王都前編 1
「皆さん、お元気で。お気をつけてください」
月花亭の前で、ソフィーが笑顔で手を振る。
「うん。ソフィーも元気でね」
「またマレットに来たら、絶対に寄るからね!」
ルナに続いて、ミアも大きく手を振った。
「はい! 待っています!」
ソフィーに見送られながら、ルナたちは馬車に乗り込んだ。
やがて馬車がゆっくりと動き出す。
窓から顔を覗かせると、花祭りを終えたばかりのマレットの町並みが少しずつ遠ざかっていった。
「楽しかったね、マレット」
隣に座ったミアが名残惜しそうに呟く。
「うん。お店も出せたし、ソフィーとも仲良くなれたし」
短い滞在だったが、いろいろなことがあった。
初めて自分で商品を考え、露店を出したことも、祭りの最後にみんなで踊ったことも、ルナにとって大切な思い出になっている。
「でも、次はいよいよ王都だね!」
ミアが気持ちを切り替えるように声を弾ませた。
「王都かぁ……。どんなところなんだろう」
「クリーヴランドの王都より大きいのかな?」
「さあな。俺も行ったことないから分からない」
レオが答えると、ミアが向かいに座るリアムに顔を向けた。
「リアムは知ってるんでしょ?」
「もちろん。俺の住んでるところだからね」
「じゃあ、何があるの?」
「何って言われてもなあ。店も多いし、人も多いし……」
リアムが考え込む。
「市場も大きい?」
「ルナが気になるのはそこなんだ」
すぐに返され、ルナは少しだけ頬を膨らませた。
「だって、王都ならいろんな食材がありそうだから」
「否定はしないよ。エレンジア各地からいろんなものが集まってくるから、ナキールやハセンで見たものも売ってると思う」
「本当?」
思わず身を乗り出すと、隣でミアが笑った。
「ルナ、嬉しそう」
「だって楽しみなんだもん」
王都に着いたら、まず市場を見てみたい。
どんな食材が並んでいるのか。それを考えるだけでもわくわくしてくる。
「王都にはしばらくいるんだよね?」
「ああ。そのつもりだ」
レオが頷く。
「俺たちも、王都に着いたら一度報告に行かないとな」
マシューの言葉に、リアムが少しだけ嫌そうな顔をする。
「分かってるよ」
「ならいい」
そんな二人のやり取りに、ルナたちは笑った。
これまで町から町への移動ではレオが御者を務めることも多かったが、今回は王都まで距離もあるため、マレットで御者付きの馬車を手配している。
おかげでレオも今日は馬車の中だ。
揺れる馬車の中で話しているうちに、マレットの町はすっかり見えなくなっていた。
これから向かうのは、エレンジア王国の王都。
どんな場所なのだろう。
どんなものが待っているのだろう。
ルナはまだ見ぬ王都に思いを馳せながら、流れていく景色を眺めていた。
しばらくして——。
「……あれ?」
前方から、御者の不思議そうな声が聞こえた。
「どうかしました?」
レオが声をかける。
「いや、道の先に馬車が止まっていまして」
その言葉に、ルナも前方を覗いた。
少し先の街道に、一台の馬車が止まっている。
その周りには、数人の男たちの姿があった。
馬車は速度を落としながら、道の脇に止まっている馬車へと近づいていった。
「どうかしましたか?」
御者が声をかけると、馬車のそばにいた男の一人がこちらを向いた。
「ああ、ちょっと車輪をやっちまってな」
男はそう言って、馬車の後ろを指さす。
「大したことじゃない。すぐ直るから、気にせず先に行ってくれ」
「そうですか。それなら——」
御者が再び馬を進ませようとした、その時だった。
向かいに座っていたマシューの顔つきが変わった。
先ほどまでの穏やかな表情は消え、鋭い目で男たちの様子を窺っている。
ルナは不思議に思ってマシューを見る。
「マシュー?」
しかし、マシューは答えなかった。
代わりにリアムへ視線を向ける。
ほんの一瞬だった。
それだけで何かを察したのか、リアムの表情からも笑みが消える。
「……どうしたの?」
ミアが小声で尋ねる。
「車輪が壊れたと言っていたな」
