1-8
翌日。
ルナは部屋で一人考えていた。
「私も、自分でできることをしておかないと」
旅に必要な物の準備はミア。
道や宿場町のことはレオ。
二人に任せきりというわけにはいかない。
何か、自分にもできることがあるはずだった。
「身の回りのことは……何とかなると思う」
もちろん、簡単ではない。
けれど前世の記憶がある今なら、料理も洗濯も掃除も分かる。
むしろ心配なのは別のことだった。
「体力、かな」
ルナは苦笑する。
貴族令嬢として育ち、長時間歩くことなどほとんどなかった。旅に出れば、今までとは比べものにならないほど歩くことになるだろう。
今から急に体力がつくとは思えない。
それでも、何もしないよりはいい。
「少しずつ運動した方がいいかもしれない」
そう呟いてから、ふと思い出した。
「あとは……魔法」
属性を持たないルナに使えるのは、初歩的な生活魔法だけだった。
ウォーター、ファイア、ドライ、キュア、クリーン、ライト。
基本となる生活魔法は、この六種類。
幼い頃に一通り習ってはいるものの、これまで実際に使う機会はほとんどなかった。
身の回りのことは使用人たちがしてくれるし、貴族社会で重視されるのは生活魔法よりも属性魔法だ。
ルナ自身も、十五歳になって属性が判明してから本格的に魔法を学ぶものだと思っていた。
「でも、これからは自分で使うことになるのよね」
旅に出れば、水を用意することも、火を起こすことも、明かりを灯すことも自分たちでしなければならない。
「練習しておいた方がよさそう」
何から試そうかと考え、自然と笑みがこぼれる。
「やっぱり、クリーンかな」
前世で読んだファンタジー小説にもよく登場した魔法だ。
生活魔法のクリーンは、服や体についた埃や軽い汚れを落とすためのものだと教わっている。
ルナは少し緊張しながら、自分に手を向けた。
「クリーン」
しかし、何も起こらない。
「あれ?」
首を傾げる。
昔習った時は、魔法を使う時には結果を思い浮かべるように言われた。
ルナは改めて、自分の体が綺麗になるところを想像する。
(綺麗になる……)
そこで頭に浮かんだのは、前世で毎日のように使っていたシャワーだった。
温かいお湯で髪や体を洗い、石鹸やシャンプーで汚れを落とす。
風呂から上がった後の、さっぱりとした感覚。
「クリーン」
次の瞬間、淡い光が全身を包んだ。
「……!」
ルナは驚いて自分の腕を見る。
目立った変化はない。
けれど、肌に触れてみると、先ほどまでとは明らかに感覚が違った。
「すごい……」
まるでお風呂に入った後のように、全身がさっぱりしている。
髪に触れてみても、さらさらとして気持ちがいい。
「これ、すごく便利かも」
思わず頬が緩んだ。
旅先で毎日お風呂に入れるとは限らない。
これだけ綺麗になるなら、かなり役に立ちそうだった。
「他の魔法も試してみようかな」
今度は机の上から空のコップを持ってくる。
生活魔法のウォーターで出せるのは、コップ一杯ほどの水。
飲み水を少し用意する程度の魔法だと教わっている。
ルナはコップに手を向けた。
「ウォーター」
手のひらの先に水が現れ、コップの中へ落ちていく。
「……できた」
量は教わった通り、コップ一杯ほどだった。
ルナは満足そうに頷きかけて、ふと手元を見る。
「これって……」
もう一度、空になったコップを置く。
先ほどは、ただ水を出すことだけを考えた。
けれど前世では、水はこんなふうに現れるものではなかった。
蛇口をひねれば、水が流れ出す。
必要な量だけ使って、止める。
勢いだってある程度は調整できた。
「同じようにできないかな」
ルナは手のひらをコップに向ける。
蛇口から細く水が流れ出す様子を思い浮かべた。
「ウォーター」
すると今度は、先ほどとは違った。
水が一度に現れるのではなく、手のひらの先から細い流れとなって注がれていく。
「……あ」
ルナは目を輝かせた。
「止まって」
そう意識すると、水はぴたりと止まった。
「できた……!」
出せる水の量そのものは、先ほどと変わらない。
けれど、出し方を変えることはできた。
