1-5
翌朝。
目を覚ましたルナは、ぼんやりと天井を見つめていた。
昨夜、自分で決めたことを思い返す。
この家を出る。
その決意は、一晩経っても揺らいではいなかった。
「まずは、どこへ行こう……」
ベッドから起き上がり、窓辺に歩いていく。
朝日に照らされた王都は、今日も穏やかだった。
最初に思い浮かんだのは、兄が留学している国だった。
けれど、すぐに首を横に振る。
「……だめね」
兄がいる国なら、両親も真っ先に探すはずだ。
見つかる可能性が高すぎる。
だったら反対方向だ。
ふと、家庭教師から教わった、海を渡った先にあるエレンジア王国のことを思い出した。
他国から来た人も多く、比較的開かれた国だと教わった。
王都から西に向かえば、大きな港町がある。
そこから船が出ていたはずだ。
それに、港町なら人の出入りが多い。
王都を離れた後、身を隠しやすいかもしれない。
「でも、その前に……」
現実は甘くない。
家を出るには、お金が必要だ。
宿代も、食事代も、船に乗るためのお金も。
何も持たずに飛び出すわけにはいかない。
ルナは部屋の奥に置かれた小さな宝石箱に視線を向けた。
家紋の入った品や、母から受け継いだものは売れない。
自分への個人的な贈り物の中から、特徴の少ない小さな宝石だけを選ぶ。
「これなら……」
全部ではない。
いくつか売れば、旅を始めるくらいのお金にはなるかもしれない。
そう考えたところで、ルナは困ったように眉を下げた。
「……でも、私一人じゃ無理よね」
宝石を売る方法も分からない。
そもそも、貴族の令嬢が一人で店に行けば目立ってしまう。
誰か、協力してくれる人が必要だった。
そう考えた時、真っ先に思い浮かんだのはミアだった。
十歳の頃からずっとそばにいてくれた少女。
どんな時も、自分の味方でいてくれた。
きっと事情を話せば、力になってくれる。
そう思えた。
けれど同時に、迷いもあった。
「巻き込んでは、だめよね……」
家を出るのは自分の決断だ。
ミアにはミアの人生がある。
一緒に来てほしいなんて、とても言えない。
それでも、宝石を売ることだけは、一人ではどうにもならなかった。
「……まずは、相談だけ」
それくらいなら。
ミアには王都の平民街や孤児院とのつながりがある。
きっと何か知恵を貸してくれる。
ルナは小さく頷いた。
ちょうどその時、廊下から使用人たちの慌ただしい足音が聞こえてくる。
屋敷中が、お披露目式の準備で慌ただしくなり始めていた。
「夕食の後に、お話ししよう」
そう決めると、ルナはゆっくりと部屋を後にした。
夕食の時間。
食堂には、家族四人が顔をそろえていた。
けれど、話題は自然とリアのことばかりになる。
「神殿ではどのようなお話があったのですか?」
母が尋ねると、リアは少し困ったように笑った。
「聖女候補として学ぶことや、これからの生活について教えていただきました」
「急に環境が変わって大変でしょう」
「はい。でも、エリシア様も大神官様も、とても優しくしてくださいました」
父は満足そうに頷く。
「それなら安心だ」
食事が一段落した頃、父がナプキンを置き、口を開いた。
「ルナ」
「はい」
「お披露目式のことだが、お前は出席しなくてよい」
ルナは父を見つめた。
驚きはしなかった。
それでも胸の奥が、少しだけ締め付けられる。
父は落ち着いた口調で続ける。
「今回はリアを聖女候補として紹介するための式だ。お前が出席する必要はない」
「……承知しました」
「式が終わるまでは神殿や王宮とのやり取りも増える。屋敷も慌ただしくなるだろう。お披露目が終わるまでは、屋敷で静かに過ごしていなさい」
「はい」
父の言葉に責めるような響きはなかった。
ただ、それが当然であるかのような口調だった。
もともと参加するつもりはなかった。
それでも、昨日までなら胸を締め付けていた言葉が、今はどこか遠く感じられた。
リアが一瞬だけ視線を向ける。
けれど、すぐに父の話へと意識を戻した。
食卓には再びリアの話題が戻る。
神殿での生活。
お披露目式の準備。
招待される貴族たち。
ルナは食事を終えると、小さく一礼した。
「ごちそうさまでした」
ルナは静かに食堂を後にした。
廊下には食器を片付ける使用人たちが慌ただしく行き交っていた。その中に、見慣れた姿を見つける。
「ミア」
「あ、ルナ様」
ミアはすぐに足を止め、一礼した。
「お食事はお済みになりましたか?」
「ええ」
