第二章 弟の返済表
四年になった春、戸田から電話があった。
登録していない番号だったが、画面に並んだ数字には見覚えがあった。私は講義棟の階段の踊り場に出て、それを取った。
「真壁直人か」
「はい」
「圭一が、うちの口から五百万持っていった」
私は手すりを掴んだ。
「……聞いていません」
「だろうな。俺が三日いない間だ。若いのが貸した」
「戸田さん。あれは返せません。家はもう担保に入っていて、月の分がやっとです」
「だから取り返しに行く」と戸田は言った。「借用書はこっちにある。金が戻れば、あの紙は破る」
「お願いします」
通話が切れた。踊り場の窓から下の駐輪場が見える。自転車が三列。私はその日の午後の講義に出て、ノートを二ページ取った。何を書いたのかは覚えていない。
その春、私は四年になっていた。演習の名簿に自分の名前があり、夏からの実務修習の受け入れ先を探す紙が掲示板に貼られていた。私は掲示板の前で立ち止まって、期限の日付だけを読んだ。
その日の最終の一本前で帰った。車両には私のほかに三人いて、誰も荷物を網棚に上げなかった。窓の外は同じ黒が続き、ときどき踏切の赤が通り過ぎる。汐瀬の駅に着いたのは十一時を回ったころで、バスはもうなかった。私は駅から四十分歩いた。
家の扉は開いたままだった。廊下に知らない男が二人立っていて、片方が私を見て、顎で中を示した。
居間では母が兄の前に膝をついていた。二人とも泣いていた。兄の顔は左側が腫れて、床板に鼻血の跡が乾きかけている。
戸田は台所の椅子に座って、うちの湯呑で水を飲んでいた。内側に茶渋の輪がある。
「遅かった」と戸田は言った。「着いたときには、もう打ってた。戻せたのは五十万だ」
「あとの四百五十万は」
「打って負けた金は、勝った奴の金だ。こっちから取りに行く筋はない」
兄が母の肩越しに顔を上げた。
「その五十万、俺に回してくれ。あれだけあれば」
私は壁に立てかけてあった物干し竿を取って、兄の手の甲に振り下ろした。兄が声を上げ、母が私の腕にしがみつく。二度目は母の肩に当たった。母は離さない。竿が畳に落ちた。
戸田は湯呑を置いて、上着の内側から紙を出した。折り目のついた一枚を、食卓に置く。
「四百五十万。利息はここから起こす」
男たちが先に出ていった。戸田は玄関で靴を履きながら、一度だけ振り返った。
「俺の場所には、もう入れない。ほかの口までは知らん」
*
その夜、兄が私の部屋に来た。
「直人。方法がある」
「何」
「お前の名義で、家を担保にして借りる。名義は母さんのままでいい。抵当を入れ直すだけだ。千五百万借りれば、俺の千万も、四百五十も、親戚のぶんも片づく」
「私は学生だ。収入がない」
「そこは何とかなる。知り合いがいる。書類は作る」
私は立って、扉を開けた。
「出ていって」
兄は出ていかなかった。畳に座ったまま、私のズボンの裾を掴んだ。爪の間が黒い。仲介の面接に行くから切ったと言っていた爪だった。
「頼む。全部俺が悪い。でも家は残せる。母さんの家は、残せるんだ」
私は裾を引いた。布は指から抜ける。それだけで抜けた。
廊下に母が立っていた。手に封筒がある。中身は権利証と、母の印鑑登録の書類と、父の保険の証書。母はそれを私に渡した。兄の手には渡さなかった。
私は封筒を受け取って、抽斗に入れた。
「圭一」
そう呼んだのは、そのときが初めてだ。
「母さんの家だけだ。それ以外は、何もしない」
兄は畳を見たまま頷いた。頷き方が、店をやっていたころより早かった。
*
書類は二週間でそろった。
場所は駅の北口の、貸し事務所の一室だった。長机と、折りたたみの椅子が六つ。兄の知り合いという男が二人いて、片方は名刺を出し、片方は出さなかった。兄は一度も座らず、扉のそばに立っていた。
紙の上の私は、手取りが四十万を超える会社員になっていた。勤め先の名も、在籍の年数も、私が見たことのないものだ。判を押す前に、私はその束を一枚ずつ最後まで読んだ。誰も急かさない。窓の外で、宅配の台車が段差を越える音が二度した。読んだうえで押した。
押してから、私は自分の手を見た。書類が偽りであることは知っている。これが法の上で何という名で呼ばれるかも知っていた。そのうえで、断れば母の住むところがなくなるという一点を、私は自分への許可証に使った。使えると思ったわけではない。ほかに手元になかった。
借入は千五百万。抵当に入ったのは母の家のままで、借りたのは私になった。月の返済は十五万。母の工場の手取りは十六万。
金は私の手を一度も通らずに動いた。兄の名義の千万が消え、闇金の四百五十万が消え、親戚には借りた先の半分ほどが戻った。残りは母がのし袋に入れて、毎月少しずつ配って歩くことになる。
母は新しいノートを買った。表紙に返済と書いて、月ごとに三段の表を引く。銀行、親戚、そのほか。書き込むのは母で、確かめるのは私だった。
夏に帰ったとき、銀行の段は三行とも埋まっていた。親戚の段には、金額の横に名前が並んでいる。父の兄の欄だけ、二月ぶんが空いていた。
「ここは」
「あの人は、いいって言うのよ。でも書いておかないと、こっちが忘れるから」
母は鉛筆の尻でその欄を叩いた。十五万を引いたあとの母の手取りは一万円になる。生活の分は私の学費から回し、私の学費は、兄の歩合が出た月に埋める。埋まらない月は、母が工場の食堂で昼を抜く。その順番を、私は口に出さずに三度ほど組み直した。組み直しても順番が変わるだけで、数字は減らなかった。
兄は伝手をたどって、不動産の仲介に勤めはじめた。基本給と、決まったときの歩合。はじめの三月は毎月きちんと家に入れていた、と母は電話で言った。言い方が、店をやっていたころの言い方に戻りかけていた。
十月に、戸田から電話があった。
「圭一が、芦田さんの場所でチップを抜いた」
私は寮の廊下に立っていた。
「……いくら」
「一枚二万のを、二百と少し。見つかったのは今度が初めてだ。前にあったかどうかは知らん」
「戸田さん、それは」
「道理でいえば手を落とす。今回は俺が預かった。うちにいる」
私は壁に額をつけた。廊下の突き当たりの窓が開いていて、外から誰かの笑い声が入ってくる。
「もう一つ、訊いていいですか」
「言え」
「そのぶんの紙に、私の名前は入っていますか」
受話口の向こうで、椅子を引く音がした。
「来い。ここで話す」
電車を二本乗り継いで、二時間かかった。
乗り換えの駅で、私は立ち食いのうどんを食べた。券売機の前で財布の中を数え、帰りの分を残して一番安いものを押した。二本目の電車は二両きりで、座席の布が擦れて下地が出ている。窓のすぐ外を稲の刈り跡が流れ、その向こうに山が寝ていた。
戸田の家は古い一戸建てで、表の道は学校帰りの子供の声でうるさかった。塀の内側に自転車が一台、錆びたまま置いてある。
引き戸は少しだけ開いていた。
「戸田さん」
返事はない。奥のほうで、床を擦る音がした。
私は戸を引いた。