マシューが低い声で言った。
「うん」
「それにしては、誰も修理してない」
「あ……」
ルナはもう一度、外を見る。
確かにそうだった。
馬車の周囲には数人の男がいる。
それなのに、車輪を調べている者も、修理しようとしている者もいない。
ただ立ったまま、こちらの様子を窺っている。
そう思って見ると、先ほどまでは何とも思わなかった男たちの姿が、急に不自然に感じられた。
レオも外を確認し、表情を引き締める。
その手が腰の剣へと近づいた。
「まだ抜くな」
マシューが小さな声で制する。
「ああ」
レオが頷く。
マシューは御者の方に身体を寄せた。
「このまま進んでくれ。ただし、あの馬車から少し離れたところで止めてほしい」
「え?」
御者が戸惑ったように振り返る。
「何かおかしい。念のためだ」
「……分かりました」
マシューの様子からただ事ではないと察したのか、御者はそれ以上聞かなかった。
馬車がゆっくりと動き出す。
「ルナ、ミア」
マシューが二人を見る。
「二人はここにいろ。何があっても勝手に馬車から降りるな」
「何かあるの?」
ミアの声から、先ほどまでの明るさが消えていた。
「まだ分からない。ただの勘違いならそれでいい」
そう答えながらも、マシューの視線は外から離れない。リアムも男たちの動きをじっと見ている。
ルナは二人の様子を見て、胸の奥がざわつくのを感じた。
少し前まで、王都の市場について楽しく話していたはずなのに。
馬車の中には、いつの間にか張り詰めた空気が漂っていた。
ルナたちの乗った馬車が通り過ぎようとした、その時だった。
「助けて!」
突然、女性の叫び声が響いた。
ルナが驚いて振り返る。
止まっていた馬車から、一人の女性が転がるように飛び出してきた。
「お願い、助け——」
「おい!」
近くにいた男が女性の腕を掴む。
もう一人も駆け寄り、逃げようとする女性を押さえつけた。
「離して! 誰か——!」
先ほどまでとはまるで違う光景に、ルナは息を呑んだ。
「やっぱりか」
マシューの声が聞こえた。
同時に、女性を押さえている二人を残し、三人の男たちが動いた。
「行かせるな!」
男の一人が叫び、三人が一斉にこちらに向かってくる。
その手には、それぞれ武器が握られている。
マシューは迷わなかった。
「リアム、二人を頼む」
「うん」
短いやり取りを交わすと、マシューは剣を抜いた。
「レオ!」
「……っ!」
「行くぞ」
「ああ!」
マシューが馬車を飛び降りる。
レオも剣を抜き、そのあとを追った。
「二人とも、ここから動かないでね」
リアムがルナとミアを振り返る。
「……うん」
ルナは小さく頷く。
「大丈夫。マシューがいるから」
いつもと変わらない口調だった。
けれど、リアムの目はずっと外に向けられている。
「御者さん」
戦況を確認しながら、リアムが声をかけた。
「何か、縄みたいなものはある?」
「縄ですか?」
「うん。取り押さえたあとに必要になるかもしれないから」
「荷物を固定するものならあります」
「すぐ出せる?」
「はい」
御者は慌てて御者台の下を探り始めた。
リアムはそれを確認しながらも、外に視線を向けている。
ルナもつられるように外を見た。
すでにマシューは、先頭の男と剣を交えていた。
「邪魔するな!」
男が勢いよく剣を振り下ろす。
マシューは身体をずらしてそれをかわすと、相手の腕を剣の腹で強く打った。
「ぐっ……!」
男の手から剣が落ちる。
そのまま体勢を崩した男を地面に叩き倒した。
そこまで、ほんのわずかな時間だった。
すぐにマシューは顔を上げる。
次の男が迫っていた。
「こいつ……!」
振り下ろされた剣を受け止め、そのまま相手に向き直る。
一方、レオの前にも最後の一人が迫っていた。
「くそっ!」
男が剣を振る。
レオはそれを受け止めた。
ガキン、と硬い音が響く。
けれど、いつものようにすぐには踏み込まない。
再び振り下ろされた剣を受け止め、レオが一歩後ろに下がる。
「レオ……」
ルナは思わず呟いた。
