ナキールの町 2.
翌朝。
ルナたちは海鳥亭で朝食を済ませると、早速ナキールの市場に向かった。
「昨日のガルム、あるかな」
「魚から作った調味料だっけ?」
「うん。少し買っておきたいんだ」
昨日の店で食べたガルム。
魚を塩に漬けて作るというその調味料は、独特の香りがあるものの、しっかりとした旨味があった。
焼き魚だけではなく、他の料理にも使えそうだ。
「他にも何か面白いものがあるといいね」
「それも楽しみ」
ルナとミアが話しながら歩く後ろを、レオがついてくる。
市場に近づくにつれ、周囲はどんどん賑やかになっていった。
港で獲れたばかりの魚や貝。山のように積まれた野菜や果物。干した魚や海藻を扱う店もあれば、色とりどりの香辛料を並べた店もある。
威勢のいい売り声があちこちから飛び交い、潮の香りに食べ物の匂いが混じっていた。
「すごい……」
ルナは右へ左へと視線を動かす。
昨日から楽しみにしていた市場だ。見たことのない食材も多く、どの店も気になってしまう。
「ルナ、ガルム探すんじゃなかったの?」
「あ、そうだった」
ミアに言われ、ルナは足を止めた。
危うく目的を忘れるところだった。
「まずガルム。その後でゆっくり見よう」
「絶対途中でまた止まるだろ」
「……なるべく止まらないようにする」
レオの言葉にそう答えたものの、自信はない。
そして案の定、いくつか店を通り過ぎたところで、ルナの足は止まった。
「……あれ?」
店先の籠に、大小さまざまな赤い実が山のように積まれている。
形には多少ばらつきがあるものの、ルナには見覚えがあった。
「これ……」
思わず近づく。
「お嬢ちゃん、トマーテが気になるのかい?」
店主に声をかけられ、ルナは目を瞬かせた。
「トマーテ?」
「ああ。今の時期はよく採れるよ。食べてみるかい?」
「いいんですか?」
店主が小さなものを一つ手渡してくれる。
ルナは礼を言って受け取り、一口かじった。
瑞々しい果肉。
爽やかな酸味と、ほのかな甘み。
「……トマトだ」
「ん?」
「い、いえ。美味しいです」
慌てて誤魔化しながら、もう一口食べる。
見た目だけではない。味も前世で食べていたトマトによく似ていた。
「これって、どうやって食べるんですか?」
「そのままだよ。冷やして食べても美味いぞ」
「料理には使わないんですか?」
「料理? 少なくともこの辺じゃ聞かないなあ。熟したやつをそのまま食べるのが普通だよ」
「そうなんですね……」
どうやらナキールでは、トマーテは野菜というより果物に近い扱いらしい。
もちろん、生でも美味しい。
けれど、煮ても焼いても使えるはずだ。
(何か作れそう……)
ルナは籠いっぱいのトマーテを見つめる。
「買うの?」
隣からミアが覗き込んだ。
「うん。少し買っていこうかな」
「ガルムを探してたんじゃなかったのか?」
「それも探すよ」
「やっぱりこうなったな」
レオが呆れたように言う。
ルナはトマーテをいくつか買うと、今度こそガルムを探して市場を進んだ。
幸い、ガルムはすぐに見つかった。
魚介を扱う店の一角に、昨日見たものと同じ茶色い液体の入った瓶が並んでいる。
「あった!」
店主に聞いてみると、やはり魚を塩に漬けて作った調味料で、ナキールでは珍しいものではないらしい。
焼いた魚につけるほか、料理の味付けに少量使うこともあるという。
「じゃあ、これを一つください」
持ち運びやすい大きさの瓶を選んで購入する。
目的のものも手に入ったところで、三人は改めて市場を見て回ることにした。
干した魚や見慣れない貝、色鮮やかな果物。
店先を覗くたびに気になるものが見つかり、ルナは何度も足を止めた。
「ルナ、今度は何?」
少し先を歩いていたミアが振り返る。
「ちょっと待って。あれ……」
ルナの視線は、一軒の店先に並べられた乾物に向けられていた。
干した魚や海藻の隅に、茶色く硬そうな塊がいくつか置かれている。
見た目だけなら、食べ物というより木片に近い。
けれど、ルナには妙に見覚えがあった。
「これって……」
一つ手に取ってみる。
硬い。表面を指で押したくらいでは、びくともしない。
鼻を近づけると、微かに魚のような香りがした。
(もしかして、鰹節みたいなもの……?)
