王都前編 3
翌朝。
朝食を済ませたルナたちは、王都に向けて町を出発した。
ラズも一緒だ。
昨日よりは少し落ち着いたように見えるものの、相変わらずほとんど口を開かない。
「ラズ、水いる?」
ミアが水筒を差し出す。
ラズは少し迷ってから受け取り、一口だけ水を飲んだ。
「……ありがとう」
「うん」
返された水筒を、ミアはそのまましまった。
ラズはレオの隣に座り、時折窓の外に目を向けている。
昨日とは違い、馬車の中で会話がまったくないわけではなかった。
それでも、いつもの旅と比べれば静かだった。
ルナも流れていく景色を眺めながら、何度かラズに目を向けた。
王都に着いたら、ラズはどうなるのだろう。
昨日、自警団からは王都で身元や親族を調べてもらうと聞いている。
それでも、その先のことまでは分からない。
そんなことを考えているうちに、馬車は街道を進んでいった。
しばらく走ったところで、馬を休ませるために休憩を取ることになった。
ルナは馬車を降りると、大きく身体を伸ばす。
「んー……」
「ずっと座ってると疲れるよね」
隣でミアも身体を伸ばしている。
レオは御者と一緒に馬の様子を見に行った。
ラズは少し迷ったあと、その後をついていく。
マシューも周囲を確認してから、そちらに向かった。
ルナが何気なく辺りを見回すと、少し離れたところにリアムの姿を見つけた。
片手を前に出し、その上に水を浮かべている。
「またやってる」
昨日見せてもらった魔法だ。
ルナはリアムの方に歩いていった。
「リアム」
「ルナ」
「昨日の続き?」
「うん」
リアムの手の上には、丸い水の塊が浮かんでいる。
「昨日より冷たくなった?」
「たぶん同じくらい。これ以上はなかなか難しくて」
「触ってもいい?」
「いいよ」
ルナはそっと指先で水に触れた。
「冷たっ……」
思わずすぐに指を離す。
これだけ冷たいのに、見た目は普通の水と変わらない。リアムも水を見つめた。
「ここまで冷えてるなら、もう氷になってもいいと思うんだけどな」
「氷……」
ルナも水を見る。
冷たいのに、凍らない。
その言葉が妙に引っかかった。
「……あれ?」
「どうしたの?」
「なんか、こういうの……」
ルナは眉を寄せて記憶を探った。
前世で聞いたことがあった気がする。
何かの授業だったのか、それとも別のところで見たのか。
「すごく冷たいのに、凍ってない水があったような……」
「冷たいのに凍らない?」
「うん」
そこで、もう一つ思い出す。
「確か……何かきっかけがあると、一気に凍るんじゃなかったかな」
「きっかけ?」
「衝撃……だったと思う」
リアムが興味深そうにルナを見る。
「でも、はっきり覚えてないよ」
ルナは慌てて付け加えた。
「そういうのを見たことがある気がするってだけだから」
「やってみれば分かるよ」
「やるの?」
「もちろん」
リアムはすぐに水に視線を戻した。
指先で水の表面を軽く弾いてみる。
二人で見守った。
「……」
「……変わらないね」
「うん」
今度は水を小さく揺らしてみる。
それでも水は凍らなかった。
「違ったかな……」
「まだ分からないよ」
リアムは一度水を消し、新しく作り直した。
今度は先ほどより慎重に冷やしていく。
冷やす時間を変えたり、刺激の与え方を変えたりして何度か試してみた。
それでも結果は変わらない。
「うーん……」
リアムが考え込む。
「ごめん。やっぱり私の記憶が間違ってるのかも」
「いや。まだ試せることはあるよ」
リアムは楽しそうに手の上の水を見つめる。
「今度は、できるだけ水を動かさないでやってみよう」
「動かさない?」
「うん。さっきまで何度も動かしたり触ったりしてたから。今度は冷やすことだけに集中してみる」
リアムはそう言うと、再び水を作り直した。
今度は形を変えたりせず、ゆっくりと冷やしていく。
十分に冷えたところで、リアムがルナを見る。
「これで刺激を与えてみようか」
「うん」
リアムは指先を近づけ、そっと水に触れた。
その瞬間——。
「……あ」
ルナが声を漏らした。
水の一部が白く変わった。
そこから広がるように、透明だった水が次々と凍っていく。
あっという間に、リアムの手の上には小さな氷の塊ができていた。
