も説明していない。
三田村の勾留は延び、容疑が変わった。
九年前の男の記録は、もうどこにも出てこないという。榎本がそう報告している。私が持っているのは、その報告だけだ。掘る場所が、その二か所で終わるという保証を、誰も出していない。
十月の初めに、榎本から電話があった。
「三田村の奥さんが、毎週来てる。子供を連れてくる日もある」
「はい」
「あと、手紙が行ってるらしい。中身は知らん」
「ありがとうございます」
「永瀬。俺は家には行ってない。社長は行った」
電話が切れた。私は受話器を置いて、しばらく置いたままにした。
次の接見で、三田村は先に口を開いた。
「妻が来ました」
「はい」
「認めるな、と言われました。絶対に認めるな、あなたは何もしていないんだから、と。手紙にも同じことが書いてありました」
「奥さんは、そう言うでしょう」
「先生。私は、何を認めないんですか」
私は手帳を閉じた。
「警察は、二人について、あなたに訊きます。これから、どんどん細かくなります」
「私はやっていません」
「やっていません」
三田村はアクリルの板に額を近づけた。
「先生。認めたら、どうなりますか」
「刑がどうなるかは、私には言えません。言える人もいません。言う弁護士がいたら、その人は嘘をついています」
三田村は体を起こした。目の下が落ちくぼんで、頬の骨が出ている。ひと月で、別の年齢の顔になっていた。
*
十月の終わりに、私は黒瀬の車で三田村の家へ行った。
階段が外についている二階建ての、一階だ。玄関に子供の靴が二足あった。奥さんは黒瀬の名刺を両手で受け取り、上がってくださいとは言わない。私たちは三十分ほど、玄関に立って話した。話したのは、生活のことと、費用のことだ。認めるかどうかの話は、一度も出していない。
帰りの車で、黒瀬は何も言わなかった。私は手帳に、部屋の数と、窓の向きと、子供の学年を書いた。
十一月の接見は、夕方だった。
私は一人で行った。社長は来ない。奥さんの面会とも、日を分けてある。
窓のない部屋で、天井の蛍光灯が一本、端のほうで切れかけていた。三田村は前の週よりさらに痩せている。
「三田村さん。先週、社長とお宅へ伺いました」
三田村が顔を上げた。
「家に、ですか」
「奥さんと、お子さんにお会いしました。お子さんの部屋が北側で、窓が一つですね。冬はつらいでしょう」
「……はい」
「社長が、南向きの部屋のある家を探しています。借り上げの形にすれば、家賃はうちで持てます。奥さんの勤め先も、続けられるように話をしてあります」
三田村は何も言わなかった。
「お子さんの学校のことも、社長は考えています。将来、外に出したいということなら、その費用も出すと言っています」
「先生」
「はい」
「それは、私が認めたらの話ですか」
私は答えなかった。答えないことが答えになる。それを承知で、私は板の向こうの男の目を見ていた。
「三田村さん。奥さんとお子さんのことは、社長に頼んであります。認めますか」
「……あの二人は、先生と社長が」
「三田村さん」
私は手を上げなかった。声も上げていない。名前を一度呼んだだけだ。
三田村の口が閉じた。閉じてから、肩が落ちた。
「記録は、あなたの名前で揃っています」と私は言った。「日報と出面は、あなたが書いた形になっています。搬入の控えも同じです。それを作った手順を、いまから解くことはできません」
三田村の目から水が落ちた。拭かずに、そのままにしていた。
「妻と子には、何もしないでください」
「しません」
「……認めます」
「はい」
私は手帳を開いて、今日の日付を書いた。その下には何も書かない。書けば紙に残り、残れば、あとから読む人間が出る。
九年前の台所で、私は同じ形の順番を並べている。誰が働けるか、誰が消えても家が残るか。並べる相手だけが替わった。
私が取ったのは、認めるという返事だけだ。供述の調書は、まだ一枚もできていない。起訴されるかどうかも、これからになる。裁判がどう終わるかを、私は言わなかったし、言えない。
係の人が、時間だと言いに来た。
私は書類を鞄に入れ、立ち上がった。椅子を戻したところで、板の向こうから声がした。
「先生」
「はい」
「一つだけ、教えてください」
三田村は座ったままだった。
「二期の基礎の、あの継ぎ手です。あれを使ったままにして、上に何棟も建てて、それで引渡しの日取りは去年から決まっていて」
言葉が一度切れた。
「はじめから、引き渡すつもりはなかったんですか」
私は鞄の口を閉めた。閉めてから、板の向こうを見た。
「知らない」
(了)




