序章 他人の名前
番号札の数字が電光板に出て、私は窓口の椅子に腰を下ろした。
カウンターに、家庭裁判所の許可書の謄本と、名の変更届と、運転免許証を並べる。並べ終わるより先に、職員の手が三枚を引き寄せていた。順番を入れ替え、届出書の記載と免許証の記載を交互に見ていく。
「永瀬さん。名のほうを、亮から直へ。これでよろしいですか」
「はい」
「姓は変わりません」
「変わりません」
職員が免許証を持ち上げた。写真と、私の顔。視線が二度往復して、手が下りる。判が押され、書類は奥の机へ運ばれていった。番号板の数字が一つ進む。
十一月の、槻浜市役所の一階だった。窓口の向こうで電話が鳴り、別の職員が受話器を取る。ここは警察署ではない。
受付票を財布に入れ、庁舎を出た。
日が低かった。駐車場の白線が長く伸びて、隣の車の影と重なっている。運転席に座ってから、免許証をもう一度出して、姓の欄を見た。永瀬。そこは何も動いていない。動かしたのは名だけだ。姓と生年月日は届出の前と後で同じものが載り、本籍の欄には私の知らない土地の名が入っている。そのどれも、私のものではない。
写真と顔を見比べられるのは、これが最初ではない。
九年前の冬、私は安宿の帳場で同じことをされている。カウンターに出したのは他人の名前が載った証書で、帳場の男は番号だけを書き写して、顔はろくに見なかった。見られていたら何を言うつもりだったのか、いまでも思いつかない。
その名前を、戸田修といった。
私はこの男ではない。この男に殺された男だ。
下の世界に流れているのは、そういう話だ。役所の記録の上では、誰も死んでいない。
エンジンをかけた。借りた部屋に戻れば、明日の起案が半分残っている。
*
家の鍵を初めて受け取ったのは、十一年前の春になる。
父は高所の作業中に落ちて死んだ。
私は汐瀬学院大学の法学部で一年を終えて、二年に上がる手前だった。大学は隣の市で、私は学生寮にいた。汐瀬は工場と、その通勤の家と、古い商店街でできた町だ。通夜も葬儀も、母と兄が立てた予定の上を歩いただけで、香典の袋を数えたのも、会社の人間に頭を下げたのも母だ。
金の話が家に出てきたのは、四十九日が済んでからだった。労災の給付があり、会社との間で賠償と和解の話が別にまとまった。葬儀の支払いを引き、もとからの蓄えを足して、母が紙に書き出した数字は三千万円。
その紙は二週間ほど、食卓の隅に置かれたままになっていた。
「家を買います」
仏壇の前で線香の灰を落としながら、母はそう言った。父の遺影は生前の写真で、社員旅行のときのものらしく、背景の端に海が写っている。
「借りているところは、狭いから」
兄は胡坐をかいたまま、うん、と言った。私も同じことを言った。
買ったのは駅から歩いて十五分の中古のマンションだった。八十平米、三部屋に台所と居間がついて、二千二百万円。諸費用も込みの金額だと母は言った。登記は母の名義にした。
残りのうち五百万円を、母は兄に渡した。店を出すための金だ。手元には三百万円を残した。
「直人の学費は、ここから出します」と母は言った。「圭一のぶんは、もう渡したから」
私は頷いた。数字の並びに穴はなかった。
引っ越しの日、私は試験期間で帰れなかった。
母は新しい鍵を封筒に入れて、寮に送ってきた。鍵が一本と、住所を書いた紙が一枚。紙には母の字で、駅からのバスの番号と、降りる停留所の名前まで書いてある。私はその鍵を机の抽斗に入れて、夏まで一度も使わなかった。
夏に帰ったとき、私はその番号のバスに乗った。六つ目の停留所で降りる。降りてから、前に住んでいた方角を一度だけ見た。
新しい建物は外壁がまだ白かった。封筒の鍵はエントランスの扉も開く。四階で降りて、廊下の端から二番目の扉の前に立った。表札は母の字で、真壁、とだけ書いてある。
開けると、台所で圧力鍋が噴いていた。私の声は届かなかったらしい。玄関にはサイズの合うスリッパが二足あって、片方はこれから私のものになるのだと知った。