「……凍った」
リアムが呟く。
ルナも目を丸くして氷を見る。
「凍ったね……」
二人はしばらく黙ったまま、それを見つめた。
先に顔を上げたのはリアムだった。
「できた!」
「うん!」
ルナも思わず笑う。
「すごいよ、リアム! 本当に氷になった!」
「やっとできた!」
リアムは嬉しそうに氷を眺め、角度を変えながら確かめる。
「でも、なんで今のは凍ったんだろう」
「分からない……」
「じゃあ、もう一回やってみよう」
「え、もう?」
「一回できただけじゃ分からないでしょ。同じようにやって凍るか確かめないと」
「やっぱり続けるんだ」
「もちろん」
嬉しそうに新しい水を作り始めたリアムを見て、ルナはくすりと笑った。
その後も何度か試し、失敗を挟みながらも、同じように氷を作ることには成功した。
ただ、まだ毎回うまくいくわけではないらしい。
どうやら詳しいことが分かるまで、リアムの実験はしばらく続きそうだった。
昼を過ぎた頃。
馬車の窓から、大きな城壁が見えてきた。
「あれが王都?」
「うん。もうすぐ着くよ」
リアムの言葉に、ルナは窓の外に目を向ける。
高い城壁の向こうには、いくつもの建物の屋根が見えていた。
本来なら、初めて訪れる王都にもっと胸を躍らせていただろう。
市場はどこにあるのか。
どんな店が並んでいるのか。
見たことのない食材があるかもしれない。
きっと、真っ先にそんなことを考えていた。
けれど今は、それよりも隣に座るラズのことが気になった。
休憩のあとも、ラズはほとんど何も話していない。
やがて馬車は門を抜け、王都に入った。
広い通りには多くの人が行き交い、その両側には店がずらりと並んでいる。
「すごい……」
ミアが小さく呟いた。
ルナも思わず辺りを見回す。
これまで立ち寄ったどの町よりも人が多い。
ゆっくり見て回りたい気持ちはあったが、まずはラズのことを騎士団に伝えなければならなかった。
「先に騎士団に行こう」
マシューが言う。
「昨日の町から報告は送られているはずだ。ラズのことも引き継いでおいた方がいい」
「うん」
ルナたちも頷いた。
リアムに案内され、王都の騎士団の詰所に向かう。
中に入り、近くにいた騎士にマシューが声をかけた。
「街道で起きた襲撃事件について報告したい」
「襲撃事件ですか?」
騎士がこちらを向く。
そしてマシューの隣に立つリアムを見た瞬間、その表情が変わった。
「……リアム殿下?」
慌てて姿勢を正す。
「お戻りになっていたのですか」
「うん。ついさっき王都に着いたところ」
リアムはいつもと変わらない調子で答えた。
「それより、街道の事件について先にお願いしたいんだけど」
リアムがラズに目を向ける。
騎士もすぐに表情を引き締めた。
「失礼いたしました。お話を伺います」
リアムが王弟だと知ってはいたものの、こうして王都で実際に「殿下」と呼ばれている姿を見ると、やはり少し不思議な感じがする。
ルナにとってリアムは、魔法のことばかり考えている好奇心旺盛な仲間だった。
けれど、ここはエレンジア王国の王都だ。
リアムが王族であることを、改めて実感する。
マシューが街道で起きたことを簡単に説明すると、騎士はすぐに頷いた。
「その件でしたら、すでに報告が届いております。犯人五名を拘束し、近くの町の自警団に引き渡した事件ですね」
「ああ」
マシューが答える。
「こちらが、生き残った少年だ。名前はラズ。十二歳。亡くなった二人が両親だということは本人から確認している」
「そうでしたか……」
騎士がラズを見る。
ラズはレオの近くに立っていたが、騎士と目が合うとすぐに視線を逸らした。
騎士もそれ以上話しかけようとはしなかった。
「今すぐ詳しくお話を伺うのは難しそうですね」
「ああ。昨日から必要なこと以外はほとんど話していない」
「承知しました。事情を伺うのは、もう少し落ち着いてからにしましょう」
騎士は手元の書類に何かを書き留める。
「こちらでも亡くなられたお二人の身元を確認し、親族がいないか調べます」
「お願いします」
ルナが頭を下げた。
「それで……ラズはこれからどうなるんですか?」
ミアが尋ねる。
騎士は少し考えてから答えた。
