第七章 中正法律事務所
名の変更の申立ては、修習の始まる前に出した。
書いて出す紙そのものは薄い。厚みがあるのは、その名をいつからどこで使ってきたかを示すほうだった。大学の出席簿、演習の名簿、会社が出した郵便物、私が自分の手で書いた書類の控え。七年ぶん集めると、封筒が二つになった。
家庭裁判所の待合には長椅子が三つ並んでいて、私は端に座った。呼ばれるまでに一時間かかった。訊かれたのは、いつからそう呼ばれているか、いま何をしている人か、仕事や取引でその名を使う必要があるか。私は年と、場所と、書類の種類で答えた。相手は二度、書き取る手を止めて確かめた。
許可の謄本が届いたのは、その年の秋だ。封を切って、名の欄を指で押さえて読んだ。
十一月の午後に、市役所へ行った。窓口でしたのは、書類を三枚並べて、免許証と顔を見比べられることだけだ。姓は動かず、名だけが動いた。
修習は、一年ある。
配属先の街で借りた部屋は、机と寝床を置くと歩く場所がなくなる広さだった。朝に記録を読み、昼に書き、夜に書き直す。起案の紙は、赤が入って戻ってくる。私が四年と二年をかけて覚えたのは、条文と判例の位置であって、事実を順に並べる手つきではなかった。そこで初めて、それを他人の赤で教わった。
会社の電話はその年も鳴った。修習は専念することになっている。私は夕食のあとに書類を開き、翌朝の始まる前に返事を送った。誰に許されたことでもない。
教官も、同じ班の修習生も、私を永瀬さんと呼んだ。姓が変わっていないので、名が変わったことに気づいた者はほとんどいない。班の名簿の、私の欄だけが年度の途中で書き直されていた。
十一月に試験があり、十二月に結果が出た。年が明けて、登録の手続を終えた。
*
名刺は、百枚入りの箱で届いた。
箱を開けて、上から二枚を抜き、あとは抽斗に入れた。紙の中央に事務所の名、その下に私の名、隅に電話と住所。肩書きの二文字は、前の月まで私が持っていなかったものだ。
登録の済んだ日に、黒瀬の部屋へ行った。
「永瀬先生」
黒瀬は立ち上がりもせずにそう言って、それから手を出した。私は名刺を一枚渡す。黒瀬は両手で受け、机に置いて、指で向きを直した。
「事務所の名は決めたか」
「中正です」
「読み方は」
「ちゅうせい、です」
「看板は俺が出す」
「家賃はいただいた分から引いてください」
「引かない」
黒瀬は名刺を抽斗に入れ、そこからは直と呼んだ。人のいる場では先生、いない場では直。使い分けは、その日のうちに決まったらしい。
事務所は、駅の南口の雑居ビルの四階に入った。黒瀬が押さえていた一室で、家賃は相場より安く、契約書の貸主の欄には栄都開発と別の名が並んでいる。私はその二つの名の関係を調べ、調べたうえで判を押した。
中正法律事務所、と名前をつけた。中立で、傾かない、という意味の字を二つ並べただけだ。看板の字を発注する日、事務の女性に読み方を訊かれて、ちゅうせい、と答えた。
はじめは私と、事務が一人。半年後に、修習で同じ班だった男が入って、弁護士が二人になった。机は四つ買って、二つを空けたままにしておいた。
応接の椅子は中古で、右の後ろ脚が鳴る。座る位置を少しずらすと鳴らない。
来る相談は、はじめの三か月で九十件を超えた。
半分は法律扶助の枠に乗る。賃金が三か月出ていない、敷金が戻らない、同居していた家を出ろと言われている。そういう事件を、私は断らずに受けた。
工場の下請けで働いていた男の未払いが、二か月で片づいたことがある。相手の会社は払わないと言い続けていたが、帳簿の写しと、男が自分で付けていた出勤の手帳が揃うと、一度目の期日の前に振り込んできた。菓子折りを持って寄った日の男を、私は見ていない。受け取ったのは事務の女性で、私は奥で判例集を開いていた。廊下で礼を言われたのは、その次の週だ。
あの手帳のような紙を、私は仕事で何度も扱う。日付が並んでいれば、その日に何があったかを後から決められる。同じことを、私は別の机でもしていた。
栄都開発の書類は、月に二度まとめて届いた。
分譲の一期が始まり、現場は旧い工場の跡地に移っている。届く紙の束は、請負の契約書と、支払いの明細と、搬入した材料の検収の記録だ。検収の書式は、八年前に私が作ったものの形をまだ残していた。合格の条件を書き並べた欄が、紙の下半分を埋めている。
私はその欄に一つずつ日付を入れ、入らないものを別の山にした。別の山は、月末に社長室へ持っていく。
「これは」
「合格にできない分です。今月は三十七件」
「工事は止まるのか」
「止まりません。支払いの日だけが来ません」
「わかった。置いていけ」
黒瀬は束の厚みだけを見て、判の箱を引き寄せた。
現場に行くと、三田村という男が図面を持って待っていた。工程と、人と、搬入の順を組む人だ。私の顔を見ると、いつも先に日程の遅れを言い、そのあとで頼みごとを一つ言う。
「先生、来週の分、支払いの書式をもう少し早く回してもらえませんか。職人が先に入っているので」
「先に入れた理由を、紙で一枚ください。それを添えて回します」
三田村は頷いて、ヘルメットを脱いで汗を拭いた。
榎本は電話で先生と言うようになった。
「先生。社長が現場に入ります。午後の予定は」
「二時から接見が一件です。四時には戻ります」
「じゃあ四時で押さえます」
榎本は四時ちょうどに玄関の前にいた。
*
事務所の名と私の名は、外から見えるところに置いてある。
弁護士会の名簿に載り、事務所の案内にも載せた。案内には顔写真を入れている。入れるかどうかは一度考えた。入れないほうが目立つ。写真は事務の女性が撮ったもので、背景は事務所の白い壁だ。
相談の予約は、その案内を見て入るものが半分になった。
十月の、水曜の午後だった。
私は応接で、建物の明け渡しの相談を受けていた。相手は七十を過ぎた女性で、話は三十分で終わり、次の予約を入れて帰るところだ。受付のほうから声がした。
「困ります。お約束のない方は」
扉が開いた。事務の女性が腕を横に出している。その先に男が立っていた。
髭が伸びている。上着の肩に白い粉がついていて、爪の間が黒い。革の鞄ではなく、布の手提げを持っていた。
「直人」
女性の腕が下りた。相談の女性が私を見た。
私は立って、応接の扉を開けたまま、まず外に出た。
「大丈夫です。お客さまをお送りしてください」
事務の女性は私の顔を見て、それから男を見て、頷いた。七十過ぎの女性の背を支えて、玄関のほうへ歩いていく。男はその横を通って、応接に入った。
私は扉を閉めた。閉める前に、廊下の足音の数を、扉の隙間から数えた。




