第一章 母の通帳
その夏、私は二十日ほど店に入った。
昼の山は前の年より低かった。十一時半に入る客が四人、十二時を過ぎてようやく席が埋まる。小上がりは空いたままの日が多い。厨房には兄の知らない顔が二人いて、丼の並べ方を私に訊いてきた。兄は昼の山の途中で出ていき、夜の山の前に戻ってきた。
三日目に、私は携帯を持って裏の路地に出た。
「もしもし」
受話口の向こうで、牌をかき混ぜる音がしていた。
「おう、直人。帰ってたのか」
「この時間に、どこにいるの」
「人を二人増やした。俺が立ってなくても回る」
「二軒目、どうして手放したの」
「場所が悪かった。開けるだけ赤字になる。早く渡したほうが傷は浅い」
「渡したぶんの金は」
「別のに回した。日に何十万も動く話だ」
「何の話」
牌の音が止まって、誰かが短く叫んだ。
「悪い、切るぞ。帰りに焼き鳥買ってく」
通話は切れた。私は路地に立ったまま、画面が暗くなるのを見ていた。
その夜、母が風呂から出たあとで、私は訊いた。
「母さん、家にいくらある」
「三百万から、少し減ったくらい」
「母さんの名前で、別の口座を作って。そっちに移して、通帳は兄さんの目につかないところに置いて」
母は手を拭く途中で止めて、私を見た。それから頷く。何も訊かなかった。
翌日、母は銀行に行った。帰ってきて、通帳を食器棚の二段目、重ねた茶碗の裏に立てた。
夏の終わりに寮へ戻ってからも、私は月に二度は家にかけた。母の返事はいつも同じ形をしていた。店は回っている、返済も落ちている、直人は勉強しなさい。落ちている、という言い方を、母は銀行の窓口で覚えたらしかった。引き落としの日付を、母は台所の壁の暦に赤で囲んでいた。
十二月に、寮の廊下で電話を受けた。母だ。買ったほうの店も売ったらしい、と母は言った。うちが担保に入っているほうだ、と念を押すように付け足す。声が低かった。工場の休憩室からかけているのだとわかった。
私は兄にかけた。三度目でつながった。
「なんであの店まで売ったの。あそこは回ってただろう」
「いまがいちばん儲かるときなんだ。元手にすれば桁が変わる」
「返済はどうするの。家が担保なんだよ」
「六万だろ。一回で取り返せる」
「一回って、何の一回」
兄は笑って、電話を切った。
二軒とも、店は他人の手に渡っていた。そこから入ったはずの金が、家の口座を一度も通っていない。
*
冬の休みに帰ると、玄関の鍵が開いていた。
母の部屋で、箪笥の引き出しが三つとも抜かれていた。兄が畳の上に膝をついて、衣装ケースの底を探っている。
「兄さん」
兄は振り返らずに、手だけを止めた。
「母さん、金どこに置いてる」
何に使うのかと訊くと、ちょっとな、すぐ戻す、と兄は言った。いくら、と訊くと返事がない。私は箪笥の引き出しを一つ持ち上げて、元の場所に戻した。畳に四角い跡がついている。母の部屋は父が死んでからずっと、この家でいちばん物の少ない部屋だった。衣装ケースの中身は季節の服と、父の背広が一着。兄はその背広の袖まで裏返していた。もう一度、いくら、と訊いた。
「……三百」
兄は上着の内側から、折った紙を出した。私はそれを取って開いた。
元金三百万円。利息は年五割。日付は八月。借主の欄に兄の字がある。
利息の定めが法の上限を超えていることは、私にもわかる。超えた部分に支払いの義務がないことも、返せないなら相手にできる手続があることも、そのとき私はもう授業で習っていた。私はその紙を折り直して、兄に返した。
「うちに金はない」
「あるだろ。俺が毎月入れてた」
「兄さんが店を二つとも手放してから、家に一円も入ってない。知らないとは言わせない」