「親族が確認できるまでは、王都で保護することになります。騎士団で一時的な滞在先を手配することもできますし、長くなるようであれば孤児院に協力を頼むこともありますが——」
「孤児院には行きたくない」
突然聞こえた声に、ルナたちはラズを見る。
ラズは俯いていた。
けれど、今度はもう一度、はっきりと言った。
「行きたくない」
昨日からほとんど自分の意思を口にしなかったラズが、初めて強く拒んだ。
レオがラズを見る。
「孤児院が嫌なのか?」
ラズは小さく頷く。
「……うん」
レオも、それ以上は聞かなかった。
ルナは少し迷ってから騎士を見る。
「あの……親族が見つかるまで、私たちと一緒にいることはできませんか?」
「皆様が、ですか?」
「はい。私たちはしばらく王都に滞在する予定です」
「あたしも大丈夫です」
ミアも頷く。
「俺も構わない」
レオも続けた。
騎士はすぐには答えず、三人を順番に見る。
それからリアムとマシューに目を向けた。
「殿下、こちらの方々の身元は?」
「俺とマシューが保証するよ。ここまで一緒に旅をしてきた仲間だから」
「俺も問題ないと判断している」
マシューも答える。
騎士は少し考えてから頷いた。
「分かりました。本人もそれを望み、殿下とマシュー殿が身元を保証されるのであれば、親族が確認できるまで一緒にいていただくことは可能です」
ルナはほっと息を吐く。
「ただし、王都での滞在先が決まりましたら、必ずこちらに届け出てください。また、ラズ君の親族が見つかった場合や、事件についてお話を伺う必要がある場合には、こちらから連絡します」
「はい」
「王都を離れる場合も、その前にお知らせください」
「分かりました」
騎士が頷いてから、ラズを見る。
「ラズ君は、それでいいですか?」
突然尋ねられ、ラズは一瞬戸惑ったようだった。
それからルナたちを見て、最後にレオに目を向ける。
「……この人たちといる」
「分かりました」
騎士はそれ以上何も聞かず、書類に記入した。
こうして、親族が見つかるまでの間、ラズはルナたちと一緒に過ごすことになった。
騎士団を出ると、ミアがリアムを見る。
「やっぱり王都だと、リアムのこと知ってる人が多いんだね」
「まあ、騎士団ならね」
リアムは特に気にした様子もなく答える。
「騎士団の仕事を手伝うこともあるから、顔を知ってる人は多いと思う」
「さっきまで一緒に馬車に乗ってたから、なんか変な感じ」
ミアが言うと、ルナも少し分かる気がした。
旅をしている間は、リアムが王族だということを意識する機会はほとんどなかった。
けれど王都では、これからこういうことも増えるのかもしれない。
「じゃあ、次は宿だね」
リアムが言う。
「王都にいる間、しばらく泊まれるところがいいな」
レオが答える。
「それなら、この先にある宿がいいと思う」
リアムが道の先を指す。
「大通りから少し入ったところにあるから比較的静かだし、長く泊まることもできる。市場にも商業ギルドにも行きやすいよ」
「それならそこにしよう」
ルナが頷いた。
「俺たちはここで別れるね」
リアムが言う。
「王宮に戻ったことを報告しないといけないから」
「分かった」
ルナは頷く。
「またあとでね」
「うん」
リアムに宿までの道を教えてもらい、ルナとミア、レオはラズと一緒に歩き出した。
リアムとマシューも四人を見送ったあと、王宮に向かう。
こうして、エレンジア王国の王都での生活が始まることになった。
◇◇◇
王宮に戻ったリアムとマシューは、そのままアーサーの執務室へ向かった。
休暇から戻ったことを、まず兄であるアーサーに報告しなければならない。
部屋に入ると、アーサーは机に積まれた書類に目を通していた。
その少し離れたところには、もう一人見慣れた人物がいる。
「あれ、ディオン兄もいたんだ」
「悪いか?」
リアムの二番目の兄であるディオンが呆れたように答えた。
「そういう意味じゃないよ」
「第二騎士団の報告に来ていたところだ」
ディオンはリアムの後ろにいるマシューにも目を向ける。
「マシューも帰ったか」
「ああ」
「二人とも戻ったか」
アーサーが書類を置く。
「ただいま、兄上」
リアムが答えた。