いつものレオとは、どこか動きが違う。
そう感じたものの、今はそれを気にしている余裕はなかった。
その時、女性の声が聞こえた。
「離して! 誰か、助けて!」
ルナがそちらを見る。
女性は押さえつけている男たちから逃れようと、必死に身体を捩っていた。
「暴れるな!」
女性が男の手を振りほどく。
そのまま逃げようとした瞬間、一人の男が追いかけた。
「待て!」
男が女性に追いつく。
その手に握られた剣が動いた。
「きゃあっ!」
悲鳴とともに、女性の身体が地面に崩れ落ちる。
「……え?」
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
女性のすぐそばには、剣を手にした男が立っている。
倒れた女性の脇腹から、見る間に服に血が広がっていった。
「大変……!」
考えるより先に身体が動いた。
ルナは馬車を降りようと立ち上がる。
「ルナ、駄目!」
ミアが慌ててその腕を掴んだ。
「でも、あの人が!」
「今行ったら危ないよ!」
ミアの声は震えていた。
ルナの腕を掴む手にも、強く力が入っている。
「でも、早くしないと……!」
「二人とも、まだ出ないで」
少し離れたところから、リアムの声が飛んでくる。
ルナは倒れた女性を見る。
助けなければ。
傷を見て、できることをしなければ。
けれど、女性の近くにはまだ二人の男がいる。
「どうしよう……」
隣から、ミアの小さな声が聞こえた。
見ると、ミアの手が腰の弓に伸びている。
けれど、その指は弓に触れたところで止まっていた。
「ミア……?」
「ごめん。ちょっと待って……」
そう答えるミアの顔は青ざめていた。
それでも、ルナを掴んだ手だけは離さない。
ルナが声をかけようとした、その時だった。
女性のそばにいた二人の男がこちらを向いた。
そして剣を手にしたまま、ルナたちの馬車に向かって走り出す。
「ミア、ルナから離れないで」
リアムが一歩前に出た。
男たちは足を止めない。
「どけ!」
一人が剣を振り上げる。
その瞬間、リアムが地面に向けて手をかざした。
細い雷が街道を走り、二方向へ分かれる。
「ぐっ……!」
「がっ……!」
二人の身体が大きく跳ね、その場に崩れ落ちた。
剣が手から滑り落ち、乾いた音を立てる。
男たちは意識こそ失っていないものの、身体が痺れているのか、起き上がることができない。
「な、何を……」
「しばらく動けないよ」
リアムはそれだけ言うと、男たちから視線を外さなかった。
そこにマシューが駆けてくる。
先ほどまで相手をしていた二人は、すでに地面に倒れていた。
「リアム」
「動けないようにはしてある。御者さんに縄も出してもらった」
「分かった」
マシューは短く答えると、落ちていた剣を蹴って遠ざけた。
御者から縄を受け取り、男の腕を後ろへ回して手早く拘束していく。
「痛っ……!」
「暴れるな」
低い声で言われ、男の動きが止まる。
もう一人も同じように拘束すると、マシューは周囲を確認した。
少し離れたところでは、レオも最後の男を地面に押さえ込んでいた。
「動くな!」
荒い息を吐きながら、相手の剣を遠くに蹴る。
やがてマシューがそちらに向かい、残った男も縄で拘束した。
五人いた男たちは、全員が取り押さえられていた。
それを確認したルナは、すぐに馬車から飛び降りた。
「ルナ!」
後ろからミアの声が聞こえたが、今度は止まらなかった。
地面に倒れている女性のもとに駆け寄り、そのそばに膝をつく。
「大丈夫ですか!」
返事はない。
脇腹の服は血で赤く染まり、呼吸もひどく弱い。
「キュア!」
ルナは傷口に手をかざした。
淡い光が女性の身体を包む。
けれど——。
「……治らない」
傷はほとんど塞がらなかった。
分かっている。
『キュア』で治せるのは、小さな傷だけだ。
こんな深い傷を治せるような力はない。
「そうだ、ポーションなら……!」
ルナは震える手で荷物からポーションを取り出した。
蓋を開け、女性の顔を覗き込む。
「飲めますか……?」
