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背乗り  作者: 空の異変


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第四章 夜の受付

 槻浜に着いたのは、十一月の終わりだった。

 切符は窓口で買った。行先を言って、金を出して、釣りを受け取る。名前は訊かれなかった。窓の外を県境の山が二つ流れ、そのあとは知らない駅の名が続いた。降りたのは、名前だけは知っている大きな駅だ。改札を出ると広場に人が多く、私はその人の数の中で、誰にも見られていないことを確かめた。

 駅の東口から十五分歩いたところに、一泊八百円の宿があった。四人部屋の二段寝台で、上の段が空いていた。帳場の男に免許証を出す。男は番号を書き写して、顔はろくに見なかった。

 部屋には先客が三人いた。誰も口をきかない。私は鞄を抱いて寝た。中には他人の通帳と印鑑と、十万から宿代を引いた金が入っている。夜中に何度か目が覚めて、そのたびに鞄がそこにあることを手で確かめた。

 朝、壁に貼ってある料金表の前で計算した。一泊八百円、三十日で二万四千円。食事を一日三百円に抑えれば、ひと月で三万三千円。十万からそれを引くと、三か月は生きていられる。三度やって、三度とも同じ数になった。


 十日目に、駅裏の定食屋の貼り紙を見て、面接に行った。

 免許証を見せると、店主は生年と名前を紙に写して、明日から来いと言った。日当六千円。

 初日に私は皿を二枚落とし、出来上がった焼き魚を一人前ひっくり返した。店主は弁償しろとは言わない。三日目の終わりに、三日分の賃金を封筒に入れて渡された。封筒の口は折ってあるだけで、糊はついていない。

 私は兄の店で丼を運んだことがある。運んだだけだ。十九から二十一までのあいだ、私がしていたのは本を読むことで、手は本の重さしか覚えていない。

 その月、宿代で二万四千円が出ていった。残りは五万を切った。


    *


 次に決まったのは、宿泊施設の夜の受付だった。

 週六日、夜七時から朝八時まで。住み込みで賄いがつく。月に十三万。面接をした支配人は免許証の生年月日を見て、若いな、とだけ言った。二十三歳の生年を、私は自分の年として黙って受け取った。

 建物は五階建てで、部屋が二十二ある。客の半分は近所で声をかける女とその連れで、そういう話のついている宿なのだと、私は三日目に知った。

 受付の椅子は、右の後ろ脚が鳴った。体重を移すたびに短く鳴る。鳴らないように座る座り方を覚えるまでに、ひと月かかった。

 帳場の棚の隅に、古い絵葉書が一枚立てかけてあった。海の写真で、裏に薄い字が並んでいる。宛名は宿の名ではなく、知らない人の名前。私が来る前からそこにあり、私がいるあいだもそこにあった。誰のものかは訊かなかった。


 夜の受付は、鍵を渡し、金を受け取り、名簿に書いてもらう仕事だ。書いてもらった名前が本当かどうかを、私は確かめない。確かめる立場にないことが、その仕事のいちばん楽なところだった。

 朝の八時に交代して、昼まで眠る。起きて、洗濯をして、賄いの飯を食べ、また夜になる。年が変わるのも建物の中で迎えた。元日の未明に酔った客が二組来て、そのうち一組は部屋を間違えた。

 春に、この一帯で一斉の摘発があった。客足が落ちて、その月の稼働は半分にもならない。六月に支配人から、人を減らすと言われた。経費の見直しという言葉を、支配人は二度使った。

 住み込みの部屋を出る日、顔を覚えていた女の一人が、駅裏の店の名前を紙に書いてくれた。人を探しているから、私の名前を出していい、と言った。


    *


 店は雑居ビルの三階にあった。カウンターが十二席、ボックスが四つ。

 私の仕事はグラスを拭き、氷を割り、皿を下げることだ。酒は作らない。作るのは別の人間で、私はその後ろに立っている。

 はじめのうち、私は客に話しかけられると要らないことを言った。言った翌日に、カウンターの端から苦情が来る。二週間で口を閉じることにして、そこからは後ろに立って人を見ていた。

 十日も見ていると、来る客は二通りに分かれた。夜ごとに連れの変わる若い客と、決まった席で同じ話を繰り返す中年の客だ。後ろの側の話は、たいてい金と身内でできていた。私はそれを聞いていられる場所にいて、自分の話だけは一つも持っていなかった。


 十月の、客の少ない晩だった。

 カウンターの端で、四十代半ばの男が一人で飲んでいた。三杯目のあたりから独り言が大きくなる。母親が死んだ。土地と家が残った。兄が紙を持っている。その紙には、兄の取り分を厚くすると書いてある。

「紙があるんだよ」と男は言った。「おふくろが書いたっていう紙が」

 私はグラスを拭く手を止めた。

「その紙は、どういう形のものですか」

「どういう形って」

「全部お母さまの字で書いてありますか。日付は入っていますか。判は」

 男は私を見て、覚えていない、と言った。

「兄貴と、義姉さんが証人だって言ってた」

「見せてもらったことは」

「写しを一枚」

 私は、その一枚をもう一度よく見てくださいと言った。それから、家庭裁判所で開けてもらう手続があること、形が整っていなければそこで争いになること、話し合いは早いほうが選べる道が多いことを、順に話す。効くか効かないかは言わなかった。言える立場ではない。私が持っているのは三年半ぶんの講義と、途中で止まった四年目だけだ。

「役所にも弁護士会にも、相談だけ受けてくれるところがあります。一度行ってください」

 男は紙ナプキンに、家庭裁判所という五文字を書き取った。


 二週間後、同じ男が来た。私の前に座って、話が動いた、とだけ言う。私は氷を割っていた。割る手は止めずに、そうですか、と答えた。

 それから、私に訊く客が増えた。敷金が返らない。下請けの金が入らない。離婚の話がまとまらない。私は知っていることだけを答え、知らないことは書き留めて、翌日に本屋で調べた。六法は自分の金で買った。金は取らない。取れる立場ではない。

 カウンターの売上は上がった。上がったことを、私は自分の手柄だとは考えなかった。人が集まるところに酒が出る。その程度の話だ。


 十二月の、その日の閉店は二時半だった。

 レジを締めて、伝票と現金を数える。合わなければもう一度数える。その晩は一度で合った。売上を書いたメモを、私は自分の字で金庫の上に置いた。

 グラスを伏せて、製氷機の氷を落とす。蛇口を締めて、洗い場の水を切った。

 蝶ネクタイを外し、ベストを脱いで、更衣室の自分の番号のロッカーに掛けた。エプロンは洗い場の籠に入れる。鍵はカウンターの内側の釘に戻した。

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