「途中で少しあって、報告したいことがあるんだけど」
「何があった?」
リアムは街道で起きたことを順番に説明した。
街道に止まっていた馬車。
助けを求めてきた女性。
襲いかかってきた五人の男たち。
女性は助けることができず、馬車から少し離れた街道脇では、すでに亡くなっていた男性も見つかった。
そして、生き残ったのは、亡くなった夫婦の息子である少年だけだった。
「襲撃した五人は?」
「全員生きてる。近くの町の自警団に引き渡してきたよ」
リアムが答える。
「いずれ王都に移送されるだろうね」
アーサーの表情が険しくなる。
ディオンも先ほどまでとは違う真剣な表情になっていた。
「生き残った子供からは何か聞けたのか?」
「ほとんど何も。ラズって名前で、十二歳。亡くなった二人が両親だってことくらいかな」
リアムは続ける。
「さっき王都の騎士団にも報告してきたよ。身元と親族を調べてもらうことになってる」
「今、その子は?」
「ルナたちと一緒にいる」
アーサーがリアムを見る。
「孤児院に預ける話も出たんだけど、本人が嫌がってね。騎士団とも話して、親族が見つかるまではルナたちが預かることになった」
「騎士団が滞在先を把握し、お前たちも身元を保証しているのなら問題ないだろう」
アーサーは頷いた。
「子供から話を聞くのも、落ち着いてからでいい」
それからディオンに目を向ける。
「犯人たちが王都に移送されたら、第二騎士団でも調べてくれ」
「分かりました」
ディオンが答える。
「俺からもお願い」
リアムが言った。
「何であの家族が襲われたのか分からないんだ。ただの物取りなのか、それとも何か理由があったのか」
「ああ。移送され次第、話を聞く」
「ありがとう」
リアムは頷いた。
そこで、ふと思い出す。
「そういえば、前に調べてた窃盗事件はどうなったの?」
「ああ……」
ディオンが小さく息を吐いた。
「まだ続いてる」
「まだ終わってなかったの?」
「簡単に言うな」
呆れたように返され、リアムは肩をすくめる。
「お前が出ていったあと、急に連中の動きが鈍った」
「逃げた?」
「いや。こっちが近づいていることに気づいたんだろう」
ディオンは机の上に置かれた書類に目を向ける。
「それまで追えていた人や物の動きが急に途切れた。取引場所も連絡方法も変えた可能性が高い」
「じゃあ、捜査が止まってる?」
「完全に止まったわけじゃないが、手掛かりは減ったな」
ディオンはそう言ってから、リアムを見る。
「だからといって暇なわけじゃないぞ」
「分かってるよ」
リアムは笑う。
「でも、今回の件もお願い」
「分かったと言っただろう」
ディオンがため息をついた。
「他に報告は?」
アーサーに尋ねられ、リアムは少し考える。
「あ」
その声に、マシューが嫌な予感がしたようにリアムを見る。
「まだあるのか」
「あるよ。大事なことが」
リアムは先ほどまでとは打って変わって笑顔になった。
「氷ができた」
「……氷?」
アーサーが眉を寄せる。
ディオンもリアムを見る。
「うん。水魔法で」
「水魔法で氷を作ったのか?」
ディオンに聞かれ、リアムは頷いた。
「できたのはできたけど、まだ詳しいことは分からないよ。何回か成功しただけだから」
「そうか」
アーサーは少し考える。
「なら、研究所で調べろ」
「そのつもり。明日行ってくる」
リアムはすぐに答えた。
「休暇も終わりだし、ちょうどいいでしょ」
「ああ。ただし今日は休め」
「ちゃんと休むよ」
隣でマシューがため息をつく。
「その言葉を信用するのは難しいですが」
「何で?」
「今すぐ研究所に行こうという顔をしているからです」
「してないよ」
「してます」
ディオンが小さく笑う。
「相変わらずだな」
「ディオン兄まで何だよ」
「お前が研究に夢中になると周りが見えなくなるのは昔からだろう」
「そこまでじゃないよ」
リアムが反論すると、マシューとディオンが揃って黙る。
「……何で二人とも何も言わないの?」
アーサーまで小さく笑った。
「とにかく、研究は明日からにしろ」
「分かったって」
リアムは渋々頷く。
けれどその頭の中では、すでに明日研究所に行ったら何から試そうかと考え始めていた。