唇に少しだけポーションを触れさせる。
けれど、飲み込む様子はなかった。
「駄目……飲めない……」
どうすればいいのだろう。
『キュア』では治せない。
ポーションも飲んでもらえない。
「お願い……」
ルナはポーションを握ったまま、女性を見る。
助けたい。
けれど、どうすればいいのか分からない。
「ルナ……」
追いかけてきたミアが、すぐそばで立ち止まった。
その少し後ろにはレオもいた。
荒い息を吐きながら、何も言わず女性を見つめている。
その時、女性の唇がかすかに動いた。
「……むす……こ……」
「え?」
ルナが顔を近づける。
「息子……が……」
「息子さん?」
女性の視線が、わずかに馬車の方に向いた。
それを最後に、身体から力が抜ける。
「……え?」
ルナは動けなかった。
「大丈夫ですか? ねえ……」
呼びかけても返事はない。
「……お願い。目を開けて……」
それでも、女性が再び動くことはなかった。
ミアが口元を押さえる。
レオも何も言わず、女性を見つめている。
さっきまで助けを求めていた人が、もう動かない。
ルナには、それがすぐには理解できなかった。
「……息子って言ってた」
ミアが小さく呟く。
「馬車の中にいるのかも」
その言葉に、ルナは顔を上げた。
「探さないと」
立ち上がろうとしたところで、マシューの声が飛んでくる。
「待て」
振り返ると、マシューがこちらに歩いてきていた。
「まだ馬車に誰か残ってるかもしれない。いきなり近づくな」
「あ……」
ルナは足を止める。
息子がいると聞いて、そのことしか考えていなかった。
「レオ」
「ああ。俺が見る」
レオは剣を握り直し、慎重に馬車に近づいた。
けれど、いつものレオとは少し違って見えた。
剣を握る手にも、どこか力が入りすぎているように見える。
ルナはその背中を見つめた。
やがてレオが外から馬車の中を窺う。
「誰かいるか?」
返事はない。
警戒しながら中を確認していき——。
「……子供がいる」
「本当?」
ルナが思わず一歩進む。
「待ってろ」
レオはそう言ってから、剣を鞘に戻した。
馬車の奥、荷物の陰に男の子がうずくまっていた。
顔は青ざめ、こちらを警戒するように見ている。
「もう大丈夫だ。あいつらは捕まえた」
レオは無理に近づかず、その場から声をかけた。
男の子は答えなかった。
レオを見たあと、すぐに外へ視線を向ける。
「……母……さん……」
かすかな声だった。
レオは一瞬、言葉に詰まった。
「……外にいる」
それだけ伝える。
男の子は唇を噛むと、ゆっくりと立ち上がった。
レオは何も言わず、外に出られるように場所を空ける。
男の子は自分の足で馬車から降りた。
そして、倒れている母親を見た瞬間、その場で立ち尽くした。
「……」
顔から血の気が引いていく。
何かを言おうとしたように唇が動いたが、声にはならなかった。
泣き声も上げない。
ただ呆然と、母親を見つめている。
ルナも、何を言えばいいのか分からなかった。
「リアム、こいつらをどうする?」
少し離れたところからマシューの声が聞こえた。
「このままにはできないね。近くの町まで連れていこう。騎士か自警団に引き渡した方がいい」
「そうだな。御者に一番近い町を確認する」
リアムとマシューは、すでに次にすべきことを考えて動き始めていた。
拘束した男たちの武器を集め、逃げられないことを確認する。
御者も二人に言われるまま、馬車の様子を確認していた。
その姿を、ルナはぼんやりと見つめた。
ほんの少し前まで、みんなで王都の話をして笑っていた。
それなのに今は、目の前で一人の女性が倒れ、そのそばには母親を見つめたまま動かない男の子がいる。
何が起こったのか。
どうしてこんなことになったのか。
何も分からない。
ルナは握ったままのポーションに目を落とした。
助けたかった。
けれど、助けられなかった。
隣では、ミアが青ざめた顔で俯いている。
少し離れたところでは、レオが黙ったまま自分の剣を見つめていた。
誰も、何も言わなかった。




