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自室に戻ったルナは、扉を閉めると、そのまま背中を預けた。執務室で聞いた言葉が、何度も頭の中を巡っていた。
(……修道院)
その言葉だけが、胸の奥に重く沈んでいく。
しばらくそのまま目を閉じていたが、やがて窓際の椅子に腰を下ろした。
窓の外では、夕暮れの柔らかな光が庭を照らしている。
見慣れた景色だった。
「……涙、出ないんだ」
ぽつりと呟く。
悲しいはずなのに、不思議なくらい頭は冷静だった。
父も母も、自分を苦しめるために修道院に送ろうとしているわけではない。
そう思おうとした。
修道院なら衣食住には困らない。家にとっても、自分にとっても、それが一番なのだと。
「でも……」
ルナは両手をぎゅっと握りしめる。
「私のせいで、リアに余計な面倒が増えるのかな」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。
国中が注目する存在になるリアと、親しくなりたいと思う人は多くいるだろう。その人たちに、リアに近づくために利用されるのだろうか。
ルナはゆっくりと目を閉じる。
修道院に入れば、俗世を離れ、生涯を祈りに捧げることになる。
外に出ることも、結婚することもない。
決して悪い場所ではない。自ら望んで入る者もいる。
けれど、十五歳のルナには、そこで一生を終える覚悟などなかった。
ふと、幼い頃のことを思い出す。
ルナとリアは、小さい頃からよく似ていると言われていた。髪の色こそ違ったが、顔立ちのよく似た双子だった。
「本当に可愛らしいお嬢様方ですね」
親戚や父の知人が屋敷を訪れるたび、そう声をかけられた。
そのたびにルナは、どう返せばいいのか分からなくなった。
『ありがとうございます』と言えばいいと頭では分かっていても、恥ずかしくてうまく笑えない。
結局、小さく頭を下げることしかできなかった。
一方のリアは違う。
にこりと笑って、『ありがとうございます』とお礼を言い、『今日は素敵なお召し物ですね』と自然に相手を褒め返すことまでできた。
その笑顔につられて、大人たちも嬉しそうに笑った。
「リアお嬢様は笑顔が素敵だ」
「ルナお嬢様は少し照れ屋なのかな」
最初はそんな言葉だった。
けれど、年齢を重ねるにつれ、それは少しずつ変わっていった。
「お姉さんは少し愛想がありませんね」
「妹さんは本当に愛嬌がある」
悪意のある言葉ではなかった。
ただ、何気ない一言。
それでも幼いルナの胸には、小さな棘のように刺さっていった。
リアは何も悪くない。
むしろ、すごいと思っていた。
初対面の相手にも自然に笑いかけ、楽しそうに言葉を交わせるリアが、ルナは羨ましかった。
自分にも同じことができればと、何度も思った。
だからこそ、自分は別のところで頑張ろうと思った。
勉強も、礼儀作法も、刺繍も、ダンスも。
母の厳しい指導に泣きそうになっても、歯を食いしばって努力を続けた。
少しでも頼りになる娘になれば……。
それが自分にできることだと信じていたから。
そんなルナを見て、父も母も褒めてくれた。
「偉いぞ、ルナ」
「よく頑張っていますね」
だから疑ったことはなかった。
二人とも、リアも自分も同じように愛してくれているのだと。ただ、期待されることが少し違うだけなのだと、そう信じていた。
けれど、違ったのかもしれない。
今になって思えば、父と母が何を一番大切にしていたのか、その答えはずっと変わっていなかったのかもしれない。
父は、家を守る人だった。
『フィールズ家を次の代へ繋ぐことが、当主である私の役目だ』と、幼い頃から何度も言っていた。
いつも家全体を見ていて、子どもたちにも良い縁談を望んでいた。
家のためになる縁談こそが、娘の幸せでもあると信じていたのだろう。
母もまた、フィールズ家の夫人としての立場を何より大切にしていた。
母方の祖母はかつて王家の家庭教師を務めたことがあり、それは母にとって何よりの誇りだった。
だからこそ、幼い頃からルナとリアには厳しく礼儀作法を教えてきた。
少しでも姿勢が崩れれば注意された。
挨拶の仕方。
歩き方。
食事の作法。
何度も繰り返し教え込まれた。
その厳しさにも、母なりの愛情があるのだと信じていた。