仏壇は洋室の隅に置かれていた。前の家では箪笥の上にあったものが、ここでは床に脚をつけている。線香を一本立てて、手を合わせた。写真の背景の海は、この部屋の照明の下では灰色に近い。
「母さん、ただいま」
二度目で母が振り返った。
夕飯の膳に兄はいなかった。
「店が回ってるのよ」と母は言った。「昼と夜と、通しで入ってる」
「どのくらい出てるの」
母は指を折った。「昼に六十、夜に五十くらい。一食八百円として、ひと月で二百六十万」
「残るのは」
「家賃と、仕入れと、人を二人使って、三十万か、四十万」
母の工場の手取りは十六万だった。私は茶碗を持ったまま、桁の差を二度なぞった。
*
兄が帰ってきたのは十時を回ってからだ。
私は机で法学の入門書を開いていた。廊下の足音が部屋の前で止まり、返事を待たずに扉が開く。汗の匂いがした。兄は手に持っていたものを、開いたページの上に置いた。
「直人、これ」
二つ折りの携帯電話だった。薄い青の。
「兄さんの」
「お前のだ。番号はもう入れてある。俺と、母さんと」
兄は私の頭に手を置いて、二回叩いた。
「勉強しろよ。こっちは回ってるから」
扉が閉まる。廊下の先で風呂の湯を出す音がした。
兄は私より七つ上で、名前を圭一という。中学を出てから職を転々として、二十一で料理屋の下働きに入り、六年そこにいた。父が死ぬまでの何年かは、家の中でいちばん大きな声を出す人間だった。店を始めてからは声が小さくなり、朝は五時に出て、夜は十時に帰ってくる。
その月から、兄は私の口座に毎月三万円を振り込むようになった。振込人の欄には、いつもカタカナで兄の名前が並んでいる。
春の休みに、私は何日か店に入った。
十四席のカウンターと、小上がりが一つ。昼の山は十一時半から一時までで、その間は私が水と丼を運ぶ。兄は厨房から出てこない。レジの脇には輪ゴムがいくつも重ねて置いてあって、誰も使わないまま増えていた。
「直人、どんぶり二つ」
「はい」
言葉はそれだけだ。夜の山が終わると、兄は暖簾を下ろして、丸椅子に座って煙草を吸った。
年末年始の休みに、兄が話を出した。
「母さん、あの店、買わないか」
「買う?」
「家主が千二百万でいいと言ってる。借りてるあいだは、いくら回しても家主の儲けだ。客のつき方を見て、そのうち自分でやると言い出すかもしれない」
母は箸を置いた。「うちに三百万あるけど、あれは直人の学費です。手をつけません」
「わかってる。店の手元から二百万出す」
「残りは」
「貯めるあいだに取られたら、同じことだ」
銀行の話を持ってきたのも兄だった。兄の名義で千万円を借りる。担保は、この家。月の返済は六万円。
「家を担保に」
私が言ったのはそれだけだ。
「返済は店から出す」と兄は言った。「六万だぞ。一日にしたら二千円だ」
母は湯呑を両手で持ったまま、しばらく黙っていた。
「名義は私のままにします」と母は言った。「担保には、出します」
それで決まった。仕事始めの週に、兄は契約に行った。
二軒目の話が出たのは、その年の春だ。
居抜きの賃貸で、権利の分だけ払えば来月から開けられる、と兄は電話で言った。金は店の手元から出す。回すのは昔の料理屋で一緒だった男に任せる。私は寮の廊下でその電話を受けて、家賃はいくらか、契約は何年か、と訊いた。兄は、そのへんは大丈夫だ、と言った。
夏に帰ると、二軒目はもうなかった。
「売ったって」と母が言った。
「売った? 借りてる店だろう」
「中の物を、引き継ぐ人に渡したんだって。そのぶんのお金は入るって言ってた」
母は食器棚の引き出しから、家計のノートを出してきた。日付と、入ってきた金額と、出ていった金額が、母の字で一行ずつ並んでいる。六月の欄に、兄からの入金が一つもない。七月も同じだった。
私はノートを手前に引いて、指で行をなぞった。