もう一度試してみる。
今度は少しだけ勢いを強くする。
すると、先ほどより勢いよく水が流れ出した。
「面白い……」
ルナは夢中になって何度か試した。
細く出す。
少し勢いをつける。
途中で止める。
どれも、頭の中でしっかりと思い浮かべれば、その通りに水が動いてくれる。
「魔法って、思っていたより自由なのかも」
今まで生活魔法を真剣に使おうと思ったことなどなかった。
属性魔法に比べれば、簡単で大したことのない魔法。
そんなふうに思っていた。
けれど、使い方次第ではいろいろなことができるのかもしれない。
それから数日が過ぎた。
その間にも、屋敷は日に日に慌ただしくなっていった。
招待状への返事が届き、お祝いの品が次々と運び込まれる。使用人たちは朝から晩まで、屋敷中を忙しそうに行き来していた。
ルナもできるだけ普段通りに過ごしながら、少しずつ準備を進めていた。
旅に持っていく物を選び、エレンジア王国について書かれた本を読む。
そして時間がある時には、生活魔法の練習も続けていた。
ある日の午後。
ノックとともに、ミアが部屋に入ってきた。
「ルナ様、お願いされていたものを買ってきました」
「ありがとう」
ミアから荷物を受け取ったルナは、ふとその袖口に目を留めた。
「あれ?」
「どうかしましたか?」
「服、汚れてるわよ」
袖には薄く土埃がついていた。
「ああ、買い出しの途中で荷物を運ぶのを手伝ったので、その時についたみたいです」
「それなら、ちょうどいいわ」
ルナはミアに手を向ける。
「最近、生活魔法の練習をしてるの。試してもいい?」
「はい。構いませんけど……」
「じゃあ、そのままでいてね」
ルナは汚れた袖を見つめる。
前に自分に使った時と同じように、汚れをきれいに洗い落とすところを思い浮かべた。
「クリーン」
淡い光がミアの体を包む。
すぐに光が消え、袖についていた汚れもきれいに消えていた。
「うん。大丈夫そうね」
ルナは満足そうに頷く。
「やっぱり便利ね、クリーンって」
しかし、ミアから返事がない。
「ミア?」
顔を上げると、ミアは自分の袖を不思議そうに見つめていた。
指先で布地に触れ、それから自分の髪にも触れる。
「……ルナ様」
「何?」
「今の、本当にクリーンですか?」
「え?」
予想もしなかった質問に、ルナは目を瞬かせた。
「そうだけど……」
「私が使うクリーンと、少し違います」
「違う?」
ミアは頷いた。
「普通のクリーンでも、体についた埃や汚れは落とせます。でも、今のはそれだけじゃなくて……」
ミアは自分の髪に触れる。
「髪もさらさらしていますし、汗をかいた後の感じまでなくなっています」
言われてみれば、ミアの髪は先ほどよりさらりとして見えた。
「普通は違うの?」
「はい。こんな、お風呂に入った後みたいにはなりません」
ミアも生活魔法なら使える。
孤児院にいた頃から日常的に使ってきたという。
「……そうなの?」
ルナは自分の手を見る。
自分に使った時は、クリーンとはこういう魔法なのだと思っていた。
生活魔法をほとんど使ったことがなかったため、疑問にも思わなかったのだ。
「私、何か間違えてるのかな」
「間違えているというより……」
ミアも困ったように首を傾げる。
「普通と少し違う、という感じでしょうか」
「普通と違う……」
ルナはその言葉を小さく繰り返した。
ミアが部屋を出たあとも、ルナは先ほどのことを考えていた。
「普通のクリーンとは違う……」
思い返せば、最初にクリーンを使った時、ルナは前世で風呂に入った時のことを思い浮かべていた。
石鹸で体を洗う。
髪を洗う。
汗や皮脂を落として、清潔にする。
もしかすると、そのイメージが魔法に影響したのだろうか。
「でも、そんなことって……」
そこで、ふと一冊の本を思い出した。
「あ」
ルナは本棚に向かい、並んでいる本を順番に確認する。
やがて一冊の本を見つけ、取り出した。
学園への入学準備として、家庭教師から渡されていた魔法の入門書だ。
「確か、この辺に……」
椅子に腰を下ろし、ページをめくっていく。