兄は立ち上がって、私の肩を押した。強い力ではない。それから台所へ行って、冷蔵庫を開けて、何も取らずに閉めた。
母が帰ってきたのは六時前だ。
私は母の手から買物の袋を受け取り、台所の床に置いた。それから、借用書を渡した。
母は紙を近くで見て、次に遠くへ持っていって、目を細めた。確かめ終わると、湯呑を両手で持った。洗っても落ちない茶渋が、内側に輪をつくっている。
「三百八十万」
「利息の分は、払わなくてもいい決まりです」と私は言った。「法律の上では」
「その話を、あの人たちのところへ持っていくの」
私は答えなかった。母は湯呑を置いた。
「借りた先は私が書いておきます」と母は言った。「直人は大学に戻りなさい」
翌朝、母は七時に出て、四時に帰ってきた。手提げの中に黒い袋が入っていた。
百十万。工場の同僚が三人、父の兄、母の妹。誰からいくら借りたかを、母は買物のレシートの裏に書いていた。通帳から下ろしたのが二百七十五万。合わせて三百八十五万になった。
*
場所は商店街の裏で、シャッターが腰の高さまで下りた店だった。
入口に男が一人立っていて、携帯の画面を見ながら、片手でシャッターを押し上げた。三人とも腰を折って入る。
中は広かった。床に殻と紙屑が散っている。煙草と、酒と、茶の匂い。牌の音と声が途切れない。兄は卓のほうを見ないようにしていたが、それでも二度見た。
奥の部屋に通された。事務机が一つ、後ろに手提げ金庫。壁際に若い男が三人座っていて、そのうち二人は私より年下に見えた。膝の上に鉄の棒がある。棒には黒いテープが巻かれていて、巻き終わりが毛羽立っていた。ここでは、それを見せておくことまでが仕事になっている。
母は入ってから手提げを胸の前で抱え直した。中身を見られないようにしたのか、落とさないようにしたのかは、私にはわからない。
机の向こうの男が、母の出した借用書を取った。抽斗から紙の束を出して、一枚ずつめくり、同じ番号のものを抜く。二枚を並べて、それから兄を見た。
「三百八十万」
母は袋を出した。帯のついた百万が三つ、あとは崩した札。一枚ずつ数えて、一枚ずつ机に置いていく。壁際の男が何か言って、二人が笑った。母の手は止まらなかった。
「合ってる」
男が顎で示すと、壁際の一人が札を抱えて奥へ運んだ。借用書が二枚、母の前に戻される。
「息子を見ておけ。返せもしないのに、こういうところで借りるな」
母は頭を下げて、二枚を袋に入れた。兄が先に出ていく。三月ぶんの家の返済と、私の学費の半年ぶんと、母が工場で二年かけて積んだものが、この机の上で山になり、奥へ運ばれて見えなくなった。時間にして二十分ほどだ。
私は戸口で立ち止まって、振り返った。呼び方を知らなかった。あの、と言うと、机の向こうから、なんだ、と返ってくる。なんとお呼びすれば、と訊いたところで、壁際の男が笑って、戸田さんだろ、と言った。
「戸田さん」
「言え」
「母は、借りられるところを全部回って、この金を作りました。今度あの人がここへ来たら、追い返してもらえませんか。家はもう担保に入っています」
戸田は私の顔を見た。二十二か、三だろう。私より少し上だ。
「学校は」
「法学部です。三年です」
戸田は机の上の札の山から、五万を抜いた。机の端に置く。
「五万だ。学費の足しにしろ」
「……いえ」
「弟は、もういない」と戸田は言った。「お前は学校に戻れ」
壁際の男が立ち上がって、その五万を私の手まで運んできた。私は受け取った。
出ていこうとすると、戸田が呼び止めた。
「携帯は持ってるか」
「持っています」
「番号を言え。俺の場所で圭一を見かけたら、俺から知らせる。うちの人間に貸させもしない」
私は番号を言った。戸田は事務机の隅の紙に、それを書き取った。