でも——。
『属性なしの娘』
その事実は、母が思い描いていたルナの将来を大きく変えるものだったのかもしれない。
「私が、お父様とお母様を困らせてしまうなら……」
そこまで口にして、首を振った。
「違う」
それは本心ではなかった。
理解しようとしているだけだ。
本当はただ、大丈夫だと、変わらず娘だと言ってほしかった。
コンコン、と控えめなノックが部屋に響く。
「ルナ様?」
聞き慣れた声に、ルナは顔を上げた。
「ミア?」
「失礼いたします」
扉が静かに開き、ミアが部屋に入ってきた。
ミアはルナの表情をそっと窺う。
「……何か、ありましたか?」
その問いかけは優しかった。
けれどルナは、首を横に振る。
「何でもないわ」
「ルナ様」
「本当に大丈夫」
そう微笑んでみせると、ミアはそれ以上追及しなかった。無理に聞いても答えてくれないことを、ミアは知っていた。
「そういえば」
ミアが話題を変えるように口を開く。
「お披露目式は十日後に開かれるそうですね」
「ええ」
思ったより早い。
それだけ、光属性が特別な存在なのだろう。
「それと、執事のセバスさんが、マイケル様にお手紙を出すとおっしゃっていました」
ルナはゆっくりと顔を上げる。
「お兄様に?」
「はい。リア様のお披露目式が決まったことをお伝えして、お戻りいただけるかどうか、お伺いするそうです」
「そう……」
兄、マイケル。ルナたちより三歳年上の兄は、現在は他国に留学しており、フィールズ家を離れて生活している。
急な知らせだ。今から手紙を送ったとしても、お披露目式に間に合うかは分からない。
「セバスさんも、『難しいかもしれませんが』とおっしゃっていました」
ルナは静かに頷いた。
「教えてくれてありがとう」
「いえ」
ミアは少しだけ迷うような表情を浮かべる。
「……ルナ様、本当に何もありませんか?」
やはり気付かれている。
ずっとそばにいてくれたミアには、隠し事などできないのかもしれない。
それでも今は、まだ誰にも話す気にはなれなかった。
「大丈夫よ」
ルナは穏やかに微笑む。
「少し疲れただけだから」
その笑顔を見つめ、ミアは息をついた。
「……分かりました」
それ以上は何も言わず、ミアは部屋を出ていった。
扉が閉まる音が、いつもより少しだけ大きく聞こえた。
部屋に静けさが戻る。
ルナは窓の外に目を向けた。
「お兄様……」
小さく、その名を呟く。
幼い頃から優しい兄だった。
勉強で分からないことがあれば教えてくれた。
庭で転んで泣けば、そっと手を差し伸べてくれた。
母に厳しく叱られた日は、『よく頑張ったな』そう言って頭を撫でてくれたこともある。
そんな兄が、ルナは好きだった。
「でも……」
静かに目を伏せる。
兄は優しい。けれど、それだけだった。
父に逆らう姿を見たことはない。
フィールズ家の跡継ぎとして育てられ、その責任を誰よりも理解しているからこそ、両親の考えを否定することはしないだろう。
「修道院……」
以前のルナなら、嫌だと思っても家の決定に従おうとしたのかもしれない。
貴族の娘として生まれた以上、家の決定に従うのは当然だと教えられてきたからだ。
けれど、今はもう違う。
前世では、進む学校も、目指す仕事も、自分で選ぼうとしていた。
働いて、自分の暮らしを支え、自分の人生を生きている人たちを知っている。
この世界にも、平民として働く人や、冒険者として各地を巡る人がいる。
ただ、貴族令嬢である自分には無縁だと思い込んでいただけだ。
「修道院には、行きたくない」
初めて、はっきりと口にした。
父も母も、考えを変えないだろう。
兄が戻ってきたとしても、父の決定を覆せるとは思えない。
ならば、自分で逃げるしかない。
怖くないわけではなかった。
お金も、身分証も、王都を出る方法も必要になる。
一人で生活できる保証もない。
それでも、前世で学んだことがある。
料理なら、この世界でも誰かの役に立てるかもしれない。
働いて、生きていけるかもしれない。
修道院の中で、誰かに決められた一生を送るよりも。
「……やってみよう」
ルナは椅子から立ち上がり、窓の外を見つめた。
夕焼けに染まる王都の向こうには、まだ見たことのない世界が広がっている。
「この家を出よう」
口にした言葉は、不思議なくらいすんなりと胸に落ちた。