ルナは周囲を一度見回し、小さく声を落とす。
「今日、お仕事が終わったら私の部屋に来てもらえる?」
いつもより少し真剣な表情だった。
ミアも何かを感じ取ったのだろう。
「……かしこまりました」
「待ってるわ」
そう言い残し、ルナは自室に戻っていった。
夜になり、屋敷が静けさを取り戻した頃。
控えめなノックの音が響いた。
「ルナ様、ミアです」
「入って」
扉が開き、ミアが部屋に入ってくる。
いつもと変わらない様子に見えたが、その瞳には心配の色が浮かんでいた。
「お待たせしました」
「来てくれてありがとう。座って」
ルナが椅子を勧めると、ミアは素直に腰を下ろした。
「それで、お話というのは……」
ルナはすぐには答えられなかった。
どう伝えればいいのか迷い、膝の上で両手を握る。
「昨日ね、お父様たちの話を聞いてしまったの」
「旦那様たちのお話ですか?」
「ええ」
ルナは一度息を整えてから、ミアを見つめた。
「お披露目式が終わったら、私は修道院に入れられるみたい」
一瞬、ミアの表情が固まった。
「……え?」
聞き間違いではないかと確かめるように、ルナを見つめる。
「お父様とお母様が、そう話していたの。今はリアの準備で忙しいから、お披露目式が終わってから話を進めるつもりみたい」
「そんな……」
ミアは膝の上で拳を握りしめた。
「どうしてですか。ルナ様は何も悪くないのに」
「属性がなかったからでしょうね」
「そんな理由で修道院に入れるなんて、おかしいです!」
思わず声が大きくなり、ミアは慌てて口元を押さえた。
扉の向こうを気にするように振り返ってから、今度は声を落として続ける。
「申し訳ありません。でも……納得できません」
「ありがとう」
ルナが微笑むと、ミアは悔しそうに唇を噛んだ。
「私のために怒ってくれる人がいるだけで、少し安心したわ」
「当然です。私はルナ様の侍女ですから」
迷いなく返された言葉に、ルナの胸がわずかに温かくなる。けれど、今はそれだけを話すためにミアを呼んだわけではなかった。
「それでね、私……修道院には行かないことにしたの」
ミアが目を見開く。
「この家を出ようと思っているの」
「家を……」
驚いてはいたものの、ミアはすぐに否定しなかった。
真剣な表情でルナの言葉を待っている。
「お父様たちが修道院に話を通す前に、王都を出るつもりよ」
口にすると、自分の決意が改めて形になったような気がした。
「王都を出たあと、まずは西の港町を目指そうと思ってるの。港町なら人の出入りも多いでしょう。そこからエレンジア王国に渡れたらとも考えてるの」
「遠いですね」
「ええ。それに、王都の外を旅した経験もないわ」
街道の様子も、旅にどれほどお金がかかるのかも分からない。自分一人では、王都を無事に出ることさえ難しいだろう。
「だから、ミアにお願いがあるの」
「何でしょう」
「私物の宝石をいくつか売りたいの。でも、私が直接お店に持っていくわけにはいかないでしょう?」
貴族令嬢が宝石を売ろうとすれば、すぐに怪しまれる。
店からフィールズ家に連絡が入る可能性もある。
「平民街のことを知っているミアなら、信頼できるお店を探せないかと思って」
「分かりました。売れそうなお店を探してみます」
「お願いできる?」
「もちろんです」
ミアは迷わず頷いた。
「これから忙しくなりますね」
「え?」
ルナはきょとんと目を瞬かせる。
「それって……」
「もちろん、私も一緒に行きます」
「だめよ」
「どうしてですか?」
「屋敷を黙って出れば、あなたまで責任を問われるかもしれないのよ」
ただ仕事を失うだけでは済まない可能性もある。
ミアがルナをそそのかした、あるいは連れ出したと思われるかもしれない。
「今までの暮らしも、侍女としての仕事も失うことになるわ。どこへ行くかも、これからどうやって暮らすかも決まっていないのよ」
「分かっています」
「分かっていないわ」
思わず強い口調になり、ルナは小さく息を吐いた。
「ごめんなさい。でも、私はミアまで巻き込みたくないの」
ミアにはミアの人生がある。
安定した仕事を捨て、先の見えない逃亡に付き合わせることなどできない。
「宝石を売ることを手伝ってくれるだけで、本当に十分だから」
ミアはしばらく黙ってルナを見つめていた。
やがて、少し困ったように笑う。
「ルナ様は、やっぱりルナ様ですね」
「どういう意味?」