前世で見たものとまったく同じではない。
それでも、よく似ている気がする。
「おじさん、これって何ですか?」
店主に尋ねると、少し困ったように首を傾げた。
「外国から来る商人が持ってくる魚の乾物だよ。向こうじゃ食べ物らしい」
「どうやって食べるんですか?」
「それがよく分からなくてな。珍しいから仕入れてみたんだが、硬すぎてこっちじゃ全然売れないんだ」
「食べ物なの?」
ミアが驚いたように覗き込む。
「らしいぞ。そのままじゃ、とても食えそうにないがな」
ルナはもう一度、手の中の塊を見る。
やっぱり気になる。
「これ、一つください」
「買うの?」
ミアが目を丸くする。
レオも呆れたように塊を見た。
「使い方も分からないんだろ?」
「うん。でも、知ってるものに似てる気がするの」
「似てるって、これが?」
「多分」
「木みたいだけど」
「食べ物だよ。多分」
「多分ばっかりだな……」
レオが苦笑する。
それでもルナは代金を払い、硬い塊を荷物に加えた。
もし前世の鰹節に近いものなら、薄く削れば出汁が取れるかもしれない。
問題は、この硬さだった。
その後もしばらく市場を見て回っていると、香ばしい匂いが漂ってきた。
「いい匂い」
ミアがすぐに反応する。
匂いのする方を見ると、屋台の前に焼き色のついた丸いパンが並んでいた。
「それ、ナキール名物だよ!」
店主が声をかけてくる。
「名物?」
「ああ。魚包みパンだ。中に魚が入ってる」
「パンの中に魚?」
ルナは興味を引かれて屋台に近づいた。
聞けば、パン生地の中に塩漬けにした小魚と香草を入れ、そのまま焼き上げているらしい。
「せっかくだし、食べてみようよ」
「賛成!」
三人は魚包みパンを買い、市場近くの広場に向かった。
空いているベンチを見つけて腰を下ろし、まだ温かいパンを割ってみる。
中から魚と香草の香りがふわりと立ち上った。
「本当に魚が入ってる」
ミアが面白そうに覗き込む。
ルナも一口食べてみた。
少し硬めのパンに、魚の塩気と旨味がよく合っている。香草の風味もあって、思っていた以上に食べやすい。
「美味しい」
「ね。これ好きかも」
「持ち歩くのにもよさそうだな」
レオの言葉に、ルナも頷く。
「漁に持っていったりするのかもね」
前世にはなかった、この世界の料理。
知っているものに似た食材を見つけるのも楽しいけれど、こうして初めての料理を食べるのも面白い。
ルナは残りのパンも嬉しそうに食べた。
食べ終わったところで、ふと先ほど買った硬い塊を思い出す。
「問題は、これだよね……」
袋から取り出して眺める。
「本当に食べるつもりなの?」
「食べられるならね」
「どうやって?」
「薄く削って、お湯に入れてみたいんだけど……」
もし予想通りなら、それで出汁が取れるはずだ。
「でも、どうやって削るの?」
ミアに聞かれ、ルナは硬い塊を見つめる。
前世なら専用の削り器があった。
けれど、この世界に同じものがあるとは思えない。
そこでふと、向かいに座っているレオを見る。
「……レオ」
「なんだよ」
「風魔法で切れない?」
「は?」
「こう、シュッて」
ルナは指を横に滑らせる。
「薄く」
「簡単に言うなよ」
「でも、風で切ることあるでしょ?」
「あるけど、魔物を斬るのと料理は違うぞ」
「一回だけやってみない?」
ルナが期待を込めて見つめると、レオは嫌そうな顔をした。
「絶対うまくいかないと思うけどな」
そう言いながらも、結局レオは断りきれなかった。
海鳥亭に戻った三人は、宿の裏手を少し借りることにした。
硬い塊をまな板の上に置き、レオがその前に立つ。
「本当にやるの?」
ミアが少し離れたところから見守る。
「弱くやるから大丈夫だ」
レオは塊に手を向けた。
「薄くね」
「分かってるって」
小さく息を吐き、風を放つ。
鋭い風が硬い塊の表面を走った。
次の瞬間。
パキッ。
「あ」
薄く削れるどころか、端の部分が小さく欠けて飛んでいった。
三人の間に沈黙が落ちる。
ルナは飛んでいった欠片と、まな板の上に残された塊を交互に見た。
