第三章 戸田修
三和土に靴が二足あった。傘立ての横に、使い込んだ靴べらが立てかけてある。
靴を脱いで上がった。廊下は短く、突き当たりが台所だ。音はそこから出ていた。床を擦る音と、喉から漏れる音。
台所の床に兄が仰向けになっていて、その上に戸田が乗っていた。両手が兄の首にある。兄の踵が床を蹴っていた。蹴る力が、見ているあいだに弱くなった。
戸田の膝の横に、開いた鋏が転がっている。刃の先に血がついていた。
流し台の縁から、包丁の柄が出ていた。私はそれを掴んだ。
二歩で寄って、戸田の背中に突き入れた。
戸田の手が兄の首から離れ、体が横へ落ちた。
兄は咳をした。四つん這いになった。肩で息をした。
包丁は私の手に残っている。柄が汗で滑って、私は持ち直した。持ち直してから、自分がまだ持っていることに気がついて、指を開いた。床に落ちる音がやけに軽い。袖が重くなっている。
「……なんで掴まれてた」
兄は答えずに上着を脱いだ。蛇口をひねって、手を洗いはじめた。水の音が長く続いた。
「圭一。なんで掴まれてた」
「芦田さんから、この人に電話が来た」と兄は言った。「手を落とすって話だ。この人が切るんだと思った。台所に入っていったから、俺は、そこにあった鋏で後ろから刺した。浅い。抜いて、こっちを向いて、押し倒された。そこにお前が来た」
戸田が台所に何を取りに入ったのかを、私は知らない。いまも知らない。私が見たのは、兄の首を押さえている手と、そこから先だ。
ガス台に薬缶が載っていた。火はついていない。流しには茶碗が一つと箸が一膳、洗ったまま伏せてある。食卓の上には郵便が何通か重ねてあって、いちばん上は電気の封筒だった。人が一人で暮らしている台所の、昼と夜のあいだの状態だった。
窓の外を、子供が何人か走っていく。一人が誰かの名前を呼び、それが遠ざかった。私は自分の呼吸の数を数えようとして、途中で数がわからなくなった。
*
私はポケットから携帯を出して、開いた。
押す数字は三つでいい。押せば救急が来る。来れば警察も来る。
そのとき私が頭の中に並べたのは、講義で習ったことだった。他人のための正当防衛という組み立て方があること。行き過ぎかどうかを決めるのは、その場にいなかった人間だということ。決まるまでに何年かかるか、決まったあとに何が残るかは、教科書に書かれていない。
書かれていない部分を、私はその場で自分の数字で埋めた。二十一歳。母の家には月十五万の返済があり、その名義は私だ。刑が何年になるかを私が言い当てられるはずもなく、言い当てられないから安全だと考えたわけでもない。ただ、埋めた。
携帯を閉じた。台所の床に、画面を下にして置いた。
「直人、お前が逃げろ」と兄が言った。「俺が何とかする」
「何とかって、何を」
「……わからん」
兄は蛇口を止めて、雑巾を探しはじめた。動きに迷いがない。料理屋の下働きを六年やった人間の手の動かし方だ。私はそれを見ていた。見ていて、止めなかった。
私は流しの下を開けて、ゴミ袋を出した。それから居間に行って、抽斗を順に開けた。
三つめの抽斗に、戸田のものがまとめて入っていた。運転免許証、保険証、通帳が二冊、印鑑が一本。どれも別々の用途の紙で、一枚あれば人が入れ替われるというものではない。私はそれを鞄に移した。封筒に現金が二十万。十万を取って、残りは元の場所に戻した。
免許証の写真を、台所の灯りの下で見た。髪の分け方が違う。頬の削げ方が違う。生年は二つ上になっている。窓口で顔と並べて見られたとき、通るか通らないかは見る人間による。それだけのことだと、そのときの私は思った。
兄が廊下から覗いていた。
「何してる」
「この人には、いま家族がいない。そう聞いた」
「聞いたって、誰に」
「本人に」
*
戸田の上着から、もう一つ携帯が出てきた。
「圭一。よく聞いて」
兄は濡れた手を垂らしたまま、私の前に立った。
「警察が動くのは、誰かが届けたときだ。芦田さんが動くのは、この人がいなくなったと気づいたときだ。どちらも起きなければ、今日のことは、しばらく誰の話にもならない」
「どうやって」
「戸田さんが真壁直人を殺した。怖くなって、しばらく外に出た。そういう話にする」
兄は口を開けたまま、私を見ていた。
「お前が……死ぬのか」
「届けが出なければ、死んでもいないし、生きてもいない。書類の上では、そうなる」
「なんで俺じゃない」
「母さんの家に、月十五万の返済がある。母さんの手取りは十六万だ。働けるのはあんたで、あんたが消えたら家は残らない。私が消えても、母さんは働ける」
兄は何も言わなかった。私が並べたのは、その順番の理屈だった。
「芦田さんに顔を見られてるのは、あんたのほうだ」と私は続けた。「あんたが消えたら、探される。私は、この家に来たことを誰にも言っていない。駅からここまで、道を訊いてもいない」
「……けど、直人」
「けど、の先は」
兄は言わなかった。畳んだ上着を胸に抱えたまま、台所の床を見ている。私はそのとき初めて、この人はもう自分で順番を作れないのだと思った。作れる人間が、この家に一人しかいない。
戸田の携帯を開いて、芦田あてに短い文を打った。取り立てのときに加減を誤って人を死なせた、しばらく外に出る、この番号はもう使わない、風向きが変わったら知らせてほしい。送信して、電源を落として、鞄の底に入れた。
「遺体は」
「あんたが運ぶ」
兄は首を振った。振ってから、頷いた。
どこへ運ぶのかを、私は訊かなかった。後日に一度だけ、故郷のほうの山だと聞いた。それ以上は聞いていない。
時計を見ると、四時を回っていた。表の通りの子供の声はもう聞こえない。私は雨戸ではなく、台所の窓のカーテンを引いた。それから玄関へ行き、通りに人がいないことを確かめてから、鍵を掛けた。
風呂場で湯を浴びた。
太陽熱の湯は初め冷たく、途中から急に熱くなった。私は口を開けて、声を出さずに息を吐く。何度も吐いた。排水口の渦に水が落ちていく音のほかは、何も聞こえない。
戸田の簞笥から、いちばん地味な上下を出して着た。袖の丈は合っている。脱いだものは兄がゴミ袋に入れた。
台所に戻ると、兄は雑巾を絞っていた。
「人に訊かれたら、あんたは先に帰った。直人と戸田さんが残って話していた。それきり見ていない。そう言って」
「うん」
「それから、直人はどこに行ったのかと、あんたのほうから訊いて回って。訊かれる前に訊く」
兄は頷いた。頷きながら、雑巾を絞る手を止めなかった。
鞄を肩に掛けて、玄関に立った。
上着のポケットに、兄が買った二つ折りの携帯が入っていた。私はそれを出して、裏を開けて電池を抜いた。本体と電池を別々のポケットに入れる。その番号にかけてくる相手は二人しかいない。一人はここにいて、もう一人は工場にいる。
「圭一。真壁直人は、死んだことにする。私はこれから、戸田修で生きる」
「……直人」
「もう一度これをやったら、次に出すのは母さんの命だ。良心が残っているなら、まっとうに暮らして」
私は引き戸を閉めた。閉めた側の音しか、私は聞いていない。