「自分のことより、すぐにほかの人の心配をしてしまうということです。でも……私は誰かに命じられてついていくわけではありません」
ミアの表情から笑みが消える。
「自分で、ルナ様と一緒に行きたいと思っているんです」
「この屋敷を出れば、今までと同じ生活はできないわ」
「はい」
「危険な目に遭うかもしれないのよ」
「それでも、一緒に行きます」
答えに迷いはなかった。
「ルナ様が修道院に送られるのを知りながら、何もせずにこの屋敷に残る方が、私は後悔します」
真っすぐ向けられた視線に、ルナはそれ以上言葉を続けられなかった。
ミアは同情だけで言っているのではない。
危険も、失うものも分かったうえで、自分の意思で決めている。
「……本当にいいの?」
「はい」
「後になって、私と来なければよかったと思うかもしれないわ」
「その時は、その時に考えます」
あまりにも迷いのない返事に、ルナは小さく笑ってしまった。
「そんな簡単に言って」
「まだ何も始まっていませんから、今からすべてを心配しても仕方ありません」
「それはそうかもしれないけれど……」
ミアは少しだけ身を乗り出す。
「一人より二人の方が、きっとできることも増えます」
「……そうね」
ルナは迷った末に、ゆっくりと頷いた。
「分かったわ。一緒に来てくれる?」
「もちろんです」
ミアの表情が明るくなる。
けれど、すぐに何かを考えるように眉を寄せた。
「ただ、私たち二人だけで王都の外へ出るのは危険だと思います」
「私も、それは考えていたの」
王都の中ならともかく、街道には魔物や盗賊が出ることもある。旅慣れていない少女二人で移動するのは、あまりにも危険だった。
「護衛を雇う必要があると思うの。でも、冒険者ギルドに依頼を出せば、名前や身元を確認されるでしょう?」
「そうですね。旦那様たちに知られずに正式な依頼を出すのは、難しいかもしれません」
ミアは少し考えた後、遠慮がちに口を開いた。
「実は、孤児院にいた頃、兄のように慕っていた人がいるんです」
「兄のような人?」
「はい。レオといって、今は冒険者をしています」
初めて聞く名前だった。
「信用できる人なの?」
「はい」
ミアは迷わず答えた。
「私や孤児院の子どもたちを、何度も助けてくれた人です。今でも時々孤児院に顔を出していますし、私も休みの日に会うことがあります。その人に、相談してみようと思います」
ミアの言葉に、ルナはすぐには頷かなかった。
「家出のことを全部話すの?」
「いえ。ルナ様の許可なく、詳しい事情を話すつもりはありません」
「それなら……」
ルナは少し考える。
ミアを信じているからといって、会ったこともない相手を無条件で信用することはできない。
「まずは、貴族の娘が事情があって王都を離れたがっている、とだけ伝えてもらえる?」
「分かりました」
「それから……その人に会うことはできないかな」
「ルナ様が、レオにですか?」
「ええ」
協力を頼むのであれば、本人と直接話したい。
どんな人物なのか、自分の目で確かめる必要もある。
「この屋敷に呼ぶのは危険でしょうか」
「普段なら難しいと思います。でも今は、お披露目式の準備で神殿や商人の方々が頻繁に出入りしています」
リアの衣装や贈り物のため、屋敷を訪れる人は日ごとに増えている。
使用人たちも忙しく、普段ほど周囲に目が行き届いていない。
「その中に紛れてもらえば、ルナ様のお部屋までお連れできるかもしれません」
「見つからない?」
「絶対とは言えません。でも、使用人用の通路を使えば可能だと思います」
ミアは少し考えてから続ける。
「明日、冒険者ギルドに寄ってみます。レオの予定を聞けるかもしれません。レオがいれば事情を話して、ルナ様に会ってもらえないか聞いてみます」
「仕事は大丈夫?」
「買い出しを頼まれているので、その途中で寄れます。長くは話せませんが、伝えるだけなら問題ありません」
「無理はしないでね」
「はい」
ルナは小さく息を吐いた。
まだ、家を出る方法は何一つ決まっていない。
宝石を売れるかも分からない。
レオという冒険者が力を貸してくれる保証もなかった。
それでも、一人で考えていた昨日までとは違う。
今は隣にミアがいる。
「ありがとう、ミア」
「お礼を言うのは、無事に家を出てからにしてください」
ミアはそう言って笑った。
「そうね」
ルナも小さく笑みを返す。
明日、ミアがレオに会う。
家を出るための計画が、ようやく少しずつ形になり始めていた。