「……難しいね」
「だから言っただろ」
「もう少し弱くしたら——」
「やらないぞ」
即答だった。
「まだ何も言ってないのに」
「もう一回って顔してた」
その横で、ミアが堪えきれずに笑い出す。
「でも、ちょっと惜しかったんじゃない?」
「どこがだよ」
「切れたことは切れたし」
「ルナがやりたいのは薄く削ることだろ」
「そうなんだよね……」
ルナは再び硬い塊を手に取る。
やはり、魔法でどうにかするのは難しそうだ。
「仕方ない。別の方法を考えよう」
「最初からそうしてくれ」
疲れたように答えるレオを見て、ルナとミアは顔を見合わせて笑った。
「そういえば、ローサさんのご主人って元漁師だったよね」
「ダグさん?」
「うん。魚を扱う道具にも詳しいかもしれないし、何かいい方法を知らないかな」
三人はダグに相談してみることにした。
「これを薄く削りたい?」
事情を聞いたダグは、硬い塊を手に取って眉を寄せた。
「ずいぶん硬いな」
「できそうですか?」
「やってみないと分からんな」
ダグは厨房から包丁を持ってくると、硬い塊をまな板に置いた。
角度を変えながら何度か刃を当てる。
しかし、元漁師のダグでも簡単にはいかなかった。
厚く欠けてしまったり、刃が滑ったりする。
「危ないから、お嬢ちゃんたちは真似するなよ」
「はい……」
しばらく試して、ようやく薄い欠片が一枚落ちた。
「あっ、それです!」
「これくらいか?」
「はい!」
綺麗に削れているとは言い難い。
それでもダグに何枚か削ってもらい、どうにか試せるだけの量を確保した。
「ありがとうございます!」
「しかし、こいつは大変だな。包丁も傷みそうだ」
「そうですよね……」
毎回これをするのは難しそうだ。
それでも、まずは本当に使えるのか確かめたい。
ルナは厨房を借りて湯を沸かすと、削ったものを入れた。
しばらく待つ。
やがて湯気とともに、魚の旨味を含んだ香りが漂い始めた。
(やっぱり……!)
ルナの表情が明るくなる。
少し味を確かめてみると、優しい魚の旨味が口の中に広がった。
「……美味しい」
「できたの?」
ミアも興味津々で覗き込む。
「うん。飲んでみて」
レオとダグにも少しずつ渡す。
「味は薄いけど……美味しいね」
「魚そのものは入ってないのにな」
レオも不思議そうに器を見る。
ダグは一口飲むと、感心したように頷いた。
「なるほどな。こうやって使うものなのか」
「多分、こういう使い方で合ってると思います」
ルナは残った硬い塊を見る。
前世で知っている鰹節そのものかは分からない。
けれど、少なくとも同じように出汁を取ることはできそうだ。
「何だい? みんなして」
そこに、ローサが顔を出した。
事情を聞いたローサも出汁を一口味見する。
「へえ。美味しいねえ。これならスープにも使えそうだ」
「ですよね!」
思わずルナの声が弾む。
「でも、毎回ダグに削ってもらうわけにもいかないね」
「そうなんです」
ルナの肩が少し落ちた。
「もっと簡単に薄く削れたらいいんですけど……」
「そんなに欲しいなら、職人に相談してみたらどうだい?」
「職人に?」
「ああ。欲しい形を説明すれば、作れるかどうかくらいは考えてくれるだろうさ」
ルナは目を瞬かせた。
「……そっか」
前世にあった道具が、この世界にもあるとは限らない。
これまでは、なければ別の方法でどうにかすることばかり考えていた。
けれど、自分で作れなくても、作れる人に相談するという方法もある。
(そういうのもありなんだ)
今すぐ必要というわけではない。
この魚の乾物だって、いつでも手に入るものなのか分からない。
それでも、覚えておこう。
「ありがとうございます、ローサさん」
「どういたしまして」
ローサが笑う。
トマーテにガルム。
そして、鰹節によく似た魚の乾物。
市場を歩いただけなのに、気になるものがいくつも見つかった。
ルナは残った硬い塊を手に取りながら、まずは買ってきた食材で何を作ろうかと考え始めた。