魔力について。
属性について。
魔法を使う際の基本。
そして、ある一文で指が止まった。
『魔法は術者のイメージによって結果が左右されることがある』
「イメージ……」
ルナはその一文をじっと見つめた。
クリーンを使った時は、風呂に入った後のように清潔になることを思い浮かべた。
ウォーターを使った時もそうだ。
ただ水を出すのではなく、蛇口から流れる水を思い浮かべたところ、出し方を調整することができた。
「もしかして……」
魔法そのものが普通より強いわけではない。
ただ、自分が思い浮かべているものが、ほかの人とは少し違うのかもしれない。
ルナには前世の記憶がある。
この世界にはない道具も、仕組みも知っている。
それを具体的に思い浮かべることができれば——。
「他の生活魔法も、使い方を変えられるのかな」
ルナは六つの生活魔法を思い浮かべる。
ウォーター、ファイア、ドライ、キュア、クリーン、ライト。
どれも初歩的で、当たり前に使われている魔法だ。
けれど、使い方まで一つと決まっているわけではないのかもしれない。
いくつか試してみたいことが浮かんだ。
けれど、何が起こるか分からない。
今は家を出る直前だ。失敗して騒ぎになれば、これまでの準備がすべて無駄になる。
「今はやめておこう」
家を出るまでは、できるだけ普段通りに過ごす。
レオともそう約束している。
ルナは本を閉じた。
「旅に出たら、いろいろ試してみよう」
どんなことができるのか。
自分でもまだ分からない。
思いついたことを忘れないよう、紙とペンを取り出す。
「記録もつけた方がいいわね」
新しい発見に、自然と笑みがこぼれた。
◇◇◇
そして、お披露目式の前日の夜。
ルナは荷造りを終えた鞄に目を向ける。
必要最低限の着替え。
小さな水筒とタオル。
それに、旅に必要な細々とした物。
それだけだった。
部屋をゆっくり見渡す。
大きな本棚。
机。
幼い頃から使ってきた家具。
どれも、この屋敷で過ごした十五年間の思い出ばかりだった。
ふと、視線の先にある小さな箱が目に入った。
手に取って開くと、中には一つの髪飾りが入っている。
淡い紫色の小さな花を模した髪飾り。
昔、リアと一緒に王都で買ったものだった。
あの日は、どちらにするか二人で何度も迷って。
結局、色違いを一つずつ選んだのだった。
「懐かしいな……」
自然と笑みがこぼれる。
リアとは、属性判定の日からまともに話していない。
神殿にも通い、お披露目式の準備もあって、屋敷にいても忙しそうだった。
それに——。
ルナも会いに行くことができなかった。
会えば、きっと聞いてしまう。
『リアは……どう思ってるの?』
その答えを聞くのが怖かった。
もしリアも両親と同じように、『修道院へ行くしかない』と思っているのなら、きっと心置きなく家を出られる。
けれど、もし違ったら。
『行かないで』と言われたら。
『一緒にいたい』と言われたら。
自分は、その言葉を振り切って家を出られるだろうか。
分からなかった。
だから会わなかった。
会いに行く勇気が持てなかった。
気が付けば、いつからか二人は本音を話さなくなっていた。
子どもの頃は、何でも話していたはずなのに。
ルナは、笑顔で誰とでも話せるリアが羨ましかった。
その気持ちを、一度も口にしたことはない。
だからリアも、知るはずがなかった。
「もっと素直になれていたら……」
小さく呟く。
何か変わっていただろうか。
もっと話ができていたら。
もっと本音を伝えられていたら。
今とは違う未来があったのだろうか。
答えは分からない。
コンコン。
控えめなノックが部屋に響いた。
「ルナ様」
聞き慣れた声に、ルナは振り返る。
「入って」
扉が開き、ミアが微笑みながら部屋に入ってくる。
「いよいよ明日ですね」
「ええ」
ルナも静かに頷いた。
「準備はできているわ」
その一言に、ミアも力強く頷き返した。
「明日になれば、もう後戻りはできない」
「はい」
「怖くないわけじゃないけど、不思議と落ち着いているの」
「私もです」
二人は小さく笑った。




